第19話 夏の終わりの流星群、秘密の願い
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、夏の終わりの夜空に一筋の光が走った瞬間。
聖女様が「あっ!」と両手を合わせてお願い事を始めるより一拍早く、私は虫除けのハーブランタンの位置を微調整し、彼女の白い肌に蚊が近づく隙を封じることができる。
流れ星は目を楽しませるが、藪蚊は血を吸う。天体現象への感動と害虫対策は両立させなければならない。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの観測である。
***
「ノエルノエルノエル!今夜お星様見に行っていい!?」
夕食の片付けを終え、私室に戻ったところで、聖女様が弾丸のように駆け寄ってきた。
ポニーテールが左右に大きく振れている。尋常ではない興奮状態だ。
「落ち着いてください、聖女様。息が上がっています」
「だってだって、レルートさんが言ってたの!今夜は『流れ星がたくさん降る夜』だって!ワタシ、流れ星を見たことがないの!」
レルート。あの昼行灯、余計なことを吹き込んでくれたものだ。
もっとも、彼が言っていることは正しい。今夜は、毎年この時期に決まった方角から現れる流れ星の群れ、流星群の極大日にあたる。
私はそれを把握しており、観測条件が良好であることも確認済みだった。
「承知いたしました」
聖女様の目が、満月のように丸くなった。
「え、いいの!?前は『推奨しません』って即却下だったのに!」
「前回は冬でした。あの時の外気温では、聖女様の体温維持に重大なリスクがありました。本日は残暑の余熱が残っており、夜間の気温も十分に高い。長時間の観測が可能です」
「やったーっ!」
聖女様が両手を突き上げて飛び跳ねた。ポニーテールがばさばさと暴れる。
私は内心でため息をつきつつ、すでに用意してあった夜間観測セットの最終点検に取りかかった。
薄手の肌掛け。冷えた果実水。焼き菓子。
そして、虫除けのハーブを詰めた小さなランタン。
夏の夜の観測において最大の敵は寒さではなく、蚊だ。
***
教会の屋上バルコニー。
昼間の灼熱がゆっくりと石から抜けていく、温もりと涼風がちょうど混ざり合う心地よい空間だった。
私は持参した敷布をバルコニーの床に広げ、クッションを二つ並べた。
聖女様は敷布の上に座り込み、私が差し出した果実水のグラスを受け取って、夜空を見上げた。
「わぁ……。冬に見た時も綺麗だったけど、夏のお空はなんだか柔らかいね」
「冬の星は大気の透明度が高いため硬質に瞬きますが、夏は空気中の水蒸気が光を拡散させるため、にじむように見えます。同じ星でも季節によって表情が異なるのです」
「お星様にも季節があるんだ……。ノエルの話を聞くと、空がどんどん近く感じる」
聖女様がグラスを両手で包み、嬉しそうに笑った。
レモンとミントの爽やかな香りが、ハーブランタンの穏やかな灯りと混ざって、夏の夜の空気を静かに満たしている。
「流星群はまもなく始まります。方角はあちら──東の空、低い位置からです」
私が指差した方角に、聖女様がぐいっと身を乗り出した。
「見える?見える?」
「もう少し待ってください。目が暗さに慣れる必要があります。ランタンの光を少し落とします」
ハーブランタンの芯を細め、灯りを最小限にした。
バルコニーが暗がりに沈み、代わりに頭上の星々が一気にその存在を主張し始めた。
天頂に横たわる淡い光の帯、星の川が、東から西へと夜空を二つに分けている。
「ノエル……すごい……こんなにたくさん……」
聖女様が息を呑んだ。
そして。
東の空の低い位置から、一筋の白い光が音もなく走った。
短く、鋭く、闇を裂いて消える。
「──あっ!流れた!」
聖女様が叫び、反射的に両手を合わせた。
「孤児院の子供たちが元気に育ちますように!」
間に合ったのかどうかは甚だ疑問だが、聖女様は満足そうに頷いた。
ほどなくして、二筋目。三筋目。
