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第16話 氷と比重の二層紅茶、笑うセーフティーネット

 私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。

 右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。

 この位置には意味がある。

 聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。


 例えば、聖女様に危害を加える者がいれば、いかなる物理的行使を用いてでもコンマ一秒で排除することができる。

 しかし、その脅威が「政治」や「権力」といった物理法則の通じない領域に及んだ場合、ナナメ後ろからの迎撃プロセスは少しだけ形を変える。

 それが、ナナメ後ろに控えるメイドと、大人の連携である。


 ***


 強烈な日差しが降り注ぐ、夏の終わりの真昼。

 教会の応接室には、ひどく耳障りな怒鳴り声が響き渡っていた。


「だーかーら!この孤児院が建っている土地は、我が領の区画整理計画に入っていると言っているのだ!さっさと立ち退きの承認印を押せ!」


 怒りで顔を真っ赤にし、大量の汗を滝のように流しながら机を叩いているのは、隣街からやってきた貴族である。

 教会の運営委員筆頭であるオフィトと、この街の若き領主ヴェロアが、必死に抵抗していた。


「閣下!教会の土地は私の領地内であり、先代からの保護特区です!そのような理不尽な強制収用は──」

「──うるさい小娘が!王都の法曹院の解釈など、こちらの資金力でどうにでもなる!逆らうなら、この領地への水利権と物資の流通を完全に差し止めるぞ!」


 典型的な力と財力による恫喝だ。

 ヴェロアが悔しそうに唇を噛み、オフィトが胃の痛みで脂汗を流す中、応接室の奥のソファに腰掛けていた聖女様が静かに口を開いた。


「閣下。そのように声を荒らげては、お疲れになるのではありませんか?」

「フン!聖女だか何だか知らんが黙っていろ!こっちはこの暑さで不愉快極まりないんだ!」


 怒鳴り散らす男爵の汗だくの顔を見つめ、聖女様は優雅な所作で小さくため息をつくと、ほんの少し首を傾けてナナメ後ろに控える私を見た。

 その微笑みの奥に「ノエル、あの人が可哀想だから魔法でなんとかしてあげて」という、私にしか通じない純粋なメッセージを込めて。


「ノエル。閣下は大変お疲れのようです。何か涼やかで美しい飲み物を淹れて差し上げて」


 ……慈愛に満ちた、純度100パーセントの無茶振りである。


 私の内心の計算では、「閣下の喉仏に手刀を叩き込んで物理的に沈黙させる」のが最も素早く静かな問題解決法だった。

 しかし、そんな暴力を振るえば確実に閣下の領地との政治問題に発展し、最悪の場合は教会が取り潰される。

 メイドの暴力は万能ではない。


「……承知いたしました。急速冷却および視覚的鎮静効果を伴う飲料を提供いたします」


 私は無表情のまま一礼すると、素早く手押し車を引き寄せ、氷の入った美しいガラスのグラスをいくつか用意した。


 グラスの底に、たっぷりのガムシロップで極限まで甘みを強めた色の濃い赤紅茶を注ぐ。

 次に、氷の表面に当てて水流を和らげるようにしながら、上から甘みのない透明な冷茶を、コンマミリの精度でゆっくりと注ぎ入れていく。


「どうぞ。二層の冷茶ツートン・アイスティーでございます」


 閣下の目の前にグラスが置かれた。

 怒鳴るのをやめ、そのグラスを見て目を丸くした。


 涼しげな氷の隙間で、下の層は鮮やかな赤茶色、上の層は透き通った黄金色。

 二つの異なるお茶が、グラスの中で一切混ざり合うことなく、くっきりと美しい境界線を引いて二層に分かれていたのだ。


「な、なんだこれは……なぜ混ざらない!?」

「比重の違いです」


 私は淡々と答える。


「下の層には高濃度の糖分が含まれており、上の層は無糖です。液体は糖度(密度)が高いほど重くなるため、このように静かに注げば、重力に従って決して混ざり合うことのない美しい二層が形成されます。視覚的な涼しさと共にお召し上がりください」

