第18話 鱗雲、相談の手紙
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、深夜まで手紙の返信に追われた聖女様が、ベッドへの数歩を惜しんでソファに力尽きている、残暑の朝。
聖女様が「あと五分、いや三分……」と夢の中で交渉を始めた際、最短距離で掛け布団を回収し、カーテンを勢いよく開けて強制的に覚醒を促すことができる。
あれは疲労による睡魔の誘惑であり、放置すれば本日の公務に十分の遅延をもたらす業務上の障害だ。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの仕事である。
***
「……ノエル、おはよ。五分……ううん、三分だけ待って。いま夢の中で隣町のパン屋さんの新作を口にしようとしてたところなの……」
「誠に遺憾ながらそれは無効です、聖女様。夢の中の決定事項は現実に反映されません」
ソファで丸まっていた聖女様が、膨大な手紙の束に埋もれながら、のろのろと上体を起こした。
ホワイトブロンドの髪がソファのクッションとの摩擦により見事な帯電を見せ、重力に逆らって四方に広がっている。
「またソファでおやすみになりましたね。寝癖の処理に要する時間は、平均して八分十四秒に更新されました」
「鏡、見せないで。自分の頭が綿毛になってるのは見なくてもわかるから……」
私は答えず、聖女様を椅子に座らせた。
手際よく霧吹きで髪を湿らせ、ブラシを滑らせる。
残暑の朝の空気はまだ重いが、窓の外の空の高い位置には鱗のような小さな雲の群れ──「鱗雲」が広がっていた。
「聖女様、鱗雲が出ています。上空の空気が冷えてきた証拠です。この残暑も、もうすぐ終わりを告げるでしょう」
「鱗雲……。お魚の鱗みたいだから、そう呼ぶんだっけ?ノエルが教えてくれた中で、一番可愛くて好きな雲」
「可愛いかどうかは判断できかねますが、天候の転換点を示す重要な指標です。──さて、寝癖の修正が完了しました」
私はいつもより少しだけ高く、気高く揺れるポニーテールを仕上げた。
聖女様はしゃっきりと背筋を伸ばし、机の上に山積みにされた手紙の束に向き直った。
ここからは彼女の聖女としての、一人の優れた実務家としての時間だ。
***
私の仕事の一つに、届いた手紙の一次選別がある。
緊急性の高いもの、教会に関わるもの、興信所からの調査報告、そして──個人的な人生相談。
「ノエル、この『三代続く鍛冶屋の息子さん』からの手紙、どう答える?」
聖女様が差し出したのは、跡継ぎを巡る親子喧嘩の相談だった。
私は一読し、事務的に回答を提示した。
「論理的にはこうです。『親の伝統と子の革新は材料の配合と同じである。互いの比率を調整し、一度試し打ちをしてから結論を出すべきだ』。これで角は立ちません」
「……ノエル。それは『正解』だけど、彼が欲しがっているのは『正解』じゃないわ」
聖女様が手紙の最後の一行──わずかにインクが滲んだ、力強い「父に認めてほしい」という文字を指でなぞった。
「彼、お父様を尊敬しすぎて自分の新しいアイディアを言うのが怖いだけなの。ノエル、この前の商会の台帳、覚えてる?あの鍛冶屋の商標はここ三年で一番輝いてた。彼はもう技術的にはお父様を抜いているわ」
聖女様はペンを取り、私の用意した事務的な下書きを完全に無視してサラサラと返信を書き始めた。
「彼にはこう伝えるべきかしら。『お父様が一番喜ぶのは、あなたが磨き上げた独自の剣です。怖がらずにその輝きを見せてあげなさい』って。この言葉なら彼は動けるわ」
私は、わずかに目を細めた。
私の選別基準では「感情的な悩み」に分類されていた一通の手紙。
だが聖女様は、過去の経済状況、街の産業の推移、そして文字の筆圧から読み取れる本人の覚悟。
それらすべてを実務として統合し、最善の解を導き出していた。
「……恐れ入りました。聖女様の方が、この街の数字と心が見えているようです」
「ノエルがいつも情報を綺麗に整理してくれてるから。ワタシはそれを見て、みんなの顔を思い出してるだけだもの」
聖女様が机の下で私の手をそっと握り、にこりと笑った。
彼女のその無邪気な笑顔が、教会の最高権力者やずる賢い大人たちを相手にする際の最大の武器であることを私は知っている。
***
午後。
作業が一段落した頃、外では鱗雲がさらに広がり、日の光を優しく和らげていた。
「ノエル。お仕事、終わり!頑張ったご褒美に紅茶が飲みたいなーっ!」
「承知いたしました。ですが、その前に一つ。この匿名で届いた『誹謗中傷の手紙』を読んでいたのは、いつの時間ですか?」
私は、机の隅に隠されていた一通の不穏な封書を指し示した。
聖女様は「あちゃー」という顔をして、舌を少しだけ出した。
「やっぱりバレちゃった?大丈夫よ、ノエル。こういうお手紙を書く人は、誰よりもワタシに助けてほしい人なの。悲しいけれど、それもワタシのお仕事の一つ」
「そのお仕事は、聖女様のナナメ後ろにある防壁を素通りしています。次は私がその手紙の内容以上に冷徹な『事務的返信』で、相手を黙らせて差し上げます」
「ノエル、それだと相手を傷つけてしまうだけになるからダメよ!」
聖女様がくすくす笑いながら、私の背中をソファの方へ押しやった。
「さあ、カミサマの言葉だと思って座りなさい。鱗雲が消える前に一緒にこの景色を眺めないと、罰が当たっちゃうんだから」
そう言って彼女は自ら私の隣に座り、まだ少し熱を帯びた残暑の風を受けながら、静かに目を閉じた。
彼女の仕事ぶりは、時として私を驚かせるほどに鋭く、こちらをヤキモキさせるほどに優しい。
***
夜。
『観察ノート』のペンが、静かに踊る。
【今日はノエルと一緒にお手紙をいっぱい書いた!空に鱗雲が出たから、もうすぐ秋が来る。お魚の鱗みたいに、ピカピカの気持ちでみんなにお返事が書けたと思う。ノエルの字はいつもより少しだけ尖ってたけど、それはワタシを守ろうとしてくれてる証拠。カミサマ、ノエルとワタシを引き合わせてくれて、本当にありがとう!】
私はその横に、秋の気配の分析を添える。
上層雲の一種、巻積雲の観測。
温暖前線の接近による一時的な曇天の予測。
聖女様がベッドに入ったのを確認し、私は自分の小部屋でインクの汚れを拭う。
『聖女の瞳は、文字の裏側にある真実を読み飛ばさない。私はその瞳に映る世界を整えるために、明日もまたナナメ後ろに立つのだろう』
窓の外では、鱗雲が月明かりに照らされ、静かな夜の海のように広がっていた。
二人のペンの音の余韻だけが、残暑の去りゆく部屋を静かに満たしていった。




