第29話 木枯らしと煙突、冬支度
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、教会の暖炉からもうもうと煙が逆流してきた冬の朝。
聖女様が咳き込む前に、最短距離で窓を開けて換気し、濡れた布を彼女の口元に当てることができる。
煙突の設計不良と季節風の干渉は、ナナメ後ろの業務範囲を大幅に逸脱している。
それでもやるのが、ナナメ後ろに控えるメイドの越権行為である。
***
その朝、教会の礼拝堂は軽い騒ぎに包まれていた。
「けほっ、けほっ……!何事ですか、この煙は!」
オフィトが目を真っ赤にしながら、礼拝堂に充満する灰色の煙の中で右往左往している。
暖炉に火を入れた途端、煙が煙突に昇らず室内に逆流してきたのだ。
「暖炉が壊れたぞぉっ!冬を前にして大惨事だ!修理を呼べ!予算はあるのか!?」
どこからともなくヴェロアが血相を変えて飛び込んできた。
マントの端が煙に巻かれて灰色に染まっている。
「予算は……ありません」
オフィトが胃を押さえた。
「はいはい、まあ落ち着いて。煙突が詰まっただけでしょう、大したことないですよ」
レルートが飄々と現れ、壁に寄りかかった。
この人だけは煙を吸わない絶妙な位置に立っている。流石の危機管理能力だ。
騒ぎを聞きつけた聖女様が、私室から駆けてきた。
「皆さん、大丈夫ですか?煙がすごいですね、何かお手伝いできることはありますか?」
聖女様の声は落ち着いていた。
顔なじみの大人たちを前にした時の少し砕けた柔らかい丁寧語。気安くも品のある二番目の顔だった。
「聖女様、煙を吸わないよう、こちらの布を」
私は聖女様に濡れた布を差し出しつつ、礼拝堂の暖炉に近づいた。
煙はまだ室内に流れ続けている。
「ノエル、原因はわかりますか?」
オフィトが縋るような目で私を見た。
「確認いたします」
私は暖炉の前に屈み、煙突の吸い込み口を観察した。
煙は上昇するはずだが、今は押し戻されている。外から逆方向の圧力がかかっている証拠だ。
立ち上がり、窓の外を見た。
木々が激しく揺れている。北からの強風──木枯らし。
今年最初の本格的な冬の風だ。
「原因は煙突の詰まりではありません」
「えっ?」
「木枯らしです。強い北風が煙突の出口を直撃し、排気の流れを押し戻しています」
***
私は教会の屋根に上がった。
冷たい風が容赦なく吹き付ける中、煙突の構造を確認する。
教会の煙突は、屋根の北側に突き出た単純な円筒形だ。
出口は風に対して完全に無防備。北風がまっすぐ吹き込む設計になっている。
流体力学の観点で言えば、問題は明確だ。
風が煙突の出口を直撃すると、出口付近の気圧が上がり、煙の上昇気流を打ち消してしまう。
逆に、風が煙突の出口を横切るように流れれば、出口付近の気圧は下がり、煙を吸い出す効果が生まれる。
井戸の釣瓶を引き上げる原理に近いが、この場合は空気の流れが釣瓶の役割を果たす。
必要なのは、煙突の出口に風向きに関係なく横風を作る構造を付けること。
私は屋根から降り、厨房の資材置き場から板金の切れ端と工具を取り出した。
「ノエルさん、何を作るんですか?」
レルートが興味深そうに近づいてきた。
「風帽子です。煙突の出口に被せる覆いのようなものです。風がどの方向から吹いても煙突の出口では横方向の流れに変換され、中の煙を引き出す構造にします」
板金を切り、折り曲げ、煙突の出口に被せるドーム型の覆いを作る。
底面は開放し、側面に複数のスリットを入れる。風がスリットを通過することで加速し、煙突の出口付近に負圧を生み出す仕組みだ。
