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第21話 朝霧の旅路、遠征(前編)

 私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。


 右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。

 この位置には意味がある。

 聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。


 ただし、本日に限ってはこの位置の意味が少し変わる。

 教会の石畳ではなく、揺れる馬車の中で向かい合って座っているからだ。


 いや、馬車の中であればナナメ後ろという概念は物理的に破綻する。だが、心理的な立ち位置は変わらない。

 馬車が休憩のために止まり、落ち葉の積もった街道を歩く際には、足元の木の根や石ころを先に確認し、聖女様が躓く前にさりげなく進路を修正する必要がある。

 舗装された教会の廊下でのナナメ後ろと、秋の旅路でのナナメ後ろは別の技術だ。

 それが、ナナメ後ろに控えるメイドの応用力である。


 ***


 事の発端は三日前に遡る。


 隣の領地を治める女性領主カーニャから、一通の招待状が届いた。

 便箋には流麗な筆致で、こう記されていた。


『実りの秋を祝う収穫祭に、聖女様をぜひ主賓としてお迎えしたく──』


 文面は丁寧だった。美辞麗句の並びも隙がない。

 だが、私の目は便箋の余白に押された封ろうの紋章に留まった。カーニャ家の紋に、教会の聖印を並べた意匠。

 まだ承諾もしていないのに、すでに聖女が来ることを前提にしたデザインだ。

 この女、既成事実を作るのが早い。


「素敵なお招きですね!ぜひ伺いましょう!」


 聖女様は便箋を読み終える前に即答した。

 ナナメ後ろから口パクで「要検討」と伝えたが、間に合わなかった。


「だめだぁぁぁぁっ!」


 案の定、ヴェロアが血相を変えて飛んできた。


「あの女狐の招待など罠に決まっている!聖女殿を政治の道具にするつもりだ!この偉大なるヴェロア様がいる限りそんなことは断じて──」

「ヴェロア様、お招きを受けるのも聖女のお仕事です。遠方から招いてくださる方のお気持ちを無下にするわけにはまいりません」


 聖女様が穏やかに、でもきっぱりと言い切った。

 聖女モードの声だ。この声を出されると、ヴェロアでも食い下がれない。


「ぐっ……。し、しかし道中の安全はどうする!聖女殿を無防備に歩かせるわけにはいかん!」

「それについては手配済みです」


 レルートが、いつもの飄々とした態度で廊下の奥から現れた。


「先方から馬車と数名の護衛騎士が差し向けられています。ですが、それだけでは少々心許ない。念のため、こちらからも腕の立つ護衛を一名、独自に手配しておきました。フリーの傭兵ですが、腕は確かですよ」

