第20話 つるべ落としの秋、スケジュール管理
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、秋の夕暮れが信じられないほどの速さで落ちていく午後。
聖女様が窓の外を見て「あれ、もうこんなに暗いの?」と驚いた瞬間には、すでに廊下のランタンに火を入れ、次の面会者への案内灯を確保し終えている。
秋の日は釣瓶を井戸に落とすように、一気に沈む。その速度に聖女様より先に気づくこと。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの仕事である。
***
朝。
聖女様の部屋のドアをノックする。返事がない。
二度目。やはり返事がない。
想定内だ。
ドアを開けると、案の定、ベッドではなくソファの上で丸くなっていた。
膝の上に広げたままの手紙の束が、床にぱらぱらとこぼれ落ちている。昨夜も遅くまで信者からの相談を読んでいたらしい。
「聖女様、朝でございます」
「……んぅ……あと三分……」
「三分後に参ります」
一分半後に戻った。
「……嘘。ノエルの三分はだいたい一分半」
「正確には一分四十二秒です。精度が上がっております」
「上がらなくていいよぉ……」
のろのろと起き上がった聖女様の髪は、秋の乾燥した空気のせいで夏以上に見事な静電気を帯び、四方八方に広がっていた。
私は手早くブラシと霧吹きを取り出し、聖女様を椅子に座らせる。
「本日のスケジュールを申し上げます」
ブラシを滑らせながら、私は本日の予定を読み上げた。
「午前八時、朝食。八時半、収穫感謝の祈祷の最終確認。九時、孤児院への冬支度の物資リスト承認。十時、街の代表者三名との面会。十一時、近隣領からの招待状の確認と返書。正午、昼食。午後一時、信者の方々への返信作業。三時、街の市場視察。四時半、夕方の祈祷。五時半、オフィト様との週次報告──」
聖女様の目が、読み上げが進むにつれてどんどん大きくなっていった。
「それ、全部今日?」
「はい。秋は行事と事務が集中する季節です。夏の間に溜まった案件と、冬に向けた準備が重なります」
「……がんばる」
小さく拳を握った聖女様の横顔は、寝癖だらけなのに妙に凛々しかった。
私はその姿を見て、ポニーテールの位置をいつもより気持ち少し高くした。
忙しい日の聖女様には、気持ちが上を向く髪型が必要だ。
***
午前九時。孤児院への冬支度。
「毛布は全員分ありますか?」
「はい。先日の商会からの寄付分を合わせて、一人二枚ずつ行き渡ります」
「靴は?去年、サイズが合わなくて泣いていた子がいたでしょう。今年は全員の足を測ってから発注したいの」
最近の聖女様の顔に、段階があることに気付かされる。
初対面や格上の相手に対しては、聖女としての凛とした丁寧語で通す。
一人称は「私」。背筋が伸び、声のトーンも半音上がる。公の器としての彼女だ。
だが、オフィトやレルート、ヴェロアのように日常的に顔を合わせている大人たちに対しては、少し砕ける。
一人称は「私」のままだが、語尾が柔らかくなり、「〜ですよね」「〜しましょう」「〜したいの」と、距離感が近い。相手を立てつつも、親しみが滲む口調だ。
そして──私と私室で二人きりになった時だけ、「ワタシ」が出てくる。
子供のように甘え、無邪気に笑い、ソファに突っ伏す。あの姿は、私と私室の壁だけが知っている。
今の彼女は、二番目の顔。信頼している大人たちへの気安くも品のある聖女だった。
聖女様がオフィトの用意した物資リストに目を通しながら、矢継ぎ早に確認を入れていく。
その指摘は的確だった。去年の反省点を彼女は一つ残らず覚えている。
「聖女様、足のサイズの採寸は来週の訪問時に──」
「ノエル、違うわ。来週だと発注が間に合わない。今日の市場視察のついでに靴屋さんに採寸用の型紙をもらってきて。それを持って次回に訪問すれば、その場で全員分を測って即日発注できるわ」
