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第22話 葡萄畑の女狐、遠征(中編)

 私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。


 右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。

 この位置には意味がある。

 聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。


 ただし、他人の屋敷においてこの位置を維持するのは、いつもより数段難しい。

 使用人の案内、見知らぬ廊下の構造、どこに誰の耳があるかわからない空間。

 教会という慣れ親しんだ地形を離れた今、ナナメ後ろの精度は、より繊細に調整する必要がある。

 それが、ナナメ後ろに控えるメイドの適応力である。


 ***


 カーニャの屋敷は、教会とは正反対の豪奢さだった。


 磨き上げられた大理石の床。天井から吊るされた水晶の照明器具。壁を飾る見事な織物の数々。

 どれもが「私はこれだけの富を持っている」という無言の誇示だ。


「ようこそ、聖女様。長旅でお疲れでしょう」


 出迎えに現れたカーニャは、絹のドレスに身を包み、優雅な扇子で口元を隠しながら微笑んでいた。

 猫のように目を細めた笑顔。上品だが、どこか油断のならない目だ。


「お招きいただきありがとうございます、カーニャ様。素晴らしいお屋敷ですね」

「まあ、嬉しい。田舎の小さな館ですのに。どうぞ、お部屋をご用意してありますわ」


 田舎の小さな館。この屋敷の吹き抜けだけで、教会の礼拝堂がすっぽりと収まる。

 謙遜が謙遜になっていないのは、カーニャの意図的なのだろう。


 カーニャの使用人に案内され、聖女様の客室に入った。

 広い。窓からは葡萄畑が一望できる。調度品も上等だ。


「ノエル、すごいお部屋!」

「はい。ただし──」


 私は部屋の中を一巡し、壁際の花瓶の位置、カーテンの厚さ、扉の蝶番の向きを確認した。


「(聖女様。この部屋は廊下から声が通りやすい構造です。私的な会話は小声でお願いします)」

「(え、誰かに聞かれちゃうの?)」

「(念のためです)」


 聖女様はこくりと頷いた。

 こういう時、彼女は素直に従ってくれる。政治的な勘が鋭いわけではないが、私の警戒を信じてくれる。

 それだけで十分だ。


 ***


 夕刻。歓迎の晩餐。


 長いテーブルの上座に聖女様、その向かいにカーニャ。

 テーブルの両脇には、カーニャ側の商人や地元の有力者が並んでいる。


 私はいつも通り聖女様のナナメ後ろに控え、ユーリアは壁際に立っていた。


「聖女様、こちらは今年の新酒です。我が領地自慢の葡萄から造られたものですの」


 カーニャが自ら聖女様のグラスに酒を注ぐ。

 これ自体は歓待の作法として問題ない。


「まあ、良い香り!いただきますね」


 聖女様がグラスに手を伸ばしたその時、私はナナメ後ろから軽く咳払いをした。

 聖女様の手が止まる。


「(聖女様、一口だけにしてください。明日の祈祷に差し障ります)」

「(わかった)」


 聖女様は一口だけ含み、「とても素敵なお味ですね」と笑顔で返した。

 カーニャの目が一瞬だけ細くなった。たくさん飲ませて、酔った勢いで何か言質を取ろうとしていたのだろうか。

 憶測に過ぎないが、警戒しておくに越したことはない。


 晩餐が進む中、カーニャが話題を切り出した。


「聖女様。実は明日の収穫祭の開会式で、ぜひ祝辞をお願いしたいのです。こちらに原稿を用意してありますの」


 差し出された羊皮紙を、私は聖女様が手に取る前にトレイで受け取った。


「拝見いたします」


 中身を読む。美しい文面。流麗な言葉選び。

 だが、二段落目にさりげなく織り込まれた一文があった。


『──この素晴らしき収穫祭を開催されるカーニャ様のお導きこそ、神の恵みと等しく──』


 聖女様がこの原稿をそのまま読めば、「聖女が公式の場でカーニャを神の恵みと同格に讃えた」という既成事実が生まれる。

 これを周辺領に広められたら、カーニャの政治的権威が一段跳ね上がる。


 巧妙だ。文面だけ見れば、ただの敬辞にしか見えない。

 私は聖女様の耳元に顔を寄せた。


「(聖女様。この原稿の二段落目は使わないでください。聖女様ご自身の言葉で収穫を喜ぶ農家の方々への感謝を述べてください)」

「(わかった。ワタシの言葉でね)」


 聖女様が微笑み、カーニャに向き直った。


「ありがとうございます、カーニャ様。ただ、祝辞は私自身の言葉で申し上げたいのです。せっかくの収穫祭ですもの、心を込めてお話しさせてくださいね」


 カーニャの扇子が、一瞬だけ止まった。

 だが、すぐにいつもの猫のような笑顔に戻る。


「まあ、もちろんですわ。聖女様のお言葉なら、何よりの祝福ですもの」


 その声に、ほんの僅かな苛立ちが混じっていた。

 用意した台本を穏やかに却下されたのだ。当然だろう。


 壁際のユーリアと目が合った。

 彼女は腕を組んだまま、小さく口の端を上げた。見ていたらしい。


 ***


 深夜。

 聖女様が寝た後、私は廊下で夜風に当たっていた。


「メイド」


 暗がりから声がした。ユーリアだった。

 壁に背を預け、短剣の手入れをしている。


「ユーリア様。お疲れ様です」

「あの原稿の罠、よく見破ったな」

「罠というほどのものでは。文書の校正は私の通常業務です」


 ユーリアが短剣を鞘に収め、私を見た。


「あんた、何者だ。メイドの動きじゃない。文書を読む速度も、状況判断も、私が知っている軍の参謀官と同レベルだ」

「田舎育ちの無学な──」

「その答えはもう聞いた。信じてないが、詮索する気もない」


 ユーリアが立ち上がり、私の横を通り過ぎた。


「一つだけ言っておく。あんたが何者だろうと、あの聖女を守る気があるなら、私は味方だ。契約金以上のことはしない主義だが、あんたの入れ知恵には乗ってやる」


 それだけ言い残し、闇に消えた。

 仕事人同士の、極めて効率的な信頼関係の成立だ。悪くない。


 窓から見える空には、薄い雲が広がり始めていた。

 明日は天候が崩れるかもしれない。

 収穫祭当日に雨が降れば、カーニャの計画にも、聖女様の祝辞にも、影響が出る。


 私は再びメモ帳を取り出し、雲の種類と風向きを記録した。

 明日に備えて、もう一手、打っておく必要がある。


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