第31話 結露のキャンバスと窓拭き
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、冬の朝、窓ガラスをびっしりと覆った結露を拭き取っている時。
聖女様が「あっ、ワタシもやる!」と窓に駆け寄り、指で結露に謎の生物を描き始めたら、その「キャンバス」部分だけは拭き取らずに残しておくことができる。
木枠が傷むのは困るが、聖女様の芸術活動を妨げるのはもっと困る。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの臨機応変な窓拭きである。
***
冬の朝、私室の窓ガラスは真っ白に曇っていた。
室内の暖かく湿った空気が、外の冷気で冷やされたガラスに触れ、水滴となって結露しているのだ。
これを放置すれば窓枠の木が腐るし、カビの原因にもなる。
私は乾いた布を手に、一枚ずつ丁寧に拭き取っていた。
「ノエル、何してるの?」
起きたばかりの聖女様が、毛布を肩に羽織ったまま近づいてきた。
「結露の拭き取りです。放置すると窓枠が傷みますので」
「けつろ……。窓ガラスがお水で曇ってるんだね」
聖女様は窓ガラスに顔を近づけ、ふうっと息を吹きかけた。
ガラスがさらに白く曇る。
それを見て、聖女様は目を輝かせた。
「ノエル!お絵かきできるよ!」
言うが早いか、聖女様は人差し指で曇ったガラスをなぞり始めた。
すうっと水滴が拭われ、透明な線が引かれる。
丸を描き、点を二つ打ち、横線を引く。あっという間に、丸い顔のようなものが出来上がった。
「見て!ウサギさん!」
「……耳がありませんが」
「あ、忘れてた!」
聖女様は慌てて長い耳を描き足した。
水滴が垂れて、ウサギの耳が悲しそうに垂れ下がる。
「垂れ耳ウサギさんだね!」
前向きな解釈である。
私は聖女様が描いたウサギの周囲だけを慎重に残し、他の部分の結露を拭き取っていった。
透明になったガラスから、冬の朝の冷たい日差しが部屋に差し込んでくる。
「ウサギさん以外、全部透明になっちゃった」
「結露は水滴です。室内の温度が上がれば、いずれ蒸発して消えてしまいます。芸術を楽しむのは今のうちかと」
「ええっ、消えちゃうの!?じゃあ急いで描かなきゃ!」
聖女様は隣の窓ガラスにも取り掛かり、今度は「クマさん」と「お花」を描き始めた。
私はその背中のナナメ後ろで、静かに窓のサッシの下、床の木目を見つめていた。
***
「よし、終わった!窓枠の水分は完全に拭き取りました」
「ワタシのクマさんも完成!」
聖女様が満足げに腰に手を当てている。
その横で、私は布をエプロンにしまい、床に落ちた「影」を見つめた。
結露を拭き取った窓から、太陽の光が真っ直ぐに差し込んでいる。
窓枠の影が、床の板に長く伸びていた。
私は足先で、その影の先端がどこにあるかを確認する。
床板の端から数えて、五枚目の板の真ん中。
昨日より、わずかに奥へ伸びている。
夏至の頃、真南に最も高く昇る太陽の高度は非常に高かった。
そのため、窓枠の影は床の手前、一枚目の板にすら届いていなかった。
だが、季節が進むにつれて太陽の高度は低くなり、影は毎日少しずつ部屋の奥へと伸びてきている。
私は夏からずっと、毎日の窓拭きのたびにこの影の長さを足幅で測り、記憶してきた。
影の長さは、太陽の角度を測る最も正確な日時計だ。
そしてこの影が最も長くなる日──「冬至」が、もうすぐやってくる。
その日を境に影が再び短くなり始めれば、私の立てた「大地の傾きと公転」の仮説は、完全な裏付けを得ることになる。
「ノエル、床をじっと見てどうしたの?拭き残しがあった?」
聖女様が小首を傾げて覗き込んできた。
「いいえ。床板のワックスの艶が少し落ちてきたので、後で磨き直そうかと考えていました」
「そっか。ノエルはお掃除の天才だね!」
無邪気に笑う聖女様の瞳には、私の見ている壮大な太陽の軌道は映っていない。
だが、それでいい。
彼女にはウサギやクマを描くキャンバスとしての結露が似合っている。
真理という名の冷たい計算式は、ナナメ後ろの私が一人で抱えていれば十分だ。
***
夜。『観察ノート』を開く。
暖炉の前で並んで座り、それぞれにペンを持つ。
聖女様が、元気な文字で書き始める。
【冬の朝は窓ガラスが白く曇る!結露っていうんだって。指でなぞるとお絵かきできるから、ウサギさんとクマさんを描いた。でもお昼になると消えちゃってちょっと寂しかった。ノエルは窓拭きをしながら床がピカピカかチェックしてた。お掃除がんばってくれてありがとう!】
私はその横のページに、細いペン先で図を書き込んだ。
窓ガラスの結露のメカニズム──室温と外気温の差、飽和水蒸気量の関係図。
そして、その下にこっそりと。
窓枠から伸びる影の長さの推移グラフ。
床板の枚数をメモリにし、夏から冬へ向かって伸びていく曲線を正確に描く。
書き終えて、右下の隅に一行添える。
『結露のキャンバスは、室温の上昇と共に消滅した。だが、窓から差し込む光が落とす影の記録は、確実に積み上がっている。最も影が長くなる日──太陽の軌道が折り返す冬至まで、あとわずかだ』
ペンを置く。
窓の外はもう真っ暗で、冷たい風が吹き荒れている。
だが、あの窓から差し込む明日の朝の光が、今から待ち遠しかった。




