第28話 領主の秋の演説、台本
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
だが、今日に限り、私はもう一人のナナメ後ろにも立たなければならない。
領主ヴェロアのナナメ後ろに。
正直に言えば、聖女様のナナメ後ろだけで手一杯なのだが。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの臨時業務である。
***
「困っているのだ!」
ヴェロアが教会の応接間に飛び込んできたのは午前十時のことだった。
マントを翻し、テーブルに一枚の原稿を叩きつける。
「明日の秋季閉会式にて、この偉大なるヴェロア様が演説を述べなければならん!しかし!」
ヴェロアが原稿を広げた。
私とオフィトと聖女様が、同時にそれを覗き込んだ。
冒頭──『民よ!この偉大なるヴェロア様が今年の秋を総括するぞ!心して聞くがよい!』
二段目──『今年の秋は……えー、まあ、いろいろあった。収穫も、まあ、それなりだった。細かい数字はオフィトに聞いてくれ』
三段目──『とにかくだ!来年もこの偉大なるヴェロア様について来い!以上!終わり!ヴェロア万歳!』
沈黙が落ちた。
オフィトが額を押さえた。予想通りの胃痛のポーズだ。
「領主様……。これは演説ではなく、酒場の乾杯の挨拶です」
「な、なんだと!?十分に威厳があるだろう!」
「威厳の問題ではなく、中身の問題です。王都への年次報告にも使われる公式記録ですぞ……」
ヴェロアがぐっと言葉に詰まった。
「ヴェロア様、ノエルに手伝ってもらうのはどうかしら?彼女は文章を書くのも得意ですよ!」
聖女様がにこにこと提案した。
ヴェロアの顔が赤くなった。
「な、ななな、メイドの手など借りずとも!この偉大なるヴェロア様は──」
「──神様の言葉だと思って、ノエルにお願いしてみて?」
聖女様がにっこりと首を傾げた。
あのフレーズだ。相変わらず万能の拘束力を発揮している。
ヴェロアは数秒間硬直した後、カチカチと顎を動かして言った。
「……ほ、ほんの少しだけだ。あくまで、この偉大なるヴェロア様の言葉をちょっと整理するだけだからな!」
「承知いたしました」
***
午後。応接間での原稿作業。
「まず内容を確認します。領主様、今年の秋で最も誇れる成果は何でしょうか」
「ふん、簡単だ!聖女殿がお元気でいらっしゃること!」
それは成果ではなく事実だ。
「行政的な成果でお願いします」
「む。ならば……水道の整備が完了したことだ!あれのおかげで街の衛生が向上した!」
「はい。具体的な数字はありますか。例えば、水道が通った世帯数や──」
「細かい数字はオフィトが──」
「領主様の演説です。領主様の口から数字を述べることに意味があります」
ヴェロアが口をもごもごさせた。
レルートが廊下から顔を出した。
「こちらに今年の統計をまとめてあります。どうぞ」
分厚い帳簿を差し出された。
この男、最初から用意していたな。
帳簿を元に、私は演説の骨格を組み立てた。
一段目──今年の収穫量の具体的な数字と、昨年比での増加率。
二段目──水道整備による衛生環境の改善と、孤児院の子供たちの健康状態の向上。
三段目──来年に向けた冬の備えと、領主としての街への約束。
「領主様。冬の備えに関連して、一つ提案があります」
「何だ」
「明日の式典の朝は冷え込みます。霜が降りるでしょう。演説の冒頭でそれに触れてください」
「霜?なぜだ」
「『今朝の霜柱を踏んで式典に来られた皆様。その足元の冷たさをこの領地の冬支度で温める覚悟があります』──このように聴衆の体感を言葉で拾うと、距離が縮まります」
ヴェロアが目を丸くした。
「……お前、すごいな」
「領主様のお言葉を整理しただけです」
そう言っておく方が都合が良い。
ヴェロアのプライドと、私の匿名性を同時に守る、最適解だ。
***
翌日。開会式。
街の広場に集まった住民たちの前に、ヴェロアが立った。
マントを風になびかせ、胸を張り、原稿を手に──。
「民よ!」
第一声は、いつものヴェロアだった。
だが、そこから先が違った。
「今朝、私は門を出た時に霜柱を踏んだ。冷たかった。だが、ここに来る途中のパン屋から漂ってきた焼きたてのパンの匂いは、その冷たさを忘れさせるほどに温かかった」
広場がふっと和んだ。
ヴェロアは原稿をちらりと見ながら続ける。
「今年の秋、我が領地の収穫量は昨年比で一割二分の増。水道整備により、衛生に起因する病の相談件数は三割減少した。これは私の功績ではない。畑を耕し、水を守り、子供たちを育てた皆の功績だ」
おお、と小さなざわめきが広がった。
ヴェロアの口から具体的な数字と謙虚な言葉が出てくるのは、おそらく街の歴史上初めてだろう。
「来たる冬に向けて、この偉大な──いや、この領主ヴェロアは、領民の足元を温める冬支度を全力で進めることを約束する!」
原稿にはなかった言い直しだった。
「偉大なる」と言いかけて止めた。ヴェロアなりの判断だ。
広場から大きな拍手が湧き起こった。
ヴェロアの目が潤んでいるように見えたが、マントで顔を拭って隠した。
私はいつもの位置──聖女様のナナメ後ろで、静かにその光景を見ていた。
「ノエル」
聖女様が、小声で私に言った。
「(ヴェロアちゃん、すごく良い演説だったね!)」
「(はい。領主様のお言葉です)」
「(ふふ。でも、台本を書いたのはノエルでしょ?)」
「(領主様のお言葉を整理しただけです)」
聖女様がくすくす笑った。
***
式典後。
「ヴェロア様、素晴らしい演説でした!特に冒頭の霜柱のくだり、とても温かかったです!」
聖女様がヴェロアの手を握って褒めちぎった。
ヴェロアの顔が秋の紅葉の中で一番赤い色になった。
「べ、べべべ、別に!あれくらい、この偉大なるヴェロア様には朝飯前だ!メイドの助けなど、ほんの少ししか借りておらん!」
ほんの少しどころか骨格から末尾まで全部書いたのだが、訂正する理由がない。
「ところでヴェロア様、演説の中で衛生に起因する病の相談件数は三割減少と仰っていましたが、この数字の算出根拠をご説明いただけますか?」
オフィトが真顔で質問した。
ヴェロアの顔が凍った。
「……え?」
「先ほどの演説の最も説得力のある部分を、ご自身のお言葉で──」
「お、オフィト!今は褒められている途中だ! 細かい話は後にしろ!」
ヴェロアが逃走した。
マントが風にはためく速度だけは、しっかり領主の威厳があった。
***
夜。『観察ノート』を開く。
【ヴェロアちゃんがすごい演説をした!霜柱のお話から始まって、街のみんなのことをちゃんと数字で褒めてた。ヴェロアちゃんの目がキラキラしてた。ノエルが書いたんでしょって聞いたら「整理しただけ」って言ってたけど、ヴェロアちゃんが自分で言い直したところが一番よかったと思う!】
私はその横に、初霜の予測条件──放射冷却と地表面温度の関係、風速による霜の形成差──を記録した。
右下の隅に。
『領主の演説の言い直しは、原稿にない即興だった。つまり、あの瞬間だけはヴェロア自身の言葉だ。言葉を整えることはできるが、言い直す勇気までは代筆できない。あの人は思ったよりも領主をやれている』
ペンを置く。
窓の外では、予報通り霜が降り始めていた。




