第17話 逃げ水と査察官、設計図
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
例えば、残暑の日差しに揺れる陽炎が石畳の先にゆらゆらと水たまりのような幻を作り出す午後。
聖女様が「あっ、水たまり!」と駆け出そうとするその肩を、最短距離でそっと押し留めることができる。
あれは光の屈折が作った逃げ水という現象であり、近づけば消える蜃気楼だ。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの仕事である。
***
夏の終わりだった。
暦の上ではそろそろ秋の気配が忍び寄ってもおかしくない時期だが、今年の残暑はしぶとかった。
日中の気温は依然として高く、教会の石壁さえ触れば熱を持っている。
空気中の水蒸気密度が高いこの季節、人の体は汗をかいても気化熱による冷却が追いつかず、体感温度は実際の気温を大きく上回る。
つまり、暑い。
科学的に説明しても暑いものは暑い。
「ノエルー、まだあっついよー……」
聖女様が私室のソファに突っ伏し、溶けかけの飴細工のようにぐったりしている。
ホワイトブロンドのポニーテールが背中から垂れ下がり、手で自分の顔をぱたぱたと仰いでいた。
私はあらかじめ井戸水で冷やしておいた花茶をグラスに注ぎ、聖女様の手の届く位置に置いた。
「水分を補給してください。この気温では脱水の危険があります」
「ありがとー……。ノエルは暑くないの?」
「メイドの体温管理は業務の一環です」
嘘だ。暑い。
エプロンの下、制服の背中は汗でじっとりと張り付いており、正直に言えば私もソファに突っ伏したい。
だが、メイドがだらけるわけにはいかない。
「ノエル、今日ってなにか予定あったっけ?」
「午後から、王都の査察官がいらっしゃいます。水道工事の設計審査です」
聖女様がぴたりと団扇を止めた。
「えっと、あの時のホタルの査察官さん?」
「いいえ。水源の安全認可を出してくださった方とは別です。今度は水道の設計と施工を審査する、工学の専門家が来ます」
「工学……って、水の道を作る設計図を見る人?」
「はい。その方の認可印がなければ、工事を進めることができません」
聖女様は花茶をごくごくと飲み干し、ソファから起き上がった。
先程までの溶けた飴細工のような瞳が嘘のように、きらりと光が宿る。
「じゃあ、その方にも美味しいお茶を出して差し上げないと!遠い王都から、この暑い中わざわざ来てくださるんでしょう?」
この人の優先順位は、いつだって相手を労うが最上位に来る。
水道の認可という重大な行政手続きよりも先に、旅人の喉の渇きを心配するのだ。
「……承知いたしました。冷たいお茶の準備をしておきます」
私は一礼し、厨房へ向かおうとして、ほんの一瞬だけ足を止めた。
窓の外、街道の向こうに立ち昇る陽炎の揺らぎを見つめる。
今日来る査察官の名は、事前にヴェロアの書簡で届いていた。
セナ。王立学院を首席で卒業した、若き女性の公儀査察官。
その名前を見たとき、私はコンマ数秒も目を閉じなかった。
***
午後。教会の応接室。
ヴェロアとオフィトが汗だくになりながら、テーブルの上に水道の設計図面を広げている。
聖女様は応接室の奥のソファに行儀よく腰掛け、私はそのナナメ後ろに控えていた。
玄関の扉が開く音がした。
規則正しく、無駄のない足音が廊下を進んでくる。
応接室に入ってきたのは、私より少し背の低い女性だった。
仕立ての良い紺色の事務服に身を包み、腕には革製の筒型ケースを抱えている。中には巻き尺や水平器が入っているのだろう。
髪は短く切り揃えられ、無駄な装飾は一切ない。
「王都公儀査察官のセナです。本日は水道敷設工事の設計審査のため参りました」
淡々とした挨拶。感情の無駄遣いをしない、効率的な声だった。
ヴェロアが立ち上がり、いつもの大仰な態度で応じる。
「おお、遠路ご苦労!この偉大なるヴェロア様の治める街が、いかに素晴らしいインフラを──」
「恐れ入りますが、領主様。ご挨拶は後ほど。まず設計図面を確認させてください。王都への報告期限がございますので」
ヴェロアの演説が二秒で切断された。
オフィトが「まあまあ領主様」と宥めながら、図面をセナの前に差し出す。
セナは図面を受け取り、革ケースから取り出した小さな虫眼鏡で等高線を一つずつなぞり始めた。
