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ep.07 過去、今、未来

 上空から注がれる容赦のない夏の陽光に、俺の頭は焼け焦がされそうだった。

 暑い。

 歩いているだけで額に汗が滲んでくる。日中外に出ると、もうこれほどまでに暑いのか。


 予報を見てわかってはいたものの、俺の知らぬ間に季節はまさしく夏本番を迎えていたようだ。

 商店街を抜け、大学に近づくにつれ、慣れ親しんだ景色がいくつも目に飛び込んでくる。よく昼飯を買いに来るコンビニや、何時間も無駄に駄弁ったファミレス、意味もなく立ち話に明け暮れた駐車場。


 それらの景色は、否応なく俺に追想を呼び起こし、そのたびに歯を食いしばって別のことを考えた。


 大学構内までたどりつくと、その追想はより濃度を増し、俺の心に襲いかかってきた。得体の知れない吐き気がしてきて、視界がぼやけた。

 しかし、ここまで来て引き返すわけにはいかない。いい加減講義にも出ないと試験に影響が出るし、敦や兼保にも顔を見せる必要があるだろう。


 俺は下を向き、なるべく周りを見ないようにしながら、早歩きで学食へと急いだ。

 全身に汗を垂れ流して学食まで来ると、ちょうどお昼どきだったのでかなり混雑していた。券売機のまわりには食券を求める学生が殺到し、気が遠くなるような行列が形成されていた。食券を購入することは諦め、俺はそのまま学食の奥へと進んでいった。


 調理場裏のあの席に来ると、敦と兼保が眠そうな様子でスマホを弄っていた。

 俺に気付いた敦が、目を見開き「ノリ!」と大声をだした。

 兼保は何を言うでもなく、ただただ唖然とした表情でこちらを見ていた。

 敦は立ち上がると、俺の肩に手をおいた。


「お前一ヶ月も学校来ないで……とにかく、ここ座れよ」

 自分の隣の椅子を引き、そこへ俺を促した。


「ノリ、大丈夫なのか」

 俺が座るとすぐに、兼保が声をかけてきた。

「相当体壊してたんだろ? 無理もねえけど……」

 敦も心配した様子で、俺の顔を覗き込んでいた。


「別に、何も? 大丈夫だけど」

 俺は二人の質問に、なかば投げやりに答えた。


「何もって、そんなことはねえだろ……」

 たどたどしい口調で、敦が言う。すると兼保が「まあ」と口を開いた。

「ノリが大丈夫って言うなら、それでいいじゃねえか」

「わかった」


 それだけ言うと、敦も兼保も口を閉ざした。そして、それぞれ目を合わせることもなく黙りこんでしまった。 周りからは、下品で、煩わしい話し声がそこかしこから聞こえた。遠くで、いかにもチャラそうな風体の男が大笑いして手を叩いているのが見えた。


 いつもそうだが、ここは基本的に喧しいところだ。

 学食へ来たらまた色々と思い出して、一段と体調が悪くなるかと思っていたが、案外そうでもなかった。

 絵梨花は基本的にはアトリエにいることが多く、ここにはいないことも多かったからだろうか。ということは、ここには絵梨花の片鱗はあまりない、ということになるのだろうか。


 そんなことを考え、また絵梨花を思い出していることに嫌気が差した。


「みんなは、午後からの予定は」

 頬杖をつき、やや気の抜けた声で敦が言った。

 その質問に、兼保も俺もなかなか答えない。


 その空気を察すると、敦は肩をすくめてため息をついた。

 敦の問いかけは、まるで水面に投げ入れた石のように、どこかへ沈んでいってしまった。


 またしばらくの沈黙となる。

 話すべきことも見つからず、俺はまわりの学生たちをぼんやりと眺めていた。

 賑やかに話すグループを見て、どうしてこいつらはこんなに幸せそうなんだろうか——と考える。ここにいる奴ら全員の、その緊張感のない笑顔を、片っ端から殴り倒したいと思った。