「……メイドの知識の範疇ではなさそうですが」
レルートが、にやりと笑った。
「厨房の換気工事で覚えました」
「換気工事ね。はいはい」
それ以上の深追いはしてこなかった。この人のそういうところが非常に助かる。
***
一時間後。
煙突に風帽子を取り付け、暖炉に再び火を入れた。
煙は真っ直ぐに煙突を昇り、外の風帽子を通じて快適に排出されていく。逆流は完全に止まった。
「おお……!煙がちゃんと上に行っている!」
オフィトが感動の声を上げた。
「これで今年の冬は暖炉が使えるのだな!よくやったぞメイド!」
ヴェロアが胸を張った。領主様は何もしていないが、まあいい。
「皆さん、暖炉が直りましたよ!ノエルのおかげですね。温かいお茶を淹れましょう」
聖女様が嬉しそうに拍手した。
中間モードの柔らかい声だ。オフィトもヴェロアも、聖女様のこの声が好きだろう。
威厳に気圧されず、しかし敬意は感じられる、ちょうどいい距離感だから。
***
夕方。私室。
暖炉の火が穏やかに燃えている。もう煙の逆流はない。
「ノエルー、今日のお茶は特別においしく感じる」
ワタシモードだ。
部屋に二人きりになった瞬間、声のトーンが一段下がり、肩の力が抜ける。
ソファに深く沈み込み、ポニーテールがクッションに広がった。
「煙臭い部屋で一日過ごした後ですから、相対的にそう感じるだけです」
「んー、違うよ。煙が引いた後の空気って、なんかいつもより美味しくない?雨上がりの匂いみたいに」
それは正しい観察だった。
煙によって室内の空気中の微粒子が増え、換気後にそれが排出されることで通常よりも清浄な空気が流入する。人間の嗅覚はその差異を美味しいと感じることがある。
「……科学的には、あながち間違っていません」
「えへへ。ほら、カミサマの言葉だと思って座って!今日は暖炉を直してくれたノエルに、ワタシからご褒美のお茶を入れてあげる!」
聖女様が自らティーポットに手を伸ばした。
彼女が私にお茶を淹れるのは極めて稀だ。
結果として出てきたのは、茶葉の量が多すぎて渋みが強く、お湯の温度が高すぎて香りが飛んだ、見事なまでに不完全な紅茶だった。
「……どう?」
「大変結構なお点前でした」
嘘は言っていない。結構な、とだけ言った。
聖女様はぱっと顔を輝かせた。得意げにポニーテールが揺れる。
その渋い紅茶は、不思議と暖炉の温もりによく合った。
***
夜。『観察ノート』を開く。
聖女様が大きな文字で書く。
【教会の暖炉から煙がもくもく出てきて大変だった!でもノエルが煙突にお帽子をかぶせたら直った。木枯らしって悪い風じゃなくて、煙突のお帽子を通ると煙を吸い出してくれるお助けの風になるんだって。嫌な風なんてないんだね。あとノエルに初めてお茶を淹れたら「結構なお点前」って言われた!やった!】
私は右半分に、煙突の風帽子の設計図を描いた。
風速と負圧の相関。スリットの角度と排気効率の関係図。
右下の隅に。
『木枯らしは、対策さえ講じれば暖炉の効率を高める助けになる。嫌な天気というものは、やはり存在しない。聖女様がお淹れになった紅茶の渋み係数は、通常の約三倍。だが、不思議と悪くはなかった』
ペンを置く。
窓の外では、木枯らしがまだ唸りを上げている。
だが、教会の中は暖かい。煙突の先に付けた小さな風帽子が、忠実にその仕事を果たしているからだ。
冬が、来る。
冬に突入して春を迎える辺りで、一度作品の区切りを迎えたいと考えています。
メイドさんと調べ物についてが中心になると思います。
二人のふわふわっとした話を維持しつつ、頑張ります。
(オチは既にバレてそうですが、そこも含めて楽しめるように)




