第23話 収穫祭の虹、遠征(後編)
私の仕事は、聖女様のナナメ後ろに立つことである。
右でも左でもなく、正面でもなく、ナナメ後ろ。
この位置には意味がある。
聖女様の視界には入らないが、聖女様がほんの少し首を傾ければ目が合う。
そしてこの位置は、どこにいても変わらない。
教会の石畳でも、森の落ち葉の上でも、他人の領地の祝祭の舞台裏でも。
ナナメ後ろは、ナナメ後ろだ。
それが、ナナメ後ろに控えるメイドの不変の原則である。
***
収穫祭当日の早朝。
私は聖女様が目覚める前に、屋敷の庭を歩いていた。
昨夜から気になっていたことがある。雲の動きだ。
薄い雲が西から流れ込んでいた。この雲の厚みと移動速度から推定すると、午後には崩れる可能性がある。
だが、確証が欲しい。
庭の生垣の隅に、見事な蜘蛛の巣が張られているのを見つけた。
直径は大きく、糸の目は粗い。朝露が光っている。
蜘蛛の巣の張り方は天候の指標になる。
巣の目が粗く大きい場合、蜘蛛は「しばらく天気が持つ」と判断している。
目が細く小さい巣を張っている場合は、雨を警戒して頑丈な巣を作っている証拠だ。
この巣は粗い。だが、昨日よりも若干低い位置に張り直されている。
つまり、今日の午前は持つが、午後遅くには降り始める。蜘蛛もそう読んでいる。
「何を見ているんだ、メイド」
背後にユーリアが立っていた。朝の見回りだろう。
「蜘蛛の巣です。午後から雨になります」
「……蜘蛛の巣で天気を読むのか」
「蜘蛛は気圧の変化に敏感です。巣の位置と構造で、かなり正確に予測できます」
ユーリアが蜘蛛の巣を一瞥し、それから空を見上げた。
「収穫祭は屋外だろう。雨が降れば台無しだな」
「ですので、対策を講じます」
私はメモ帳に、祭りの進行表の修正案を書き始めた。
***
朝食の席で、私は聖女様にだけ小声で伝えた。
「(聖女様、午後から雨が降ります。祝辞は午前中のうちにお願いします)」
「(わかった。午前中に全力で頑張るね)」
元々の進行表では、祝辞を午後の最も人が集まる時間帯に設定していた。
聖女様の祝辞が最大限に注目される──つまり、カーニャの主賓を招いた偉大な領主としての面目も最大限に立つ時間帯だ。
だが、雨が降れば屋外の祭りは中断を余儀なくされる。
「カーニャ様。一つご提案があるのですが」
朝食の席で聖女様がにこりと微笑んだ。
「祝辞を午前中に早めていただけませんか?農家の皆様は午前中のほうがお元気ですし、朝の新鮮な空気の中で皆様にご挨拶したいのです」
カーニャの扇子が止まった。
午前に祝辞を移せば、午後の最も華やかな時間帯に聖女の権威を使えなくなる。
だが、聖女自身からのお願いを断る理由がない。
「……もちろんですわ。聖女様のお気持ちが最優先ですもの」
カーニャは優雅に微笑んだが、扇子を握る指先に僅かな力が入ったのを私は見逃さなかった。
***
午前。収穫祭の広場。
秋の日差しの下、広場は収穫物を持ち寄った農家の人々で溢れていた。
色づいた果物、黄金の麦穂、葡萄の房。大地の恵みが所狭しと並べられている。
舞台の上に立った聖女様は、用意された原稿を持っていなかった。
代わりに、広場を埋め尽くした人々の顔を一人ひとり見渡し、深く息を吸った。
「皆様、おはようございます」
聖女モードの凛とした声だ。
「私は隣の街からお邪魔した身ですので、皆様の一年間のご苦労をほんの少ししか存じていません。ですが、ここに並んでいる実りの一つひとつを見れば、皆様がどれほどの汗を流されたか、想像することはできます」
広場が静かになった。
「暑い日も、寒い日も、嵐の日も。土に向き合い続けた皆様の手は私よりずっと厚く、ずっと立派な手です。その手が育てた実りに神の祝福があらんことを」
聖女様が、深く頭を下げた。
一拍の沈黙の後、広場にまばらな拍手が起った。それはすぐに大きなうねりとなり、歓声に変わった。
カーニャの用意した原稿にあった「カーニャ様のお導き」という言葉は、一言も出なかった。
代わりに聖女様が語ったのは、名もなき農家の手への賛辞だった。
私はナナメ後ろから、カーニャの顔を観察した。
扇子の奥の瞳が、複雑に揺れていた。
怒りではない。困惑だ。自分が用意した権威のための舞台が、純粋な感謝の場に塗り替えられたことへの戸惑い。
***
午後。
予測通り、空が曇り始めた。
祭りの賑わいが最高潮に達した頃、最初の雨粒が落ちてきた。
人々がざわめく。屋台の商人が慌てて幌を張る。
「雨だ……!祭りが台無しに……」
カーニャの顔が曇った。
午後のメインイベント──領主主催の演舞と表彰式が控えていたのだ。