 俺の前で、無神経に笑うな——


「なあ」

 敦が様子を伺うような調子で声をだした。その呼びかけに反応することもなく、俺も兼保も黙ったままだった。


「やっぱり、絵梨花がいねえと寂しいよな……」

 敦がぽつりと呟いたその言葉を、俺は看過できなかった。瞬く間に脳内に電流が走り、咄嗟に声を荒げた。


「絵梨花の名前を出すな!」

 一瞬、まわりの声も聞こえなくなり、静寂が起きたような気がした。敦も兼保も、呆気にとられて俺を見ていた。


「絵梨花のことを口に出すな! もうアイツはいないんだ!」

 興奮を抑えきれず、俺は声を荒げて敦を責め立てた。忘れてしまおうと決めた絵梨花の名前を口にされるのが、許せなかった。


「悪かった。絵梨花の話はしない。だから落ち着けって……」

 敦になだめられ、俺はなんとか落ち着きを取り戻した。瞬間的に頭に血が上り、我を忘れてしまった。


「絵梨花のことは……思い出すと辛くなる。だから、しばらく絵梨花のことは忘れよう。禁止だ」

 俺がそう言うと、敦は頷き「分かった。それでいい」とだけ言った。

 すると、兼保が眉間にしわを寄せ、鋭利な刃物のような目つきで俺を睨みつけた。


「しばらくっていつまでだ? 忘れるってどういうことだよ?」

 ドスの利いた声でそう迫られ、俺は反応に困った。

「気持ちの整理がつくまで、だろ」

「しばらくとか言って、そんなんじゃずっとそのままになるだろう。ノリ、本当にそれでいいのか」

「そうなったらそうなったで、別にいいよ」

 兼保の刺々しい言葉の追求に気圧され、俺の返答は弱々しかった。


 そして今度は、兼保が感情を露わにした。

「お前、ふざけたこと言ってんじゃねえよ。何が忘れるだ? そんなんで絵梨花が喜ぶとでも思ってんのか」

 それを火種にして、俺の感情も再び燃えさかった。


「やめろ! 絵梨花のことを口にするなって言っただろ」

「辛くなる悲しくなるって、自分のことばっかり考えやがって。そのくらい耐えろよ! 一番無念なのは絵梨花だろうが!」

「んなことわかってらぁ! 兼保に俺の気持ちがわかるか? 俺の辛さも知らねえくせに!」

「テメエの気持ちなんて知るかよ! 俺は俺で大事な友達を亡くして悲しいんだよ!」

「だから忘れるんだよ! 思い出して辛くなるから忘れる、それでいいんだよ!」

 気づけば俺と兼保は、お互いの胸ぐらを掴みあっていた。

 そして、横で敦が俺たちの肩を押さえつけていた。


「ノリ、お前……本当に、本気で言ってんのか」

 兼保は急に冷静になり、諭すような口調で俺に語りかけてきた。


「絵梨花と今まで過ごした日……話したこと、笑ったこと、一緒に見たもの……全部、忘れちまうのか?」

「う……」

「絵梨花がお前にしてくれたこと……全部、なかったことにすんのか?」

 兼保の言葉に、俺の目には次第に涙が滲んできた。


「絵梨花がいたから、今俺たちは三人一緒にここにいる。なのに、忘れられるか?」

「うう……」

「俺たちが絵梨花のこと忘れちゃったら、絵梨花は本当にこの世から消えちまうよ。絵梨花っていう子がいたこと、俺たちが覚えていないと」

 目から、無数の涙がこぼれ落ちた。学食で人目もあるので止めようとするが、涙は際限なく溢れてきた。


「いいか? 俺たちは生きてる。きっとこれからも、随分長いこと生きていくだろう。俺たちが絵梨花のことを語り続けて、死ぬまでずっと語り続けて、ずぅっと忘れないでいるんだ。そうすれば、絵梨花は俺たちの中で生き続ける」

 兼保はそこまでひと思いに話すと、ふうと大きくを息を吐いた。


「少なくとも、俺はそう思ってるんだけどな……」

 

