第25話 夕焼けの50ページ目、記念日
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、聖女様がペンを口元に当てたまま小首を傾げて「ねえノエル、今日で何ページ目だっけ?」と聞いてくる時。
私はナナメ後ろから正確に答えることができる。「四十九ページです、聖女様」と。
なぜなら、毎晩のページ番号を私が振っているからだ。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの書記業務である。
***
「ノエル!大変!」
夕方の祈祷を終え、私室に戻った聖女様が、いきなりノートを掲げて叫んだ。
「明日、五十ページ目になるよ!」
声の勢いの割に、内容が地味だ。
「はい。存じています」
「五十ページだよ!すごくない!?ワタシとノエルで五十ページも書いたんだよ!」
聖女様の目が星のように輝いている。
もう少し冷静に計算してみると、ノートを書き始めてからおよそ半年。
週に二回から三回の頻度で見開きを使い、時に私が観測データの図表で丸一ページを占め、時に聖女様が大きな挿し絵で半ページを消費する。
積み重ねれば、確かにそれなりの厚みになる。
「五十ページ目は、何か特別なことを書きたい!」
「特別なこととは?」
「うーん……。そうだ!教会で一番高い場所から景色をスケッチしよう!鐘楼の上!」
***
教会の鐘楼。
普段は鐘番しか入らない狭い螺旋階段を聖女様と二人で登った。
「ノエル、まだ?」
「あと十二段です」
「足がぷるぷるする……」
「日頃の運動不足です」
「ノエルは息も切れてないの?ずるい……」
最上段に辿り着くと、そこには街全体を見渡せる展望台があった。
秋の夕暮れが、世界を橙色に染め上げている。
「わぁ……!」
聖女様が欄干に駆け寄り、息を呑んだ。
西の空いっぱいに、燃えるような夕焼けが広がっていた。
橙から赤、赤から紫へと滑らかに移り変わるグラデーション。地平線に近い部分だけが深い金色に輝いている。
街の屋根も、畑も、遠くに見える森も、すべてがその光に包まれていた。
「きれい……。ノエル、なんでこんなに赤いの?」
「太陽が低い位置にある時、光はより多くの空気の層を通過しなければなりません。その過程で青い色の光は散り散りになって消え、赤い色の光だけが私たちの目まで残るのです」
「青いのが消えちゃうの?」
「はい。昼間の空が青いのは、逆に青い光が上空で散らばっているからです。夕焼けと青空は、同じ仕組みの表と裏なのです」
「じゃあ、お昼に散らばった青い光が夕方には疲れてお休みして、赤い光だけが最後まで頑張ってるんだね」
学問的には完全に誤りだが、詩的な筋は通っている。
「そのような解釈も観察ノートに書く分には許容範囲かと」
「やった!じゃあ書く!」
聖女様がノートを膝の上に広げた。風でページがぱたぱた揺れる。
私はそのナナメ後ろに腰を下ろし、同じ夕焼けを見つめた。
鐘楼の上から見ると、この街の大きさがよくわかる。教会、市場、住宅街、その外側に広がる畑。
そして畑の先に、あの森があり、丘があり、その向こうにカーニャの領地がある。
半年前、ノートの一ページ目を書いた時。
私たちの世界は、主に聖女様の私室と教会の庭だけだった。
それが今では、街の外にまで広がっている。
このノートが百ページに届く頃、この観察地点からはどこまで見えているのだろうか。
***
鐘楼の上で、聖女様は五十ページ目の左半分を書き始めた。
大きな文字。元気いっぱいの筆跡。
だが、初期の頃と比べると文字の形は少しだけ整ってきている。公文書を書く機会が増えた影響だろうか。
それでもノートの前では、意識的に大きく崩した字を書いているように見える。この人なりのささやかなこだわりかもしれない。
【観察ノート、五十ページ目!春から始めてもう秋。ワタシとノエルは朝焼けも虹も流れ星もお日様が隠れるのも見た。毎日おんなじ空なのに毎日ぜんぶ違う。今日の夕焼けは今年いちばん赤い。ノエルが言うには青い光がお休みしてるからだって。五十ページのご褒美に、カミサマがくれた赤いカーテンだと思う。次の五十ページもノエルと一緒に書けますように!】
最後の一文を書き終えた聖女様が、ペン先をくるりと回して笑った。
「はい、ノエルの番!」
私は細いペン先を取り出し、右半分に向かった。
秋の日没位置と色彩変化の記録。大気層の厚さと光の散乱角度の推定図。鐘楼からの街の俯瞰スケッチ。
五十ページ分の記録。
この中には、星の瞬き、虹の屈折率、流星群の軌道計算、日食の影の速度、水質と蛍光の相関。
一つ一つは些細な観察に過ぎない。だが、積み重ねれば、見えてくるものがある。
太陽は毎日、少しずつ違う場所から昇り、少しずつ違う場所に沈む。
一年かけて元の位置に戻る。
流星群も、毎年同じ時期に同じ方角から現れる。
すべてが、巡っている。
右下の隅に、小さく。
『五十ページ目。この観察記録が百ページに届く頃には、巡る理由を証明できるかもしれない。あるいは二百ページ。三百ページ。それでも構わない。ペンを止める理由がない限り、書き続ける』
風が吹いた。
ノートのページが揺れ、聖女様の文字と、私の文字が、一瞬だけ触れ合って離れた。
「ノエル、もうすぐ日が沈むね」
「はい。あと三分ほどです」
「三分かぁ……。じゃあ三分だけ二人でこの夕焼けを見よう」
「……承知いたしました」
三分間。
二人で何も言わずに秋の最後の光を見つめた。
太陽が山の稜線に沈み、空の赤が紫に変わり、やがて最初の星が一つだけ瞬いた。
「……綺麗だったね」
「はい」
それだけの言葉で十分だった。
五十ページ分の時間が、この三分間に凝縮されているようだった。