暗い空のあちこちで、光の糸が次々と引かれては消えていく。
「あっ、また!ヴェロアちゃんのお腹が痛くなりませんように!四つ目!オフィトさんの胃薬が減りますように!五つ目!レルートさんがちゃんとお仕事しますように!」
一つの流れ星に一つのお願い。聖女様の願い事は、すべて他人のためのものだった。
しかも願い事の数が流星の数に追いつかなくなりつつある。
「ノエル、速い!お願いが間に合わない!」
「流れ星は秒速で申しますと、概ね数十里に相当する速度で移動しています。お願い事の処理速度が追いつかないのは仕方のないことです」
「そういう問題じゃないの!ねえ、ノエルも一緒にお願いして!二人で分担すれば追いつくかも!」
分担制のお願い事。斬新な運用方法だ。
私はクッションに浅く腰を下ろしたまま、淡々と答えた。
「聖女様。あの光の正体をご存じですか」
「お星様が降ってきてるんでしょ?」
「いいえ。あれは星そのものではありません。天の遥か高いところを漂っている、ごく小さな砂粒──塵のようなものです。それが猛烈な速さで落ちてくる途中、空気との摩擦で灼かれて光を放ち、燃え尽きているのです」
聖女様がきょとんとした顔をした。
「砂が燃えてるの?」
「はい。毎年この時期に同じ方角から降ることから、この砂粒の群れは決まった道筋を巡っていると考えられます。つまり、あの光は星が降っているのではなく、この大地の周りを巡る砂の帯を私たちが横切っている──」
私は、そこで言葉を切った。
「この大地」が何かの周りを巡っている。
その先にある仮説を口にすれば、それは禁忌に触れる。
「……いえ。つまり砂粒が燃え尽きる際の光です」
聖女様は私の言い淀みにはまったく気づかず、空を見上げたまま嬉しそうに呟いた。
「じゃあ、カミサマが夜空にぱらぱらって撒いた光る砂だね」
「……そのような解釈は、科学的には──」
「ノエルの説明の方が好きだけど、ワタシはワタシの言い方がいいの。だって燃え尽きちゃう砂にも名前があった方が嬉しいでしょう?」
返す言葉が見つからなかった。
彼女はいつもそうだ。私の冷たい事実を否定するのではなく、その隣にもう一つの温かい物語を並べてしまう。
***
流星群は、やがて頻度を増した。
一分間に三つ、四つ。時には同時に二筋の光が空を走り、聖女様は忙しく両手を合わせては願い事を唱え続けた。
「みんなが美味しいご飯を食べられますように!」
「街のパン屋さんの新作がヒットしますように!」
「教会の屋根の雨漏りが直りますように!」
もはや願い事というより、業務上の課題リストである。
だがその一つ一つが、彼女が日々この街の人々のことをどれほど見ているかの証拠でもあった。
「ねえ、ノエル」
聖女様が、ふと静かな声になった。
空を見上げたまま、膝を抱えている。
「ノエルはお願い事、しないの?」
「私は特に。砂粒が燃えている現象に願掛けをする合理的根拠がありませんので」
「もう、そういうこと言うー」
聖女様がむくれた。
そして、少し真剣な顔になった。
「ワタシね、最後の一つだけ、自分のためのお願いをしようと思ってたの」
「珍しいですね。何をお願いするのですか」
「えっとねー……それは秘密」
聖女様の頬が、ランタンの残り火に照らされてほんのりと赤い。
次の流れ星が、ひときわ長い尾を引いて天頂から西の地平線まで流れた。
明るい。一等星に匹敵する輝きだった。
聖女様が静かに目を閉じ、両手を合わせた。
唇が小さく動いたが、声にはならなかった。
しばらくして、目を開けた聖女様がこちらを向いた。
「──ノエルの番」
「私は結構です」
「ダメ。カミサマの言葉だと思ってお願いしなさい」
それは神の言葉ではなく、聖女様の命令です。
だが、この人が一度こう言い出すと流れ星よりも頑固であることは、もう何度も証明されている。
私は小さくため息をつき、空を見上げた。
東の空から、また一筋の光が走る。
短く、淡く、すぐに消えてしまう光。
私は目を閉じた。
唇が、ほんの少しだけ動いた。
「……」
聖女様が私の顔を覗き込んでいた。