その視線には一切の雑念がない。図面だけを見ている。
──はずだった。
セナの視線が図面の一点で止まった。
水源から街の中央広場までの配管ルートにおいて、地形の起伏を越えなければならない区間がある。
その区間に描かれた配管設計は、通常の重力式では水が流れないはずの下から上へと水を持ち上げる構造になっていた。
「……この区間の設計者は、どなたですか」
セナが図面から顔を上げた。
その視線は、ヴェロアでもオフィトでもなく、応接室の隅──聖女様のナナメ後ろに控えている私を真っ直ぐに射抜いていた。
一瞬の沈黙。
「領主様の技師団が設計したものです」
私は表情を動かさず答えた。
セナの眼鏡の奥の瞳が、わずかに細くなる。
「そうですか。では、その技師の方は原理をご存じなのですね。密閉管路における流体の位置エネルギーと大気圧のバランスを利用した揚水機構──王都学院でも上級課程で扱う内容ですが」
応接室に、私とセナ以外には意味が通じない言葉が並んだ。
ヴェロアが困惑し、オフィトが「何のことでしょう?」と首を傾げる。
聖女様だけが、不思議そうに私とセナの顔を交互に見ていた。
「(ノエル、あの方……ノエルのことばかり見てるみたい)」
「(気のせいです。図面の説明をしているだけですから)」
聖女様は小さく首を傾け、納得したようなしていないような顔をした。
この人は他人の嘘は見抜けないが、私の微細な緊張だけは恐ろしい精度で嗅ぎ取る。
セナは虫眼鏡をケースに戻し、静かに息をついた。
「設計自体は優秀です。むしろ王都の技師が書いたとしても不思議ではない精度です。ですが、一点だけ問題があります」
セナが指で示したのは、起伏を越えた先にある配管の合流地点だった。
「この合流部は、残暑の時期に水温が上昇すると管内の空気が膨張し、空気だまりが発生する可能性があります。そうなれば水流が完全に停止します。これから工事を進めるのであれば、空気抜きの機構を追加するか、配管ルート自体を変更するかのどちらかです」
指摘は的確だった。
私も気づいていた問題点だ。だが、ルート変更はヴェロアの領地内の権利問題が絡む。空気抜きの機構は、この街の技術では作れない。
ヴェロアとオフィトの顔が曇った。
「つまり……このままでは認可が下りないと?」
「残念ながら。物理法則は融通が利きません」
セナがそう言い切った直後。
「あの」
聖女様が手を挙げた。
応接室の全員が、聖女様を見る。
「お話を遮ってしまってすみません。ですが、査察官様は王都からいらしたのですよね。まずはお茶を召し上がってください。こんなに暑い日に来られて大変でしたでしょう」
セナはわずかに目を瞬いた。
彼女の緻密な論理構造の中に、聖女様の言葉はどのカテゴリにも分類されないものだったらしい。
「……いえ、審査中ですので」
「審査がどんなに大切でも、お水を飲まなければ倒れてしまいます。ノエル」
「はい」
私は用意しておいた冷茶を盆に載せ、セナの前に差し出した。
澄んだ琥珀色の液体にはミントの葉が一枚浮かべてある。グラスの外壁には冷たい水滴がびっしりとついていた。
セナはグラスを見つめ、それから私を見た。
数秒の沈黙の後、小さくいただきます、と呟いてグラスを口に運んだ。
「……美味しい」
その一言は、極めて小さかった。
だが、瞳が一瞬だけ柔らかくなったのを私は見逃さなかった。
聖女様がふわりと微笑む。
「よかった。ノエルのお茶は世界一なのです」
「聖女様、それは過大な評価です」
「過大じゃありません。事実です」
聖女様が胸を張った。
その無防備な笑顔を見たセナの表情に、わずかな戸惑いが走る。
***
審査は一時中断となり、午後の熱気が少し収まる頃合いに現場視察を行うことになった。
その間、聖女様はセナのそばに座り、まるで旧知の友人であるかのように話しかけ始めた。
「査察官様は、お水の道を作るお仕事なのですか?」
「はい。水道や建築物の安全性を審査するのが私の職務です」
「すごいですね!たくさん勉強されたのでしょう?」
「王立学院で学びました。それだけです」
セナの返答は事務的だったが、聖女様は気にした様子もなく続ける。
「ノエルもそうなのです。空のことや、お水のことや、お星様のこと……たくさんのことを知っていて、いつも私やこの街の皆を助けてくれます」