私は一瞬だけ目を細めた。
物資の手配と現場訪問を一日の動線の中で無駄なく連結させる、見事な段取りだった。
普段はソファで寝落ちしてポニーテールを潰している人物と同一人物とは思えない。
「恐れ入りました。そのとおりにいたします」
「えへへ。ノエルに褒められると、今日一日頑張れる気がする」
褒めたつもりはないのだが、聖女様はもう次の書類に目を移していた。
***
午前十時。街の代表者との面会。
収穫祭の段取り、冬の備蓄の分配、街道の補修の優先度。
三人の代表者がそれぞれの主張を述べる中、聖女様は背筋を伸ばし、一人ひとりの話に丁寧に耳を傾けた。
「パン屋組合のヘルマンさん、今年の小麦の出来はいかがですか?」
「お、覚えていてくださったんですか、聖女様!ええ、今年は上々で──」
面会者の名前を、彼女は全員覚えていた。
それも名前だけではない。前回の面会で話した内容、家族構成、抱えている悩み。それらを自然な会話の中に織り込みながら相手に聞いてもらえているという安心感を与えていく。
私はナナメ後ろで面会の記録を取りながら、聖女様が必要とするタイミングで資料を差し出した。
穀物の収穫量の比較表をトレイの下に忍ばせておき、聖女様が去年と比べてと言いかけた瞬間にスッと差し込む。
「(ノエル、ありがとう。ぴったりのタイミング!)」
「(業務です)」
面会は予定通り一時間で終了。三人とも満足した顔で帰っていった。
聖女様は最後の一人を見送った後、応接間の椅子にどさりと座り込んだ。
「ふぅー……。三人目のリートさん、去年より少し元気がなかったわね。奥さんの体調のこと、気にしてたみたい」
「お気づきでしたか」
「話してる時、ずっと結婚指輪を触ってたもの」
この人は、言葉の裏にある感情を読み取る精度だけは、どんな分析官よりも正確だ。
***
正午。昼食。
「ノエル、今日のスープにいつもと違うものが入ってない?」
「生姜です。午後の業務に備えて体を内側から温めるために」
「ノエルってば、ワタシの体調管理までスケジュールに組み込んでるでしょ」
「メイドの基本業務です」
聖女様がジト目で私を見たが、スープは残さず飲み干した。
厨房から差し入れのあった焼き栗を一つ剥いて、聖女様の皿に置く。
「あ、栗!秋だねぇ……。ノエルも食べて」
「私は結構です」
「ダメ。カミサマの言葉だと思って。はい、あーん」
「聖女様、手づかみで差し出すのは衛生上──」
小さく割った焼き栗を、聖女様が満面の笑みで突き出してくる。
私は一瞬だけ目を閉じ、観念して一つだけ受け取った。
ほくほくと甘い。秋の味がした。
***
午後三時。市場視察。
秋の市場は活気に溢れていた。
色づいた果物、新しい蜂蜜の瓶、干し肉の束。農家の人々が自慢の収穫物を並べ、威勢のいい声が飛び交っている。
聖女様は市場を歩きながら、出店者の一人ひとりに声をかけた。
子供に手を振り、老婆の腰を心配し、新しい蜂蜜を「わぁ、琥珀色!」と目を輝かせて褒める。
私はそのナナメ後ろで靴屋から型紙を受け取り、ついでに孤児院用の防寒具の見積もりを三件分回収し、市場の石畳の補修が必要な箇所をメモに記録した。
ふと、西の空を見る。
太陽が、信じられない速度で山の稜線に近づいている。
「聖女様、そろそろ戻りましょう。日が落ちます」
「え?まだ三時過ぎなのに?」
聖女様が驚いて空を見上げた。
夏であれば、まだ日差しが強く照りつけている時刻だ。
しかし秋の太陽は、午後に入ると一気に高度を下げる。
「秋の日は『つるべ落とし』と言います。井戸の釣瓶を手放した時のように、一気に落ちる」
「どうしてそんなに早く沈んじゃうの?」
「太陽の通り道が夏に比べて低く短くなるのです。弧を描く道のりが短ければ、当然お日様が姿を見せている時間も短くなる。これからの季節、日没は毎日およそ二分ずつ早まっていきます」
聖女様は「ふぅん」と呟き、沈みゆく太陽を眺めた。