「れ、レルート!勝手に……!」

「まあまあ、領主様。聖女様のお出かけを止めるより、万全の護衛を重ねて付ける方が建設的でしょう?」


 レルートの段取りの良さは、こういう時に光る。

 おそらく招待状が届いた時点で、聖女様が行くと言い出すことを見越して先に動いていたのだろう。

 私でなくとも、あの人の行動パターンは読みやすいのだ。


 ***


 出発の朝。

 教会の正門の前に、先方が用意した立派な馬車と、整列した見栄えの良い護衛騎士たちが待機していた。

 だがその横に、場違いな格好をした一人の女性が腕組みをして待っていた。


 使い込まれた革鎧。腰には二振りの短剣。無造作に束ねた茶髪。

 日焼けした肌と、油断のない鋭い目。

 ピカピカに磨かれた先方の騎士たちの鎧とは対照的に、まるで「仕事以外に興味はない」と全身で主張しているような佇まいだった。


「ユーリアだ。馬車の外縁を固める。契約期間は往復五日。報酬は前金で半額、残りは帰還時。それ以外の雑用は契約に含まれない」


 挨拶もなく、契約条件を先に述べる。

 徹底したプロフェッショナルだ。


「はじめまして、ユーリアさん!道中よろしくお願いしますね!」


 聖女様がぱっと笑顔で手を差し出した。

 ユーリアは一瞬だけ困惑した顔をして、それから「……ああ」と短く言って手を握り返した。


 私は一歩下がったナナメ後ろから、ユーリアの装備と身のこなしを観察した。

 革鎧の擦れ具合から実戦経験の豊富さが窺える。短剣の柄に残る手の跡の深さから、利き手は右。だが、左の短剣にも同等の使用痕がある。両利きだ。

 足元の靴は頑丈だが軽量。長距離移動に慣れた者の選択だ。


「あんたがメイド?」


 ユーリアが私を一瞥した。


「はい。聖女様付きメイドのノエルと申します」

「メイドが遠征に同行するのか。荷物持ちにしては手が綺麗だな」


 手が綺麗なのは、インク汚れを昨夜のうちに落としたからだ。

 だが、そう答える必要はない。


「聖女様のお茶とお食事の準備が主な業務です」

「……ふん。まあいい。足手まといにだけはならないでくれ」


 ユーリアはそう言い残し、先頭に立って歩き出した。


 ***


 街を出て、半日。

 馬車の窓から、道は次第に森の中へと入っていくのが見えた。


 聖女様は、馬車に乗った時から終始そわそわしていた。

 普段はせいぜい街の市場や近くの丘までしか出歩かない彼女にとって、隣の領地へ向かうという旅は冒険だ。


「ノエル、あの木、すごく大きい!」

「ブナの古木です。樹齢はおそらく二百年前後かと。馬車の窓からあまり身を乗り出さないでください」

「あっ、あの鳥、赤い!」

「ヤマガラかと。秋になると木の実を隠す習性があります」

「ねえ、あの葉っぱ、なんで赤いのと黄色いのがあるの?」

「葉の色素の種類が異なるためです。赤い葉は──」


 聖女様の質問は止まらなかった。

 馬車の前後を固める先方の騎士たちが戸惑ったような顔をしていたが、横を並走するもう一人の護衛であるユーリアが呆れたように肩をすくめたのが、窓越しに見えた。


 だが、聖女様のこの好奇心が、私は嫌いではなかった。

 教会の石壁の中では見られない、知らない世界への純粋な驚き。

 この人の瞳が光る瞬間を見るたびに、知識というものの存在意義を思い出す。


 ***


 夕刻。森の中の開けた場所で野営の準備を始めた。

 先方の騎士たちは見栄えの良い大きな天幕を張るのに手間取っている。装備は立派だが、野戦の経験は浅いのだろう。


「火を起こす。メイド、水を汲んできてくれ」


 騎士たちに構うことなく、私たちの馬車のそばでユーリアが手慣れた動作で薪を組みながら指示を出した。先方の騎士を当てにする気は最初からないらしい。

 私は近くの沢で水を汲み、戻った時には小さな焚き火が安定して燃えていた。さすが手際がいい。


「聖女様、火のそばに座ってお待ちください。夕食の支度をいたします」

「私も何か手伝います!」

「お気持ちだけで結構です。聖女様が怪我をされるとユーリア様の報酬に響きます」


 ユーリアが「それは困る」と真顔で頷いた。

 正直な人だ。


 私はエプロンのポケットから、小さな布袋を三つ取り出した。

 一つ目は乾燥ハーブと塩。二つ目は干し肉とチーズ。三つ目は小麦粉と蜂蜜をこねた携行食。

 汲んできた水と干し肉で簡易のスープを作り、携行食を薄く切って火で炙る。

 仕上げにハーブを散らし、蜂蜜を一さじ加えた。


「……おい、メイド」


 ユーリアが焚き火の向こうから、妙な顔で私を見ていた。


「何でしょうか」

「なんでメイドがそんな携行食を持っている。しかもあの配合……干し肉と蜂蜜の組み合わせは、長距離行軍の兵站補給食だぞ」

「教会の厨房で覚えました」

「……厨房と兵站の知識は、普通重ならない」


