第36話 年越しの鐘と回折、一番の理解者
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、新しい年を迎える除夜の鐘が鳴り響く夜。
一年で最も寒さが厳しくなる時間帯に、外の鐘楼を見上げようとする聖女様の肩に、すかさず厚手のショールを掛ける必要がある。
神聖な鐘の音よりも、目前の防寒対策を優先すること。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの年越しである。
***
ゴォォォォン……。
深夜の教会に、重厚な鐘の音が響き渡った。
年が明けたのだ。この街の人々は、暖かい暖炉の前でこの音を聞きながら、新しい一年を祝っていることだろう。
「ノエル、あけましておめでとう!」
私室の窓辺で、聖女様が満面の笑みで振り返った。
私は彼女の肩にショールを掛け直しながら、静かに頭を下げる。
「おめでとうございます、聖女様。本年も、体調管理とスケジュールの遵守にご協力をお願いいたします」
「もう!新年早々お仕事の話ばっかり!」
聖女様は口を尖らせたが、すぐに機嫌を直して窓の外の鐘楼を見上げた。
ゴォォォォン……。
「ねえ、ノエル。鐘の音って不思議だね。ワタシたちの部屋は教会の裏側で、鐘楼との間には分厚い石の壁や屋根がいっぱいあるのに、どうしてこんなにはっきり聞こえるの?壁を突き抜けてるの?」
「突き抜けているのではありません。『回折』しているのです」
「かいせつ?」
「はい。音は空気の振動の波です。波は、障害物にぶつかると、その後ろ側に回り込むという性質を持っています。だから、壁の向こう側にも鐘の音は届くのです」
波長が長い低い音ほど、回折して遠くまで回り込みやすい。
だから鐘の重低音は、街の隅々にまで行き渡る。
「じゃあ、どんなに分厚い壁の裏に隠れてても、鐘の音は届いてくれるんだね。優しいね」
「音波の物理的性質を擬人化するのはいかがなものかと」
「でも、ちゃんと届いてるでしょ?」
聖女様の言う通りだった。
鐘の音は壁を回り込み、閉ざされた窓の隙間を抜け、確実にこの部屋に届いている。
***
「そういえばノエル、お昼に届いた手紙、もう読んだ?」
聖女様が、机の上に置かれていた封筒を指差した。
王都の公儀査察官、セナからの手紙だった。
聖夜祭の夜に侵入者を撃退した後、サージ司教の報告とは別に、個人的な宛名で私に届いたものだ。
私はペーパーナイフで封を切り、便箋を開いた。
そこには、几帳面な文字で事務的な新年の挨拶が書かれていた。
そして、後半に短い追伸があった。
『追伸。先日の夜、そちらの教会の庭で発生した「不運な転倒事故」については、王都にて適切に処理されました。当該人物は酒に酔っての単独事故として厳重注意を受けております。
また、天文台の古い書庫の整理が完了しました。ある優秀な学者が残した未完の観測記録は、今後の参考にすべく私が個人的に保管しておくこととします。その学者はとうの昔に病死したことになっておりますので、記録の続きが送られてくることはないでしょうが、それで構いません。
新年の冷え込み厳しき折、優秀なメイド殿におかれましては、どうぞご自愛ください』
読み終えて、私は小さく息を吐いた。
病死したことになっている。
つまり、彼女は異端の学者としての私を王都の記録から完全に抹消し、隠蔽してくれたのだ。
もう、誰も私を追ってくることはない。
私は、この教会のメイドとして、ただナナメ後ろに立ち続けることができる。
「セナちゃん、なんて言ってた?」
「……新年のご挨拶と、ただの事務連絡です」
「ふーん。でもノエル、なんだか少しホッとした顔してる」
聖女様の直感は、分厚い壁を回り込む鐘の音のように、私の内側の柔らかい部分に正確に届く。
「……ええ。少しだけ肩の荷が下りたような気がします」
「そっか!よかったね!」
聖女様は私の言葉の裏を探ることなく、ただ無邪気に笑った。
かつての天文台の後輩であるセナが、書類の上で私を救ってくれた。
そして目の前の聖女様が、ここにいる私を肯定してくれている。
私はもう、一人で戦う必要はなかった。
***
夜。『観察ノート』を開く。
新年を迎えたばかりの真夜中だが、今日は特別だ。
聖女様が、元気な文字で書き始める。
【あけましておめでとう!鐘が大きく聞こえた。ノエルが音は壁を回り込んで届く『かいせつ』っていう性質があるって教えてくれた。見えないところにもちゃんと届くって、素敵なことだと思う!今年もノエルと一緒にお茶を飲んで、いっぱい観察ノートを書くぞ!】
私はその横のページに、細いペン先で図を書き込んだ。
音波の回折現象を示す、波面の回り込みの図解。
そして、その下に。
『低周波の音波は、どんな強固な障害物をも回り込み、目的の場所へと到達する。それは、遠く離れた王都から届いた理解者の手紙のようでもあり、目の前にいる人の、理屈を超えた直感のようでもある』
書き終えて、右下の隅に一行添える。
『過去は完全に清算された。残された仕事はメイドとしての責務と、このノートを完成させることだけだ。新年が明け、春が近づいている。観測は、最終段階に入る』
ペンを置く。
外ではまだ、かすかに除夜の鐘の余韻が響いていた。
新しい年が始まった。
太陽が再び空を高く昇り始めるように、私の日々もまた、光の差す方へ向かって静かに動き出していた。
残り4話となります。