「じゃあ、毎日二分ずつ、ノエルと一緒にいられる夜が長くなるってことだね!」
──その解釈は予想していなかった。
私は答えに窮し、「……帰りましょう。夕方の祈祷に遅れます」とだけ言って歩き出した。
***
午後四時半。夕方の祈祷。
聖女様は静かに手を合わせ、今日出会ったすべての人の名前を、一人ずつ心の中で唱えているようだった。
その横顔に、疲労の色が滲んでいる。
だが、祈りの姿勢だけは、朝と変わらず凛としていた。
午後五時半。オフィトとの週次報告。
「聖女様、本日の市場視察の件ですが、石畳の補修について来月の予算に──」
「オフィトさん、それは北側の角のところですよね。今日見てきました。ヒビが三か所。子供たちが転ぶ前に直したいので、来月ではなく今月中にお願いできますか」
オフィトが目を丸くした。
私がメモに記録した補修箇所を聖女様も自分の目で確認していたらしい。
この人は、ナナメ後ろの私が見ているものを正面から同じように見ている。
報告が終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
夏ならまだ明るかった時間だ。秋の夕闘は、本当に容赦がない。
***
夜。
すべての業務が終わり、聖女様の私室。
「お疲れ様でございました。本日のスケジュールはすべて完了です」
「……ノエル」
「はい」
聖女様が執務机に突っ伏したまま、小さな声で言った。
「カミサマの言葉だと思って……今日はもう……寝かせて……」
いつもは「座って」と命じる側の聖女様が、今日だけは自分から「寝かせて」と懇願している。
攻守逆転だ。
「承知いたしました。ただし、ソファではなくベッドでお休みください」
「……ベッドまで遠い」
「五歩です」
「五歩が遠いの……」
私は小さくため息をつき、聖女様の腕を取って立ち上がらせた。
半ば引きずるようにしてベッドまで連れていく。五歩。宣言通りだ。
聖女様はベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。
私が掛け布団を引き上げると、その隙間からくぐもった声が聞こえた。
「……ノエル、今日のワタシ、ちゃんとできてた?」
「はい。完璧でした」
「嘘。ノエルが色々と裏で回してくれてたんでしょ。資料のタイミングも、お昼の生姜も、市場の型紙も」
この人は、気づいていないふりをして全部気づいている。
「聖女様のお仕事を支えるのが、私の仕事です」
「ワタシの仕事は、ノエルに『ありがとう』って言うことだよ」
枕に顔を埋めたまま、聖女様が小さく笑った。
その笑い声を聞いて、私は今日一日の疲労が少しだけ軽くなったような気がした。
「……おやすみなさい、聖女様」
「おやすみ、ノエル。明日も……よろしくね」
聖女様の声は、最後の方はもう寝息に溶けていた。
私は音を立てずに部屋を出た。
***
自室。
『観察ノート』を開く。
今夜もまた、聖女様が先に寝てしまったので、左半分を空けておく。
右半分に、私は記録を書き込んだ。
秋分後の日没時刻の推移。太陽の南中高度の低下グラフ。
本日の聖女様のスケジュール消化率──百パーセント。
そして右下の隅に。
『秋の日は短い。だが、聖女様が一日の終わりに笑ってくれるなら、この短い日照の中にも十分すぎる光がある』
翌朝。
聖女様がノートの左半分に、大きな文字で書き足していた。
【秋は忙しい!でもノエルがナナメ後ろにいてくれるから、ワタシは安心して前だけ見ていられる。今日も市場でおいしい蜂蜜を見つけたよ。お日様が早く沈んじゃうのは寂しいけど、その分、ノエルと一緒にノートを書く夜の時間が長くなるから、やっぱり秋は好き!】
大きな文字の最後に、小さな栗の絵が一つ。
私の日没時刻のグラフと聖女様の栗の絵が、ノートの見開きの上で隣り合っている。
秋の日は短い。
だが、ノートのページだけは、少しずつ厚くなっていく。
それでいいのだ。




