第30話 初雪の朝、吸音のお茶会
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、教会の外が不気味なほどに静まり返った冬の朝。
それが敵の襲撃による結界などではなく、単なる気象現象によるものだと即座に判断し、パニックになる大人の横をすり抜けて聖女様の寝起きの白湯を準備する必要がある。
非常事態に見える時ほど、いつも通りの朝を提供すること。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの平常心である。
***
その朝、私が目覚めて最初に感じたのは「無音」だった。
普段なら、明け方から荷馬車の車輪の音や、市場へ向かう人々の喧騒が遠くから聞こえてくる。
だが、今朝はそれらが一切ない。まるで分厚い毛布で世界ごと覆われているような静寂だ。
支度を整えて足早に聖女様の私室へ向かった。
手には温かい白湯を入れたカップ。
扉の前でノックをする。
返事はない。想定内だ。
静かに扉を開けると、そこには案の定、毛布を芋虫のように体に巻き付けた丸い塊があった。
塊の中から、見事な寝癖を誇る頭頂部だけが覗いている。
私は白湯をサイドテーブルに置き、窓際へ向かった。一気にカーテンを開け放つ。
灰色の冬の空から、白い雪が音もなく舞い落ちていた。教会の庭も、遠くの街並みも、純白に覆われている。
「……まぶしいー」
毛布の塊がもぞもぞと動き、聖女様が寝ぼけ眼で這い出してきた。
「おはようございます、聖女様。初雪です」
「えっ」
ぱっちりと目が開き、聖女様は裸足のまま窓辺に駆け寄った。
「わぁ……!真っ白!」
「窓ガラスに触れると冷たいですよ」
「うん!」
窓にへばりつく聖女様の背後に回り、私は見事な寝癖を櫛で梳き始めた。
温かい室内で、金糸のような髪を少しずつきれいに整えていく。
最後に高く持ち上げ、ポニーテールにまとめた。
結び目のてっぺんが綺麗に仕上がったのをナナメ後ろからそっと愛でる。
本日の業務の第一関門突破だ。
「ねえ、ノエル」
聖女様が窓の外を見つめたまま、不思議そうに首を傾けた。
「今日、すごく静かだね。外の音がぜんぜん聞こえない。世界が内緒話をしてるみたい」
「雪のせいです」
「雪が降るとカミサマが耳を塞ぐの?」
「物理的な現象です」
私は聖女様に白湯の入ったカップを手渡した。
「雪の結晶には大量の空気が含まれています。それが地面や屋根に積もると音の振動を吸収するのです。『吸音効果』といいます」
「きゅーおーん?」
「はい。雪が音を吸い込んでしまうから静かになるのです」
聖女様は両手でカップを包み込み、ふーふーと湯気を吹きながら窓の外を見た。
「雪ってすごいね。冷たいのに音を食べちゃうんだ」
「美味しいものではないと思いますが」
「きっと、世界を静かにするためのおやつなんだよ」
相変わらず非科学的だが、反論する気にはならなかった。
音を吸い込んだ純白の世界は、確かに美しかったからだ。
***
午後。
礼拝堂の点検を終えて私室に戻ると、暖炉に火が入り、小さなテーブルに二人分のティーセットが用意されていた。
「ノエル、お帰り!」
「これは何の準備でしょうか」
「カミサマの言葉だと思って座って!」
いつもの無茶苦茶な命令だ。
私は「神の教義に反するのでは」というツッコミを脳内で処理し、向かいのソファに浅く腰掛けた。
「せっかく世界が静かなんだから、今日は『私語厳禁の静かなお茶会』にしよう!」
聖女様が人差し指を口に当てて、しーっ、と笑った。
私語厳禁のお茶会。
その提案は、意外なほど心地よかった。
私たちは言葉を交わさず、ただお茶を飲んだ。
外の世界からは何の音も聞こえない。雪がすべてを吸い込んでいる。
その代わり、この部屋の中の小さな音だけが、不思議なほど鮮明に際立っていた。
カップをソーサーに置く、かすかな陶器の音。
ポットから紅茶が細く注がれる、水音。
暖炉の中で薪がはぜる、パチッという高い音。
そして、向かいに座る聖女様の穏やかな呼吸音。
静寂は、無音ではない。
私は紅茶の香りを静かに吸い込みながら、窓の外で降り続く雪に心の中で感謝した。
この雪は、最高の防音装置だ。そして、思考を深めるための最高の環境でもある。
頭の中で、過去半年分の観測データが次々と引き出されていく。
雪が降るということは、大気が冷却され、季節が冬へ向かっている証拠だ。
なぜ冬になるのか。それは太陽の高さが低くなるからだ。
私は脳内の記録を整理した。
夏至の頃、真南に最も高く昇る太陽の高度は非常に高かった。
しかし秋分を過ぎ、今の季節になると、同じ真南でも太陽の位置はずっと低い。
毎日少しずつ、太陽は空の低い位置を通るようになっている。
天動説──つまり地球が宇宙の中心に固定されているという考え方では、この「太陽の軌道の上下変動」を説明するために、極めて不自然で複雑なモデルを想定しなければならない。
だが、もし「私たちが乗っているこの大地の方が、傾いたまま太陽の周りを回っている」としたら?
驚くほどシンプルに、すべての計算が一致する。
雪で星が見えない夜は、観測ではなくこれまでのデータの統合に使うべきだ。
私語厳禁のお茶会は、そのための計算に完璧な静寂を与えてくれていた。
***
夜。『観察ノート』を開く。
暖炉の前で並んで座り、それぞれにペンを持つ。
聖新様が、元気な大きな文字で書き始める。
【世界が内緒話をする日。初雪がいっぱい降った!ノエルが言うには、雪が音を吸い込んじゃうんだって。だから今日は、二人で言葉を喋らない静かなお茶会をした。お外は静かなのに、お部屋の中の音はとてもあったかくて、いい音ばかりだ。雪さん、静かな時間をありがとう!】
私はその横のページに、細いペン先で幾何学的な図を書き込んだ。
雪の吸音効果についての手短なメモの下に、この半年間の「太陽の南中高度の変化」を示すグラフ。
そして、その軌跡から逆算した「大地の傾き」の仮説図。
書き終えて、右下の隅に一行添える。
『言葉のないお茶会は、非常に効率的かつ有意義であった。ナナメ後ろで聞く静寂の音色と、雪雲に隠れた太陽の軌跡の整理。真理への道のりは、この静けさの中で確実に進んでいる』
カリカリ、カリカリ。
二人でペンを走らせる音が、いつもより大きく、心地よく部屋に響いていた。
冬の入り口の、静かな初雪の夜。
世界はまだ、しばらく白いままだ。
冬になりました。
現実の連休最終日に合わせられそうなので、最終話まで日に2回の更新となります。
是非とも最後までお付き合いただければと思います。




