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ep.05 明日どうなってるかなんて、誰にもわからない

 

 快晴の空。どこを見ても、雲一つない。


 まるで神様が大きな絵筆を使って一面塗りつぶしたのかと思うほどの、鮮やかなスカイブルー。その青さはどこまでも広がり、この地球を丸ごと包み込んでいるんだろう。


 そんなことを考えてしまうくらいに、今日という日は心地よい。

 アパート近くの神社ではアオゲラたちがのんびりとさえずっていたし、大学近くの商店街では、暇を持て余した婦人たちが井戸端会議にいそしんでいた。吹き抜ける風は、どこか懐かしい匂いを纏っていた。


 何か特別なことがあったわけではない。

 すべてがいつも通りなのに、なぜか心が弾み、大らかな気持ちになってくる。


 もう、夏がそこまで来ているからだろうか?


 あのお好み焼き屋での飲み会から一ヶ月あまりが経過し、六月も下旬になった。まだ梅雨は明けていないらしいが、ここ数日は雨も降らずに今日のような陽気が続いている。このままの勢いで、夏になってしまうんだろう。


 持て余すほどに長い夏季休暇は何をしようか。海へ行ったり、山へ行ったりできるかな。それならレンタカーを借りる必要があるな。

 最近運転していないし、感覚を取り戻しておかないと。

 泊まるなら、もう宿とか探しておいた方がいいだろうか。できることなら、みんなで行きたいな。絵梨花も含めて——


 そんな夏の計画に想いを馳せ、俺は鼻歌まじりで学校への道を歩いた。

 いつも通りの道。大学の正門へと続く、一本道の道路。その路面にはカラフルな色模様の石が埋め込まれている。通称ビードロ通り。

 滅多に車が通ることはなく、歩いているのはうちの学生ばかりだ。


 俺は家にあった古ぼけた団扇をぱたぱたと扇ぎながら、その道を歩いていた。

 汗の滲んだTシャツが背中にはりつき、鬱陶しい。

 やっとのことで正門にたどり着き、俺はふうと息をついた。


 ビードロ通りは、大学の正門にぶつかる所で二手にわかれる。

 その先で交通量の多い国道にそれぞれつながっていて、自転車やバイク通学の人は、ビードロ通りを使わずそちらから来る人もいる。


 正門に差し掛かったところで、向かって右側の道の先が騒がしいことに気づいた。

 ちょうど国道と接続している辺りだ。うちの学生だろうか?

 人だかりができており、その慌てようから、ただごとではないことが伝わってきた。

 よく目を凝らせば、その群れの中に救急車やパトカーが停車しているのが見えた。


 交通事故だろう。


 あそこは、交通量の多い国道だ。事故が起きてもおかしくはない。そういえば、前にも一度事故が起きているのを目撃した記憶がある。

 まあ、交通事故くらい珍しいことでもないだろう。俺はそんなことを思って、現場に集まる野次馬たちに冷ややかな視線を送りながら、先を急いだ。


 今日は久しぶりに絵梨花からアトリエに来ないかと誘われていたのだ。

 この前話した課題用の絵に悩んでいるから、相談に乗って欲しいと言われていた。なので、教育学部の校舎に直接向かおうとしていたが、その前に一度学食に寄っていこうと思った。


 今日は連絡をとっていないが、もしかしたら敦か兼保がいるかもしれない。少し腹が減った気もするし、ちょっと腹ごしらえしてもいいかもしれない。

 そう思って足早に学食へと来たが、いつもの席には誰も座っていなかった。


「今日は誰もいないのか——」

 そう独りごち、周囲を見回してみる。

 瞬間、背中に一筋の悪寒が走った。まるで背中を大きな毒蛇が這ったかのような不快感だ。

 俺は眉をひそめて、もう一度辺りを見回してみた。


 特におかしなこともなく、きゃいきゃいと彩度の高い話し声が、そこら中に響いていた。グループを作って夢中に話す学生たちの笑顔は、まるでセルロイドの仮面を被っているかのように、作り物めいて見えた。


 そして、一気に虚しさが押し寄せてくる。


 この喧騒の中に一人でいると、得体の知れない焦燥感に苛まれるような気がする。

 待っていれば敦か兼保のどちらかが来るかもしれないが、俺は早々に学食をあとにしアトリエへ向かうことにした。

 思えば、こんな気持ちになったのは久しぶりだ。絵梨花たちに会ってから、一人でいることも平気になっていたはずなのに。


 それに、不意に感じたあの悪寒はなんだったのだろうか?