「……」
セナの視線が、一瞬だけ鋭くなった。
私はナナメ後ろから、わずかに咳払いをした。
「(聖女様。私のことはお気になさらず)」
「(だって、本当のことだもの)」
聖女様の小声は、残念ながらセナにも聞こえていたらしい。静かに呟いた。
「……メイドさんは、随分と博識なのですね」
「いいえ。田舎育ちの無学なメイドですので、聖女様がお優しく褒めてくださっているだけです」
私がいつもの常套句を返すと、セナの唇がわずかに引き結ばれた。
怒りとも悔しさとも取れない、複雑な表情だった。
残暑の陽射しはまだ強く、石畳の先に陽炎が揺れている。
「あ!ノエル、見てください。道の先に水たまりがあります!」
聖女様が指を差した。
石畳の遠くに、きらきらと光る水面のようなものが見える。
「あれは逃げ水です、聖女様。地面近くの空気が太陽に強く熱せられると密度が変わり、光が屈折して遠くの空が地面に映り込むのです。近づけば消えてしまいます」
「消えちゃうの?」
聖女様が少し寂しそうな顔をした。
私は一瞬だけ考え、付け加えた。
「ただし、あの光の揺らぎは地面の温度を反映しています。あの位置に逃げ水が見えるということは、あの先の地面が特に熱を持っている証拠です。逆に言えば、逃げ水が見えない場所は地面が冷たい──つまり、地下に水脈がある可能性を示唆します」
セナが、私の横でぴたりと足を止めた。
「……地下水脈の探査に、逃げ水の分布を利用する?」
その声は、冷徹な査察官のものではなかった。
純粋な驚きと、それ以上に──かつてどこかで聞いた、知識への渇望が滲んだ。
「無学なメイドの推論です」
「……」
セナは何かを言いかけ、それを飲み込んだ。
代わりに鞄から手帳を取り出し、何かを書き付け始めた。
現場に到着すると、問題の配管合流部が目の前にあった。
起伏を越えた先の地形は確かに厄介で、セナの指摘通り空気だまり発生のリスクが明らかだった。
「やはり、この設計では認可は困難です」
セナが淡々と宣告した。ヴェロアが苦い顔をする。
聖女様は配管を覗き込み、首を傾げた。
「この管の中をお水が通るのですよね。でも途中でお水が止まってしまうと」
「はい。空気が溜まって栓になるのです」
セナが聖女様に向き直り、思いがけず丁寧に説明した。
この人は、真面目に質問されると真面目に答える性分らしい。
「空気が溜まるなら……空気が抜ける場所を作ればいいのではありませんか?」
「それはそうですが、この街の技術では──」
「ノエル」
聖女様が振り返った。
「(あの管の一番高いところに、小さな穴を開けたらダメなの?)」
「(原理としてはその通りですが、穴を開けてしまうと密閉状態が──)」
私は一瞬考え、足元の乾いた地面を見下ろした。
そしてその横にある、僅かに湿り気を帯びた草の根元を見た。
逃げ水が見えなかった場所。地下水脈のある場所。
「……セナ様」
私は数秒間目を閉じてから口を開いた。
「一つ提案があります。この合流部を西に移設すれば地形の高低差が緩和され、空気だまりのリスクを低減できます。西側の地盤は含水率が高く地下水脈に近いため、管内温度の上昇も抑えられるかと」
セナが目を見開いた。
「西……含水率が高いという根拠は」
「先ほどの道中、あの付近だけ逃げ水が発生していませんでした。地下水脈が地温を下げている──先ほどご覧いただいた通りです」
「……」
セナは手帳を開き、等高線を見返し、それから現場の地面をじっと見つめた。
長い沈黙の後、彼女は眼鏡を押し上げた。
「……確かに、西への移設であれば地形的にも管路設計的にも問題は解消されます」
その声は静かだったが、わずかに震えていた。
「メイドさん。もう一つだけ聞かせてください」
セナが私を真っ直ぐに見た。
眼鏡の奥の瞳には、査察官としての職務上の問いかけとは明らかに異なるものが宿っていた。
「あなたは、一体──」
「ノエルは、この街で一番お水に詳しい人なのです!」
セナの問いを遮ったのは、聖女様だった。
聖女様は私とセナの間にすっと入り、にこりと笑った。
「だって、ノエルは毎日私のために美味しいお茶を淹れてくれるのですよ。お水のことを知らなければ、あんなに美味しいお茶は淹れられません」
論理が完全に破綻している。
だが、聖女様の澄んだ瞳に嘘は一つもなかった。