「何をお願いしたの?」
「秘密です」
「えーっ!ワタシも秘密にしたから、おあいこだけどさ!」
聖女様がぷくりと頬を膨らませた。
私は何も答えず、果実水のグラスに口をつけた。
レモンの酸味が、夏の夜の空気に溶けて心地よかった。
何を願ったかは、聖女様にも誰にも言わない。
それは、ナナメ後ろに立つただのメイドの小さな秘密である。
***
流星群の活動が穏やかになる頃、聖女様の瞼がだんだんと重くなっていった。
「ノエル……今日は……ちゃんと起きてたでしょ……?前より……ずっと長く……」
「はい。今回は一時間十七分。前回の七倍以上です。大変よく頑張りました」
「えへへ……記録……更新……」
聖女様は敷布の上に横になり、クッションに頬を預けた。
ポニーテールが石畳の上にふわりと広がる。
夏の夜風がその髪を優しく撫で、ハーブの香りと混ざって甘い残り香を運んだ。
私は薄手の肌掛けを彼女の肩にかけ、しばらくナナメ後ろから寝顔を眺めた。
こうしている間にも、時折ぽつりぽつりと流れ星が空を横切っていく。
空は、確かに動いている。
いや──動いているのは空ではなく、こちら側だ。
この大地が、太陽の周りを巡っている。
流星群が毎年同じ時期に同じ方角から現れるのは、この大地が一年かけて同じ道を辿り、砂粒の帯と交差する地点に戻ってくるからだ。
その仮説を、いつか証明する日が来るのだろうか。
来たとして、それは誰を幸せにするのだろうか。
隣で眠る聖女様の寝顔を見る。
この人にとって、星は「カミサマが撒いた光る砂」で十分なのだ。
それで誰も傷つかず、みんなが笑っていられるなら、真実など──。
……いや。
やめておこう。今夜は、ただの綺麗な夜だ。
私は聖女様を起こさないように慎重に抱え上げ、夏の夜風の残る廊下を歩いて私室へと運んだ。
今回はきちんとソファではなく、ベッドに寝かせる。前回の教訓だ。
***
夜。
自室に戻り、『観察ノート』を開く。
今夜は聖女様はもう眠ってしまったので、先にノートを書いている。
明日の朝、彼女がこのページを見て自分の分を書き足すだろう。
そういう時は、ページの左半分を空けておく。
右半分に、私は細いペン先で記録を書き込んだ。
流星群の活動記録。極大時刻の観測値と計算値の誤差。放射点の位置。
一時間あたりの流星数の推移グラフ。
そして、右下の隅に小さく。
『本年の流星群極大、計算通り。砂粒の帯は昨年と同じ軌道上にある。これはすなわち、この大地が一年前と同じ場所に戻ったことを意味する。巡っているのだ。何かの周りを』
ペンを置き、インクの染みを布で拭った。
窓の外には、もう流れ星の姿はない。ただ、夏の終わりの柔らかな星空が広がっているだけだった。
翌朝。
聖女様が目を覚まし、ノートの空白に大きな文字を書き足しているのを朝食の支度をしながらナナメ後ろから確認した。
【夏の最後の夜に、ノエルと二人でお星様の雨を見た!砂粒が燃えてるんだって。でもワタシには、カミサマがみんなのためにパラパラって撒いてくれた祝福に見えた。ノエルも一つだけお願いしてた。何をお願いしたかは教えてくれなかったけど、あの時のノエルの顔がちょっとだけ柔らかかったから、きっといいお願いだったと思う!カミサマ、ちゃんと届けてあげてね!】
聖女様の大きな文字の最後に、流れ星の絵が三つ描き足されていた。
尾の部分がやたらと長く、どう見ても彗星だが、本人は流れ星のつもりだろう。
私の緻密な軌道計算の隣に、その絵は見事に収まっていた。
同じものを見て、まったく違うことを書いているのに、不思議と一つのページとして成立している。
いつか、この観察ノートのページが何百枚にもなった時。
もしも誰かがこれを読むことがあったなら、同じ夜空の下で交わっていたことに気づくだろうか。
──まあ、そんな日は来ないだろう。
私はペンを置き、聖女様の朝食の仕上げに取りかかった。
残暑はまだ続くが、窓から差し込む朝の光は、昨日より少しだけ柔らかかった。
夏の終わりが、静かに近づいている。




