表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/40

第25話 夕焼けの50ページ目、記念日

 私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。


 右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。

 この位置には意味がある。

 聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。


 例えば、聖女様がペンを口元に当てたまま小首を傾げて「ねえノエル、今日で何ページ目だっけ?」と聞いてくる時。

 私はナナメ後ろから正確に答えることができる。「四十九ページです、聖女様」と。

 なぜなら、毎晩のページ番号を私が振っているからだ。

 それが、ナナメ後ろに控えるメイドの書記業務である。


 ***


「ノエル!大変!」


 夕方の祈祷を終え、私室に戻った聖女様が、いきなりノートを掲げて叫んだ。


「明日、五十ページ目になるよ!」


 声の勢いの割に、内容が地味だ。


「はい。存じています」

「五十ページだよ!すごくない!?ワタシとノエルで五十ページも書いたんだよ!」


 聖女様の目が星のように輝いている。

 もう少し冷静に計算してみると、ノートを書き始めてからおよそ半年。

 週に二回から三回の頻度で見開きを使い、時に私が観測データの図表で丸一ページを占め、時に聖女様が大きな挿し絵で半ページを消費する。

 積み重ねれば、確かにそれなりの厚みになる。


「五十ページ目は、何か特別なことを書きたい!」

「特別なこととは?」

「うーん……。そうだ!教会で一番高い場所から景色をスケッチしよう!鐘楼の上!」


 ***


 教会の鐘楼。

 普段は鐘番しか入らない狭い螺旋階段を聖女様と二人で登った。


「ノエル、まだ?」

「あと十二段です」

「足がぷるぷるする……」

「日頃の運動不足です」

「ノエルは息も切れてないの?ずるい……」


 最上段に辿り着くと、そこには街全体を見渡せる展望台があった。

 秋の夕暮れが、世界を橙色に染め上げている。


「わぁ……!」


 聖女様が欄干に駆け寄り、息を呑んだ。

 西の空いっぱいに、燃えるような夕焼けが広がっていた。

 橙から赤、赤から紫へと滑らかに移り変わるグラデーション。地平線に近い部分だけが深い金色に輝いている。

 街の屋根も、畑も、遠くに見える森も、すべてがその光に包まれていた。


「きれい……。ノエル、なんでこんなに赤いの?」

「太陽が低い位置にある時、光はより多くの空気の層を通過しなければなりません。その過程で青い色の光は散り散りになって消え、赤い色の光だけが私たちの目まで残るのです」

「青いのが消えちゃうの?」

「はい。昼間の空が青いのは、逆に青い光が上空で散らばっているからです。夕焼けと青空は、同じ仕組みの表と裏なのです」

「じゃあ、お昼に散らばった青い光が夕方には疲れてお休みして、赤い光だけが最後まで頑張ってるんだね」


 学問的には完全に誤りだが、詩的な筋は通っている。


「そのような解釈も観察ノートに書く分には許容範囲かと」

「やった!じゃあ書く!」


 聖女様がノートを膝の上に広げた。風でページがぱたぱた揺れる。


 私はそのナナメ後ろに腰を下ろし、同じ夕焼けを見つめた。

 鐘楼の上から見ると、この街の大きさがよくわかる。教会、市場、住宅街、その外側に広がる畑。

 そして畑の先に、あの森があり、丘があり、その向こうにカーニャの領地がある。


 半年前、ノートの一ページ目を書いた時。

 私たちの世界は、主に聖女様の私室と教会の庭だけだった。

 それが今では、街の外にまで広がっている。


 このノートが百ページに届く頃、この観察地点からはどこまで見えているのだろうか。


 ***


 鐘楼の上で、聖女様は五十ページ目の左半分を書き始めた。


 大きな文字。元気いっぱいの筆跡。

 だが、初期の頃と比べると文字の形は少しだけ整ってきている。公文書を書く機会が増えた影響だろうか。

 それでもノートの前では、意識的に大きく崩した字を書いているように見える。この人なりのささやかなこだわりかもしれない。


【観察ノート、五十ページ目!春から始めてもう秋。ワタシとノエルは朝焼けも虹も流れ星もお日様が隠れるのも見た。毎日おんなじ空なのに毎日ぜんぶ違う。今日の夕焼けは今年いちばん赤い。ノエルが言うには青い光がお休みしてるからだって。五十ページのご褒美に、カミサマがくれた赤いカーテンだと思う。次の五十ページもノエルと一緒に書けますように!】


 最後の一文を書き終えた聖女様が、ペン先をくるりと回して笑った。


「はい、ノエルの番!」


 私は細いペン先を取り出し、右半分に向かった。

 秋の日没位置と色彩変化の記録。大気層の厚さと光の散乱角度の推定図。鐘楼からの街の俯瞰スケッチ。


 五十ページ分の記録。

 この中には、星の瞬き、虹の屈折率、流星群の軌道計算、日食の影の速度、水質と蛍光の相関。

 一つ一つは些細な観察に過ぎない。だが、積み重ねれば、見えてくるものがある。


 太陽は毎日、少しずつ違う場所から昇り、少しずつ違う場所に沈む。

 一年かけて元の位置に戻る。

 流星群も、毎年同じ時期に同じ方角から現れる。


 すべてが、巡っている。


 右下の隅に、小さく。


『五十ページ目。この観察記録が百ページに届く頃には、巡る理由を証明できるかもしれない。あるいは二百ページ。三百ページ。それでも構わない。ペンを止める理由がない限り、書き続ける』


 風が吹いた。

 ノートのページが揺れ、聖女様の文字と、私の文字が、一瞬だけ触れ合って離れた。


「ノエル、もうすぐ日が沈むね」

「はい。あと三分ほどです」

「三分かぁ……。じゃあ三分だけ二人でこの夕焼けを見よう」

「……承知いたしました」


 三分間。

 二人で何も言わずに秋の最後の光を見つめた。

 太陽が山の稜線に沈み、空の赤が紫に変わり、やがて最初の星が一つだけ瞬いた。


「……綺麗だったね」

「はい」


 それだけの言葉で十分だった。

 五十ページ分の時間が、この三分間に凝縮されているようだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