 俺は、いつの日かの講義で教授が話していたことを思い出した。

 もしも大切な人が亡くなったら——

 悲しみを恐れずに向き合い、友人とその人のことを語り続ける——


 俺は涙を流しながら、決心を固めた。

「二人に……聞いてほしいことがあるんだ」

 敦と兼保は、神妙な面持ちでゆっくりと頷いた。


「絵梨花が亡くなった日——俺、絵梨花と喧嘩しちゃったんだよ。それで……ひどいことを言った。本当に、ひどいことを……」

「ひどいことって、何を?」

 敦が恐る恐る訊ねてきた。


「絵梨花は俺のことなんてどうでもいいんだろ、って」

「それはまた急だな。なんでそんなこと言ったんだ……?」

 兼保が不思議そうに首を傾げた。


「お前らには言ってなかったけど……絵梨花には好きな人がいたんだよ」

「ええ?」

 敦と兼保はひどく驚き、口をあけたまま俺の方を見た。


「それって誰なんだ? 大学の人か?」

 困惑しているのか、兼保は額を右手で押さえていた。

「それが正直……俺にも誰かわからないんだ。妙な話でさ」

「つまり、相手のことはノリにも教えてくれなかったのか?」

 そう訊かれて俺は、「そうじゃないんだ」とかぶりを振った。


「コンクールで絵が入選したら、再会する約束をしてるって——」

「コンクールって、この前絵梨花が絵を提出した、八月の紫玉絵画展のことか?」

 敦の質問に軽く頷き、俺は話を続けた。


「それで再会する約束を果たしたら、そこで想いを伝えるんだって、そう言ってた」

 ここまで話すと、敦と兼保は「なるほどな」と深くため息をついた。学食内は相変わらず騒がしく、続きを話すことが少々ためらわれた。


 すると、敦が出し抜けに口をひらいた。

「でもそれだけじゃ、相手がどんな人かも全然わからないな。なんか信じられねえ」

 そして手元にあった炭酸飲料をぐいっと一飲みした。


「でも、絵梨花はあの絵をすごく一生懸命描いてた。だからこの話は本当だと思う」

 俺がそう言うと、「まあ絵梨花が嘘をつくわけないしな」と敦も兼保も頷いた。


「どういういきさつかは分からないけど……絵梨花には他に好きな人がいた。だから、ノリはそんなひどいことを言っちゃったんだな」

「そう。そのとおり……」

 心配そうな表情を浮かべる兼保に、俺はゆっくりと頷いた。


「でも、ノリも辛かったんだろ? 誰かもわからない恋敵の存在を認めるなんて」

 兼保にそう言われて、俺は——

 何度も何度も頷いていた。思い切り唇を噛んで。


 そしてまた、次から次へと涙が溢れてきた。仕舞いには洟水までだらだらと流れてきて、俺はぐしゃぐしゃになっていた。


「俺は嫌だったんだ。絵梨花が振り向いてくれないことが。俺の知らない人の話をして、その人のことを話す時にだけ絵梨花の顔が煌めくことが、本当につらかったんだ」

 決壊したダムのように、抱え込んでいた感情が口から流れ出ていく。


「だから俺は、言っちまったんだ。あの日、絵梨花に……」

 敦と兼保は一瞬俺の方を見たが、すぐにまた目を伏せた。


「俺のことなんて、どうでもいいんだろって」


 それはきっと、何もかも取り返しのつかない言葉だった。絵梨花は一度だって、俺のことをどうでもいいなんて思ったことはないだろう。

 絶対に、ないだろう。

 敦も兼保も、何もしゃべる気配はない。


「わかる、わかるよ。俺は最低なことを言っちゃったんだ」

 溢れる涙を右手の甲で拭い、俺は話を続けた。


「それで俺はそのまま、喧嘩別れをするように——絵梨花をおいて帰った」

 二人は黙ったまま、俺の話に耳を傾けていた。


「もし俺が帰らずに、キャンバスを運ぶのを手伝っていれば、絵梨花は助かったかもしれない。絵梨花にひどいことを言って傷つけたうえ——絵梨花を見殺しにしたクズなんだ、俺は」

 話していて、また涙がぼろぼろとこぼれてきた。俺の声はしゃがれて、もはや死にかけの蝉のようになっていた。


「絵梨花は好きな人と再会する未来を夢見ていたのに……絵梨花の未来を奪ったのは、俺なんだ。俺の、俺のせいで……」

「一旦落ち着け、ノリ」

 兼保が真剣な面持ちで口をひらいた。今までに見たこともないくらい、凛々しい顔つきだった。


「まず、絵梨花が事故に遭ったのは断じてノリのせいじゃねえ。ノリは絶対に悪くない」

 兼保に続いて敦も「そうだ。ノリはまったく関係ねえ」と首を横に振った。


「でも俺は、絵梨花にひどいことを言った。もうそれはどうにもできない。何も変えられない」

 俺がそう言うと、兼保は「だろうな」と少しきつめの口調で言った。

「その後悔は、多分一生消えない。ずっと心に残り続ける」

 言葉にできず、「う……」と悶えて溢れる涙を腕で拭った。


 兼保は真剣な表情のまま、俺に語り続けた。

「このまま何もしないでいたら、ずっと後悔し続けるだけなんだよ。なあノリ、思わないか? 過去は過去なんだよ」

「……どういうことだ?」

 そう問いかけて首を傾げると、兼保は少しだけ柔らかい表情になった。


「過去のことを悔いても、過ぎ去ったことは何も変えられねえ。なら、これから何ができるか考えるんだ」

「これから?」

「絵梨花はもういないけど……それでも今から絵梨花に何かしてあげられないか、考えるんだ」

 俺の心に、ふわりと一陣の風が吹いた気がした。


 兼保はそれに勘付いたのか、柔らかい表情のまま話し続けた。


「今からだって、絵梨花にしてあげられることはあるはずだ。ノリも、そして俺と敦も。くよくよ悩むくらいなら、そう考えた方が絶対に良い」

 敦は今にも泣き出しそうなほど涙目だったが、口元だけで笑みを作り「絵梨花もその方が喜んでくれるだろうな」と言った。


「本当に……それでいいのか? 俺なんかが、今から絵梨花のために……何かしてもいいのか?」

 口から絞り出すように、俺は必死に話した。

「当たり前だ」

 兼保も敦も、力強く頷いていた。


 今からでも遅くない。絵梨花にできること——

 俺の心に吹く風は、温かな南風のように確かなものになっていた。


「それなら、一つしかないと思うんだ」

「……なんだ?」

 敦と兼保のまっすぐな瞳が、俺の顔を捉えた。その瞳に向かって俺は言った。


「絵梨花の約束を、叶えてあげるんだ」

 自分で言葉にして、確信を得た。やはりこれしかない。


「絵梨花の好きだった人を探して、絵梨花の想いを伝えてやりたい」

 きっとこれが——今の俺の、絵梨花にできる精一杯だ。


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