「ふ、ふん!小賢しい手品を……!」


 閣下は文句を言いながらもグラスを煽り、そして見事に目を見開いた。

 最初はスッキリとした無糖の冷茶が熱った体を冷やし、後から底に沈んだ濃厚な甘味が脳の疲労を吹き飛ばす。

 計算と比率で淹れられた冷茶に、閣下の顔からサッと汗が引いていく。


「閣下、少しは涼んでいただけましたでしょうか?」

「……ッ!だからどうした!茶がうまかったからといって土地の件は絶対に譲らんぞ!ヴェロア、印籍を渡さないというなら今すぐ実力行使で……!」


 閣下が再び立ち上がり、決定的な脅迫を口にしようとした、その時だった。


「いやあ。本当に美味しいお茶ですね、ノエル」


 応接室の一番奥にある、ロッキングチェア。

 今まで一言も発さず、ただ静かにツートンカラーの紅茶を飲んでいた好々爺が、穏やかな笑顔で口を開いた。

 当教会の絶対的トップ。サージ司教である。


「な、なんだクソ爺。司教だからといって、口を出せる問題じゃ……」

「そうそう、閣下。あなたの領地で先月行われた違法な賭博と、そこから流れた王都への脱税の件ですが」


 サージ司教は、ティーカップをカチャリと受け皿に置き、ニコニコと微笑んだまま言葉を続けた。


「昨日、私から王都の監査部の方へ、『写し』を提出しておきました。あなたの印籍ごとね」

「……は?」

「今頃は、王都の近衛兵たちがあなたの屋敷を差し押さえて、財産を没収している頃合いでしょう。もう帰り家もないかもしれませんが、道中はお気をつけて」


 応接室の空気が、完全に凍りついた。

 閣下から文字通り一切の血の気が引き、青ざめた唇がワナワナと震え始める。


「き、貴様……いつの間にそのような裏取りを……ッ!わ、私の全てが……ア、アアアアッ!!」


 閣下は書類を放り出すと、悲鳴を上げながら応接室から転げ出るように逃げ去っていった。

 それを見送ったヴェロアとオフィトが、揃ってその場にヘナヘナと崩れ落ちる。


「サ、サージ殿……!それならそうと、もっと早く言ってくださいよ……!領主として生きた心地がしませんでしたよ!」

「ははは。申し訳ない、ヴェロア様、オフィト。しかしノエルの淹れてくれたお茶が美味しかったもので、ついゆっくり味わってしまいましてね」


 サージ司教はいつもの穏やかな笑顔で立ち上がると、聖女様へ優しく微笑みかけた。


「サージ様。閣下は、走って帰られるほど元気になられたのですね」

「ええ。聖女様のお優しいお心遣いのおかげですよ」


 そして、サージ司教は真っ直ぐに私を見た。

 その柔和な瞳の奥には、すべてを見通すような極めて鋭い、そして温かい知性が光っていた。


「これからも美味しいお茶と聖女様の護衛をお願いしますね、ノエル」


 その言葉の意味を、私はコンマ一秒で正確に理解した。

 ──論理の防衛は任せる。だが、メイドでは対応できない権力・政治の防衛は私が塞ぐ。

 それが当教会のトップである彼が、これまで一切の干渉をせずに私たちを泳がせていた理由、最強のセーフティーネットの証明だった。


「……承知いたしました、サージ様」


 私は、今日一番の深く美しいカーブで、完璧な一礼(お辞儀)を返した。


 ***


 その日の夜。

 教会の静かなデスクの上で、いつもの『観察ノート』が開かれる。


【ノエルが綺麗なお茶の魔法を作ったよ!そしてサージ様が優しくお喋りしたら、怒ってたおじさまも元気になって帰っていったの!うちの教会はみんなすごい!】


 大きな文字の横には、鮮やかな二重色のアイスティーと、ニコニコ笑うおじいちゃん(サージ)の絵が描かれている。

 私はその隣のページに、静かにペンを走らせる。


『二層化飲料における比重の計算式を記載。および当教会の最高責任者における危機管理能力の有用性を確認。当面の間、政治的脅威に対する直接的な物理介入の必要性はゼロである』


 インクを拭き取りながら、私は静かに口角を上げた。

 有能なトップがいる職場は、素晴らしい。

 お陰で私は、明日も心おきなく聖女様のナナメ後ろでお茶汲みと掃除に専念できるというものだ。


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