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第26話 月暈の夜、追跡者

 私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。


 右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。

 この位置には意味がある。

 聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。


 例えば、予告なく現れた厄介な来客の気配を、聖女様よりも先に察知する時。

 廊下の角を曲がる靴音の間隔。革靴の質。歩幅の広さ。

 軍人でも商人でもない。だが、ただの旅人にしては一歩一歩に迷いがなさすぎる。

 知っている足音だ。


 それが、ナナメ後ろに控えるメイドの警戒である。


 ***


「お久しぶりです、聖女様。水道施設の経過査察に参りました」


 礼拝堂の入り口に立っていたのは、王都公儀査察官のセナだった。

 知的で隙のない目元。整った身なり。手には書類鞄。

 以前と変わらない佇まいだが、前回よりも少しだけ表情が穏やかに見えた。

 秋の涼しさが、この冷徹な合理主義者に似合っているだけかもしれないが。


「セナ様!また来てくれたの!嬉しい!」


 聖女様が満面の笑みで駆け寄った。

 セナの眉が微かに歪んだ。「セナ様」呼びにまだ慣れていないらしい。


「聖女様からの様付けは、業務上の威厳に差し障ります」

「威厳?」

「査察官としてなのです」


 聖女様は首を傾げ、それから「でもわかっちゃったから仕方ないね!」と笑った。

 何を分かったのかは不明だが、セナはそれ以上抵抗しなかった。


 私はナナメ後ろで、セナの視線の動きを注視した。

 聖女様と話しながらも、彼女の目は定期的に私の方へ流れている。

 水道の経過査察は口実だ。本命は私だろう。


 ***


 午後。水道施設の視察。


 セナは水道管の接合部を一つ一つ確認し、流量の記録簿を精査した。

 仕事は本物だ。適当に済ませる気はないらしい。その点は評価する。


「水質は安定しています。設計上の懸念点だった沈殿槽の容量も許容範囲内に収まっている」

「ありがとうございます、セナ様。ノエルがいつも水の状態を見てくれているおかげです」


 聖女様がさらりと私の名前を出した。


 セナの目が、数秒間だけ私に固定された。


「先輩──ノエルさん、でしたね。メイドが水質管理まで?」

「街の生活用水の清潔さは、教会の衛生管理業務の範囲内です」

「衛生管理。なるほど。その知識は、どちらで?」

「厨房での実務経験です」


 セナは「そうですか」と淡白に返したが、目が笑っていなかった。

 追及のタイミングを計っている。すぐには切り込まない辺り、知性的ではある。


 ***


 夕食後。

 聖女様が「セナ様、今日は泊まっていってください」と言い出した。

 セナは丁重に断ろうとしたが、聖女様の「神様の言葉だと思って」の前に敗北した。

 あのフレーズはもはや万能の拘束力を持っている。


 客室に案内した後、私はセナに夜食を届けに行った。

 チーズと干し果物の軽食。温かいハーブティー。


「わざわざありがとうございます」

「業務ですので」


 セナは茶器を受け取り、一口飲んで目を閉じた。


「おいしい。温度も抽出時間も完璧ですね。厨房の実務経験というのは本当のよう」


 皮肉でも追及でもない。純粋に美味しかったらしい。

 私はわずかに頭を下げ、退室しようとした。


「先輩」


 背中に声がかかった。


「今夜、月が面白いことになります。もしお時間があれば中庭で少しだけ」


 月。

 私は窓の外に目を向けた。東の空に昇り始めた月の周囲に、うっすらと光の輪が見えていた。


 月暈。

 私はコンマ数秒だけ迷い、それから頷いた。


 ***


 中庭。

 弱い月明かりの下、セナが空を見上げていた。


 月の周りに、大きな光の環が浮かんでいた。

 薄く高い雲を通過した月光が、雲の中の氷の結晶に屈折して生まれる光輪──月暈だ。


「見事ですね。暈の半径は約二十二度。高層の薄雲に含まれる氷の結晶が正六角柱の形をしているために生まれる屈折角です」


 セナが、独り言のように呟いた。

 この人は本当に、学者なのだ。


「……翌日は天候が崩れる前兆でもあります」


 気がつくと、私も口を開いていた。


「ええ。暖かい空気が上層に流れ込んで薄雲を作り、その後ろから前線が近づいている証拠です。明日の午後には雨でしょう」


 セナが私を見た。月明かりの中で、その表情は穏やかだった。

 追及者の目ではない。共通の言語を見つけた者の目だ。


「──先輩。天文台にいた頃、私はあなたの書いた論文を何度も読みました」


 私の呼吸が、ほんの一瞬だけ止まった。


「……人違いでしょう。私はただの──」

「──無学なメイドでしょう。知っています。でも、一つだけ聞かせてください」


 セナが月暈を見上げたまま言った。


「あなたは、まだ観測を続けていますか?」


 沈黙が落ちた。

 中庭の木々が風に揺れ、月暈の光が微かに震えた。


 私は答えなかった。答える必要がなかった。

 セナは私の沈黙を肯定として受け取ったようだった。小さく、だが確かに微笑んだ。


「……先輩」


 その一言が、秋の夜気の中に溶けた。

 私の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。


「私の性分は学者です。真実を暴くのが仕事です。でも今夜のところは──月が綺麗だ、ということだけを報告書に書くことにします」


 セナは茶器を持ち上げ、一口飲んで中庭から去っていった。


「──あ、お月様にわっかがかかってる!」


 奥の廊下から、聖女様の声がした。

 いつの間にか窓から身を乗り出して、月暈を見つめている。


「ノエル!お月様がメガネかけてる!」


 月暈は、メガネではない。

 だが──。


「……似ていますね」


 私は小さく答え、聖女様の方へと戻った。

 セナが投げかけた問い、「先輩」という懐かしすぎる響き。

 それらを秋の夜風の中に残したまま。


 ***


 翌朝。

 セナは「書類は後日送付します」と短く言い残し、街を発つ。

 聖女様がぶんぶん手を振って見送る横で、私は静かに頭を下げた。


 彼女が馬車に乗り込む直前、一度だけ振り返った。

 何か言いかけてやめた。そして小さく手を挙げて去った。


 ……あの人の追及は、これからも続くだろう。

 だが、今夜の月暈の下で交わした沈黙が、その追及にわずかな猶予を与えてくれた気がした。


 ***


 夜。『観察ノート』を開く。


 聖女様が大きな文字で。


【セナちゃんが遊びに来た!お月様にメガネがかかる日は次の日お雨なんだって。ノエルとセナちゃんがお月様を二人で見上げてた。なんだかちょっとだけ寂しかったけど、ノエルはちゃんとワタシのところに帰ってきたから、お月様ありがとう!】


 ちょっとだけ寂しかった。

 この人の観察力は、時として私の防壁を素通りする。


 私は右半分に、月暈の観測記録を書き込んだ。

 暈の半径。雲のタイプ。気圧の推定変化。


 そして右下の隅に。


『月暈を見る目が二つ増えた。それが敵の目か味方の目かは、まだ判断がつかない。だが、月は誰の味方でもなく、ただ巡っている。太陽の光を反射して。いくつもの問いを照らしながら巡っている──何かの周りを』


 カリカリとペンの音が重なる。

 明日は雨だ。月暈がそう教えてくれた。

 だが、ノートのインクをにじませるほどの嵐には、まだならないだろう。


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