「カーニャ様」
聖女様が、にこりと笑いかけた。
「大丈夫です──ノエル」
「はい」
私は二時間前から手配しておいた荷車に積んだ、大きな油布の天幕を指した。
「あちらに予備の天幕を用意してあります。広場の中央に三枚張れば雨除けになります。設営は──」
「私がやる」
ユーリアだった。
壁際に控えていたはずの彼女がロープと杭を手に、既に広場の中央へ向かっている。
「おい、そこの大工!手を貸せ!支柱を四本、等間隔で立てるぞ!」
護衛の仕事ではないが、ユーリアは迷いなく動いた。
契約金以上のことはしない主義だと言っていたはずだが。
農家の男たちが「おう、任せろ!」と駆け寄り、あっという間に即席の大天幕が張られた。
雨音が天幕を叩く中、その下では祭りの演舞が続行された。
カーニャが、私のそばに歩み寄ってきた。
「……あなた、最初から雨を予測していたのね。天幕の手配も」
「私はただのメイドですので。聖女様が濡れないよう念のための準備をしただけです」
カーニャの扇子が、パチンと閉じられた。
「ただのメイドが、こんな完璧な後方支援をするものかしら?」
「カーニャ様の素晴らしい収穫祭を雨で中断させるわけにはまいりませんでした」
カーニャの目が、一瞬だけ大きくなった。
私の言葉は世辞ではない。この祭り自体は、領民のために丁寧に準備されたものだ。
政治的な思惑はともかく、カーニャが収穫祭そのものに手を抜いていないことは、広場の装飾の質と農家たちの笑顔を見れば明らかだった。
「……恐ろしい主従ね。ヴェロアにはもったいないわ」
カーニャはそう呟き、扇子を広げて踵を返した。
その背中には完全な敗北ではなく、どこか清々しい諦めが見えた気がした。
***
夕刻。雨が上がった。
西の空に、大きな虹がかかっていた。
雨上がりの太陽光が空気中の水滴に屈折・反射して生まれる、光のアーチだ。
「虹……!ノエル、見て!すごく大きい!」
聖女様が広場の真ん中で、両手を広げて空を見上げた。
雨に濡れた収穫物が夕日を反射してきらきらと光り、虹の下で子供たちが歓声を上げている。
カーニャが、広場の端からその光景を見つめていた。
扇子は閉じたままだ。その表情は、政治家のものではなかった。
自分の領地の空に架かった虹と、その下で笑う人々をただ静かに見つめている一人の領主の顔だった。
ユーリアが私の隣に立った。
「……悪い奴じゃないな、あの領主」
「ええ。やり方が回りくどいだけで、領民への愛情は本物です」
「あんたもよく見てるな」
「ナナメ後ろからですので」
***
翌朝。帰路。
カーニャが屋敷の門まで見送りに来た。
「聖女様、短いご滞在でしたが、楽しんでいただけましたかしら」
「とても!カーニャ様の街は素敵ですね。葡萄も、蜂蜜も、皆様の笑顔も、全部素晴らしかったです。また遊びに来てもいいですか?」
遊びに来る。
招待状に書かれた「主賓としての公式訪問」が、聖女様の口からは「遊びに来る」になる。
カーニャの扇子が、小さく震えた。
「……ええ。いつでもいらしてくださいな。次は、政治抜きで」
最後の一言は、ほとんど独り言のような小さな声だった。
聖女様には聞こえていなかっただろう。
だが、ナナメ後ろの私には、はっきりと聞こえた。
***
帰路の丘の上。
来た時と同じ場所で、三人は足を止めた。
振り返れば、カーニャの街が秋の光の中に佇んでいる。
前方には、見慣れた私たちの街の塔が、小さく見えていた。
「ユーリアさん、ここまでありがとうございました」
聖女様がユーリアに頭を下げた。
ユーリアは少しだけ困った顔をして、頭の後ろを掻いた。
「契約だったからな。まあ、悪くない仕事だった」
「また護衛のお仕事があったら、お願いしてもいいですか?」
「報酬次第だ」
ユーリアはそう言って、私に視線を向けた。
「メイド。あんたの入れたスープはうまかった。次も期待している」
「恐れ入ります」
ユーリアは軽く手を挙げ、街道の反対方向へと歩き出した。
その背中が小さくなっていく。
聖女様が小さく手を振り続けているのを確認してから、私は静かに隣に立った。
「……ノエル」
「はい」
「世界って広いね!」
聖女様が、二つの街を見渡せる丘の上で呟いた。
秋風が、ポニーテールを優しく揺らしている。
「はい。広いです」
「でも、どこへ行っても、ノエルがナナメ後ろにいてくれるなら、ワタシは怖くないよ」
私は、少しだけ返事に時間がかかった。
「……それは、私も同じです」
自分の声が、思っていたより小さかったことに気づいた。
だが、聖女様は聞こえていたらしく、にこりと笑って歩き出した。