セナは聖女様の笑顔を数秒間見つめ、それから小さく息を吐いた。
彼女の仮説に基づく追及は、純度100%の善意と破綻した論理の前では、その矛先を失ったようだった。
「……合流部の移設案を採用します。王都への報告書に反映し、条件付きで認可の推薦を出しましょう」
セナが手帳にペンを走らせ、最後に視線だけを私へ向けた。
「技師団の方に、よろしくお伝えください。優秀な設計です」
「……ご査収いただきありがとうございます」
私は静かに頭を下げた。
セナの瞳に、夕方近くの傾いた太陽の光が反射して光った。
***
セナが帰り際、教会の玄関口で足を止めた。
見送りは不要と伝えていたので、聖女様とヴェロアはすでに応接室へ戻っており、廊下には私とセナの二人だけだった。
「……先輩」
セナが、ぽつりと言った。
査察官の冷徹な声ではなく、かつて天文台の薄暗い書庫で図表を広げていた頃の後輩の声だった。
「人違いです。私はただのメイドですので」
「知っています。今のあなたは『ただのメイド』です」
セナは背を向けたまま続けた。
「でも、あの設計図を描いたのはあなたです。揚水機構も、逃げ水の地下水脈推定も、王立学院の教授ですら思いつかない発想です」
「心当たりがございません」
「……そうですか」
セナは革ケースの紐を握り直した。
「王都には、あなたのことを忘れていない人間がいます。あなたの論文を今でも密かに読み返している人間が」
私は答えなかった。
廊下に差し込む夕陽が、二人の間に長い影を作っていた。
「……また来ます。工事の進捗確認で」
セナはそれだけ言い残し、残暑の陽炎が揺れる街道へと歩き出した。
その背中は、かつて天文台の階段を駆け上がっていた頃よりもずっと真っ直ぐに見えた。
私はしばらくその後ろ姿を見送り、それから静かに踵を返した。
応接室から聖女様の声が聞こえてくる。
「ノエルー!お茶のおかわりー!」
ただのメイドの仕事が、呼んでいる。
***
夕暮れ。
私室の机の上に、『観察ノート』が開かれた。
窓の外には茜色の空が広がり、残暑の熱がようやく和らぎ始めている。
「今日の査察官さん、ちょっと寂しそうだったね」
聖女様がペンを取りながら、ぽつりと呟いた。
「さあ。私にはよく分かりません」
「嘘。ノエル、あの人と話してる時、いつもと違う目をしてたもん」
この人の観察眼は、私に関しては恐ろしい精度を発揮する。
私は答える代わりに、ペンのインク壺の蓋を開けた。
「ノートの記録をしましょう、聖女様。今日の逃げ水の観察結果を」
「むー。ごまかした」
聖女様は少し頬を膨らませたが、すぐにペンを走らせ始めた。
【道路の先にキラキラ光る幻のお水があった!近づくと逃げちゃうから「逃げ水」っていうんだって!神様がいたずらで撒いた打ち水みたい。でもノエルはそれを見て「ここにお水の道が隠れてる」って見つけちゃった。やっぱりノエルの目は魔法だ!セナちゃんもびっくりしてた!】
相変わらず因果関係は崩壊しているが、事象の記録としては見事に正確だった。
「セナちゃん」という呼称が気になったが、この人は出会って数分で全人類と友達になれる才能の持ち主なので、今さら訂正しても仕方がない。
私はその横のページに、極めて細いペン先で記録を書き込んだ。
光の屈折率と地表面温度の相関グラフ。逃げ水の発生位置と地下水脈の分布推定図。配管の改良設計メモ。
右下に、こう添えた。
『査察通過。水道施設の設計審査は条件付きで認可推薦を取得。合流部の移設により物理的課題は解消された。工事は予定通り進行可能となる』
ペン先がノートの紙を引っかく、カリカリという乾いた音。
二人のペンが交互に静かな部屋を満たしていく。
「ノエル」
「はい」
「あの査察官さん、また来るかな」
私はペンを止めず、静かに答えた。
「工事の進捗確認で、いずれ来るでしょう」
「じゃあ、次はもっと美味しいお茶を用意しなきゃね。あの人、最初はすごく怖い顔してたけど、ノエルのお茶飲んだ時だけちょっとだけ笑ったもん」
「……気のせいでしょう」
聖女様がくすりと笑った。
私はその笑い声を背中で聞きながら、ノートの隅に小さく、本当に小さく、一行だけ書き足した。
『残暑、逃げ水多数。夏の終わりは近い』
窓から吹き込んだ風は、昼間の蒸し暑さとは違う、どこか乾いた秋の匂いを含んでいた。




