第32話 ドラゴンの呼吸と白い息、冬の庭
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、氷点下に近い冬の庭で、子供たちに混ざって遊ぶ聖女様を見守る時。
彼女の手が完全に冷え切る三分前に、火から下ろしたばかりの温かいスープを用意して待機する。
凍えるような寒さの中でも、そのタイミングだけは絶対に外さない。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの温度管理である。
***
「がおーっ!炎のドラゴンだぞー!」
教会の庭で、孤児院の少年が大きく息を吐き出した。
口から真っ白な息が吐き出され、冬の冷たい空気の中に煙のように広がっては消えていく。
「きゃー!逃げろー!」
聖女様が子供たちと一緒に悲鳴を上げて逃げ回る。
そして振り返り、自らも大きく息を吸い込んだ。
「ワタシは氷のドラゴン!ひゅーっ!」
聖女様の口からも、見事な白い息が吐き出された。
子供たちが歓声を上げて一斉に真似をし始める。
庭のあちこちで、小さなドラゴンたちが白い息を吐いて戦っている。
「ノエルおねーちゃんもドラゴンやって!」
少年の一人が、私の前に立ちはだかって息を吹きかけてきた。
「……私の息は白くなりませんよ」
「ええっ、なんで!?」
「私は爬虫類ではなく、メイドだからです」
冗談で言ったつもりだったが、子供は「メイドってすごい!」と妙な納得をして走り去っていった。
私の息が白くならないのには、単純な理由がある。
息が白くなるのは、吐き出された温かい水蒸気が、外の冷気で急激に冷やされて細かな湯気になるからだ。
つまり、口を大きく開けて「はぁー」と温かい息を吐けば白くなり、唇をすぼめて「ふぅー」と細く吐けば、外気と混ざる前に拡散して白くなりにくい。
私は後者の呼吸を意識しているだけだ。
とはいえ、気温は確実に下がっている。
私は手元の時計を確認した。
聖女様が外に出てから四十分。そろそろ限界だ。
私は厨房へ戻り、保温しておいた鍋からスープをカップに注いだ。
***
「はい、休戦です。温かいスープをどうぞ」
私が庭に現れると、子供たちと聖女様が一斉に群がってきた。
全員の鼻の頭が見事に赤くなっている。
「ありがとうノエルー!あったかい!」
「指先が冷え切る前に飲んでください」
聖女様は両手でカップを包み込み、幸せそうにスープを飲んだ。
「でもノエル、寒くないの?ずっとお外で見てたのに」
聖女様が不思議そうに私を見た。
確かに、私はコートも羽織らず、いつものメイド服のままだ。
「メイド服の下に、密度の高いウールの肌着を二枚重ね、その間に薄い絹を挟んでいます。さらに足元はフェルト底の靴。外見を変えずに保温性を高める、特殊な防寒装備です」
「すごい!完全防備だね!」
私がこの装備をしているのには、スープのタイミングを計る以上の目的がある。
星の観測──特に、精密な角度を測るためには、澄み切った冬の夜空が最適だ。
だが、凍えるような寒さの中で長時間じっと立ち尽くせば、手の震えで観測器具の目盛りが狂ってしまう。
だから私は今、昼間のうちに「屋外で一時間、微動だにせず体温を維持できるか」という防寒装備のテストを行っていたのだ。
目標は、星々のわずかな位置のズレ──「年周視差」の観測である。
もし大地が太陽の周りを回っているなら、夏と冬とでは、大地の位置が太陽を挟んで反対側になるはずだ。
その二つの地点から同じ星を見れば、ごくわずかに星の見える角度が変わる。
それこそが、地動説を決定づける最後の証拠の一つ。
そのわずかなズレを捉えるために、私はこの完璧な防寒装備を作り上げたのだ。
「ノエルのスープ、世界一美味しい!」
「おかわりある?」
子供たちと聖女様が笑顔でカップを差し出してくる。
「ええ、鍋にたっぷり用意してありますよ」
しかし、私の防寒装備は、星を観測するためだけのものではない。
子供たちや聖女様が遊び疲れた時に、いつでも温かいスープを出せるように待機するためのものでもある。
どちらも、私にとっては等しく重要な業務なのだ。
***
夜。『観察ノート』を開く。
暖炉の前で並んで座り、それぞれにペンを持つ。
聖女様が、元気な文字で書き始める。
【お庭でドラゴンの真似をして遊んだ!息が真っ白になって面白かった!ノエルはドラゴンじゃないから息が白くならないって言ってたけど、絶対こっそり練習してると思う。遊び終わった後のスープがとっても美味しかった!】
私はその横のページに、細いペン先で書き込んだ。
呼気中の水蒸気量と外気温の飽和曲線のグラフ。
その下に、ウールと絹の重ね着による空気層の断熱効果についての検証データ。
最後に、夜間観測に向けた星の角度計測の準備項目。
書き終えて、右下の隅に一行添える。
『防寒装備のテストは良好。これで氷点下の夜間観測にも耐えうる。星のわずかなズレを測る準備は整った。なお、私は決してドラゴンの真似の練習などはしていない』
ペンを置く。
暖炉の火がぱちっとはぜた。
明日の夜はよく晴れそうだ。星を見るには絶好の夜になるだろう。