 ユーリアの目が鋭くなった。

 私は答える代わりに、スープを三つの器に注ぎ、一つを聖女様に差し出した。


「ノエルのスープです!お外で食べると、なんでこんなに美味しいのでしょう!」


 聖女様が嬉しそうにスープを飲み込む。

 ユーリアも無言で一口飲み、それから小さく目を見開いた。


「……美味いな」

「恐れ入ります」


 私は聖女様のナナメ後ろに腰を下ろし、自分の分のスープに口をつけた。

 秋の森の空気は冷たく澄んでいて、スープの湯気が焚き火の光に照らされて金色に輝いた。


 ***


 夜が更けた。

 聖女様は毛布にくるまって、焚き火のそばで早々に眠ってしまった。

 今夜はソファではなく地面だが、疲労のおかげで寝つきは良い。


 ユーリアが交代で見張りに立つと言ったが、私は「先に休んでください」と申し出た。


「メイドが見張り?」

「夜間の気象変化を観測する必要があります。明日の天候を判断するために」


 ユーリアは怪訝な顔をしたが、疲れていたのか、それ以上は追及せずに横になった。


 一人になった焚き火のそばで、私は空を見上げた。

 雲は少ない。風も穏やかだ。

 だが、地面に触れると既にひんやりとしている。放射冷却が始まっている。


 放射冷却。

 雲のない夜、地面の熱が空に向かって逃げていく現象だ。

 地面が急速に冷えることで、明け方にはその付近に霧が発生する。


 明朝、この森は濃い朝霧に包まれるだろう。

 視界が悪くなれば、道を見失う危険がある。

 だが、逆に言えば、霧が出る方角と濃さから水源の位置と谷筋の地形を読み取ることもできる。


 私はメモ帳を取り出し、明朝の気温低下の推定値と、霧の発生確率を書き留めた。

 それから眠る聖女様の毛布がずり落ちていないか確認し、端を丁寧に直した。


 見慣れた教会の天井ではなく、頭上には秋の星空が広がっている。

 同じ星なのに、場所が変わると見え方が変わる。

 教会の裏庭からは見えなかった低い位置の星座が、森の木々の隙間からはっきりと見えた。


 世界は、思っていたよりも広い。

 聖女様のナナメ後ろにいる限り、いつかはこの位置からも見たことのない景色を観測する日が来るのだろう。


 ***


 翌朝。

 予測通り、森は濃密な朝霧に覆われていた。


「……視界がほとんどないぞ。馬車を動かせるのか?」


 先方の騎士たちが狼狽える中、ユーリアが短剣の柄に手をかけながら、白い霧の壁を睨んだ。

 敵の奇襲を警戒しているのだろう。護衛として正しい判断だ。


「進めます。霧は南東側が薄い。あちらに向かえば馬車でも三十分程度で抜けられます」


 私が即答すると、ユーリアが振り返った。


「なぜわかる」

「昨夜の風向きと地面の冷え方から霧の濃い方角を推定しました。南東側は地形が高く、冷気が溜まりにくいため霧が薄い」


 ユーリアが、しばらく無言で私を見つめた。

 それから小さく鼻で笑った。


「……やっぱり、ただのメイドじゃないな」

「田舎育ちの無学なメイドですので。森の歩き方は少しだけ心得があるだけです」

「その『少しだけ』が、私の知ってる傭兵の大半より優秀なんだが」


 聖女様が寝ぼけ眼で毛布から這い出し、真っ白な霧の景色に目を丸くした。


「わぁ……!雲の中にいるみたいです!」

「霧です。雲と成分は同じですが、発生する高さが違います」

「じゃあ、私たち今、雲の中をお散歩してるんですね!」


 科学的には正確ではないが、詩的には正しい。

 聖女様は霧の中で両手を広げ、冷たい水滴を嬉しそうに受けた。


 ユーリアが「この聖女、大物か天然か判断がつかない」という顔をしていたが、私には見慣れた光景だ。


 私はいつもの位置──聖女様のナナメ後ろに立ち、霧の中の道を案内し始めた。

 教会の廊下も、秋の森の霧の中も、この位置の意味は変わらない。


 ただ、見える景色だけが、少しずつ広がっていく。


 ***


 夕暮れ。

 霧の森を抜け、丘を越えた先に、カーニャの領地が見えた。


 赤く色づいた葡萄畑と黄金の麦畑が秋の夕日に染まっている。

 その中央に、白い城壁に囲まれた美しい街が佇んでいた。


「きれい……」


 聖女様が、足を止めて息を呑んだ。

 私もまた、ナナメ後ろからその景色を見つめた。


 私たちの世界は、今日までこの教会の石壁の内側にあった。

 だが、聖女様が行くと言った瞬間から、その境界線は静かに広がり始めている。


 丘の下の街から、祭りの準備の喧騒がかすかに聞こえてきた。

 秋の風が、収穫の甘い香りを運んでくる。


おでかけだよ。

ゆっくりとした時間が進む作品にも関わらず、沢山の反応をしていただき本当にありがとうございます。

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