第37話 惑星の逆行と、内緒のダンス
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、雪に閉ざされた冬の午後。外に出られず退屈しきった聖女様が「ノエル、ワタシと踊って!」と言い出した時。
それがどれほど突拍子もない要求であっても、主の運動不足解消とストレス軽減のためならば、即座にステップを踏む用意がある。
公の場では決して見せない、密室限定の遊戯に付き合うこと。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドのレクリエーションである。
***
「いち、に、さんっ。いち、に、さんっ」
私室の絨毯の上で、聖女様がご機嫌な声でリズムを刻んでいる。
私たちは両手を取り合い、部屋の中心をぐるぐると回るようにステップを踏んでいた。
伴奏はない。聖女様の足音と、私の静かな靴音だけが音楽代わりだ。
「ノエル、上手だね!昔どこかで習ったの?」
「メイドとしての基礎教養です。万が一、夜会等で急遽パートナーが必要になった際の代役を務めるためですので」
半分は本当だが、半分は嘘だ。
かつて王都の天文台にいた頃、貴族の出資者たちを歓待する夜会で嫌というほど踊らされた経験の産物である。
「でも、なんだかノエルの顔、少し難しいこと考えてるみたい」
「……申し訳ありません。ステップに集中します」
「ううん、違うの。お空のこと考えてる時の顔だなって」
図星だった。
私は聖女様と手を取り合って回りながらも頭の片隅で、昨夜観測した「ある星」の軌道データに悩まされていたのだ。
惑星。
夜空の星々は通常、一枚の巨大な天井に描かれたように、同じ位置関係を保ったまま一晩で東から西へと動いていく。
だが、惑星と呼ばれるいくつかの特別な星だけは、他の星々とは違う動きをする。何日もかけて少しずつ東へ移動していくのだ。
問題は、その移動が時折「逆戻り」することだった。
東へ進んでいた惑星が、ある時期になると不自然に西へ逆行し、また東へ進み始める。
天動説──地球が宇宙の中心であるというモデルでは、この逆行現象を説明するために、星が「小さな円を描きながら、さらに大きな円を描いて回っている」という、極めて不自然で複雑奇怪な軌道を想定しなければならない。
私の「大地が太陽の周りを回っている」という仮説でも、この惑星の逆行だけはどうしても説明がつかずにいた。
「ノエル、もっと早く回ろっか!」
「お怪我をなさいませんよう」
聖女様が私の手を引き、少しだけ回転の速度を上げた。
私たちは部屋の中心にあるテーブルの周りを、私が内側、聖女様が外側になるようにして、大きな円を描いて回り始めた。
その時だった。
ふと、内側を速いステップで回っていた私が、外側を少し遅いステップで回る聖女様を「追い越した」瞬間。
私の目には、壁のタペストリーを背景にして、聖女様が「後ろへ下がっていく」ように見えたのだ。
(──!)
私は、雷に打たれたように足を止めた。
勢い余った聖女様が、あっと声を上げて私の胸にぶつかってくる。
「わわっ、ごめん!ノエル、急に止まったから」
「……」
「ノエル?」
私は聖女様を抱き止めたまま、目の前の空間を凝視していた。
頭の中でバラバラだったパズルのピースが、恐ろしいほどの速度で組み上がっていく。
「私」が大地で、「聖女様」が外側を回る惑星だ。
もし、私たちの大地が、他の惑星よりも『内側を速い速度で』太陽の周りを回っているとしたら?
大地が外側の惑星を「追い越す」時、大地から見れば、外側の惑星は背景の星々に対して「後ろへ下がっている」ように見えるはずだ。
惑星が実際に逆戻りしているのではない。
私たちが、追い越しているのだ。
「……信じられない」
私の口から、震える声が漏れた。
天動説の不自然で醜い軌道モデルが、音を立てて崩れ去っていく。
太陽を中心に、それぞれの惑星がただシンプルな「円」を描いて回っているだけ。
たったそれだけで、宇宙のすべての星の動きが完璧に説明できるのだ。
なんというシンプルさ。なんという、完璧な美しさ。
「ノエル……?どうしたの?泣いてるの?」
聖女様が不安そうに私を見上げていた。
私は自分の頬に触れた。一筋だけ、熱いものが伝っていた。
悲しいのではない。あまりにも美しい真理に触れた時、学者は涙を流すことしかできないのだ。
「……いえ。少し目が回っただけです」
私は聖女様を優しく離し、深く一礼した。
「聖女様。素晴らしいダンスでした。私一人では、決して辿り着けないステップでした」
「ほんと?えへへ、ワタシとノエルの内緒のダンスだね!」
聖女様は私の言葉の本当の意味を知る由もない。
だが、それでいい。彼女の純粋な動きが、私に宇宙の真理を教えてくれたのだから。
***
夜。『観察ノート』を開く。
暖炉の前で並んで座り、それぞれにペンを持つ。
聖女様が、元気な文字で書き始める。
【今日はお部屋の中でノエルとダンスを踊った!いち、に、さん、って回るの、すごく楽しかった。途中でノエルが急に止まって、ちょっとだけ泣きそうな顔をしてた。でも、「素晴らしいダンスでした」って言ってくれたから、きっと楽しかったんだと思う。また一緒に踊りたいな!】
私はその横のページに、手が震えるのを抑えながら、細いペン先で図を書き込んだ。
太陽を中心とした、大地と外惑星の二つの同心円の軌道。
内側を速く回る大地が、外側を遅く回る惑星を追い越す時の「視界の逆転現象」の図解。
書き終えて、右下の隅に一行添える。
『惑星の逆行現象は、公転速度の差による相対的な視覚効果に過ぎない。大地は太陽の周りを回っている。すべての軌道計算が完了した。理論的矛盾は、もはや一つも存在しない』
ペンを置く。
私室の静けさの中で、私の心臓だけが大きく鳴っていた。
私はついに、宇宙の真実の姿を証明したのだ。
残された時間は、春を待つばかりとなった。
残り3話となります。