 一瞬ではあったが、確かに肌を伝った感触に疑問を抱きつつ、俺は歩く足を速めた。


 教育学部の校舎には、講義終わりの学生がちらほらと歩いていた。

 この監獄みたいな校舎も、若い学生がいれば幾分か雰囲気はマシなものになる。

 この講義終わりの学生たちに、絵梨花も混ざっているんだろうか。

 俺は足を止めることなく、まっすぐに美術科のアトリエと向かった。しかし、薄暗い廊下を歩いて行くものの、その先に灯りは見えなかった。


 いつものアトリエの前まで来たが、電気は点いておらず、中には誰もいないようだった。

 絵梨花はまだ来ていないのだろうか。引き戸に手をかけると、鍵はかかっていないようだった。

 そのまま中に入ってみたが、やはり誰もいない。


 相変わらず、画材や珈琲やらが混ざった不思議な匂いが立ちこめていた。カーテンは閉めきられていて、室内は薄暗い。


 時刻は十三時過ぎ。絵梨花は昼には来ると言っていたから、もう居てもおかしくない時刻である。

 授業が終わったら直接向かうと言っていたので、それで手間取っているのかもしれない。

 俺はカーテンを開き、外を眺めながらしばらく絵梨花を待つことにした。


 窓からの景色は実に退屈なもので、その呑気さが逆に絵梨花を待たせる余裕をくれた。目の前には緑の茂った銀杏の樹が等間隔に植えられていて、その向こうにはグラウンドが見えた。

 陸上部の集団が、群をなしてランニングを行っている。


 視界の中に高い建物は見えず、上空には大きな青空が広がっていた。陸上部の白と赤の練習着が、その青空にいい具合に映えていた。

 騒がしい大学構内の中で、ここだけ時の流れが止まっているかのように思えた。

 絵梨花は、そろそろ来るだろうか——


 眠りに落ちそうなほどぼーっとしていると、がらっと扉をあける音が聞こえた。

 絵梨花が来たかと思って振り返ったが、そこにいたのは見ず知らずの男子だった。明るい茶髪に、ミュージシャンのような派手なテンガロンハットをかぶっていた。


 俺を見て少し目を丸くしたが、そのまま何事もなかったかのように入ってきた。彼は部屋の隅に置かれていた鞄を手に持つと、そのまま部屋から出て行こうとした。


「あの、すいません」

「……なんですか?」

 話しかけると、あからさまに不機嫌そうな返事をされた。


「知ってたらでいいんだけど、川原さんって今日ここに来た?」

「川原? さあ、知らねっす」

 彼はそれだけ言い残すと、一秒でも時間が惜しいとばかりにさっさと出て行ってしまった。確かに俺は部外者の人間だが、なにもそこまで無愛想にすることはないだろう。


 いや、部外者かどうかも興味がなかったのかもしれない。

 絵梨花の言っていた通り、美術科には変わり者が多いようだ。


 それから数時間待っていたが、絵梨花は一向に現れなかった。

 電話しても携帯の電源が切れているようで通じず、夕方の四時をまわったところで俺は帰ることにした。


 俺との約束を、忘れてしまったんだろうか。連絡の一つもよこさないなんて、あんまりだ。自業自得ではあるが、俺は今日講義をサボってまでここに来たのだ。


 肝心の絵梨花は一体何をしているんだろう。

 やり場のない苛立ちを募らせながら歩いていると、校舎から出ようとしたところで絵梨花と鉢合わせになった。


「ノリ! 遅くなってごめん!」

「絵梨花。何してたんだよこんな時間まで」

絵梨花は慌てた様子で、息を切らしていた。


「教授に呼び出されてずっと話しててさ、電話もできなくて……ごめん」

「そういうことなら仕方ないよ。けど三時間くらい待ってたんだぜ、俺」

 ため息まじりにそう言うと、絵梨花は両手を合わせて深く頭を下げた。


「本当にごめん。大事な話をしてたんだよ」

「電話くらいはできたろう」

「気が回らなくて…ごめんね」

 教授に呼ばれたというのなら仕方ない事情だが、頭では分かっていてもやはり割り切れない。何時間もほったらかしにされた苛立ちが、俺の胸の内でうごめいていた。


「俺を三時間も放っておくほど大事な話だったんだな」

「本当にごめん。反省してるよ……」

「教授と話ってなんなんだよ? 何かやらかしたのか?」

 俺がそう問いかけると、絵梨花は得意げな顔つきで「ちがうんだな」と指を振った。本当に、次から次へ表情が活き活きと変わるやつだ。


「これが朗報なんだよ」

 絵梨花はもったいぶるように、楽しそうに含み笑いをした。


「朗報って?」

 俺が再び尋ねると、絵梨花は待ってましたとばかりに、「入選したかも」とだけ言った。


「入選? 入選って、例のコンクールの絵か? もう審査してるのか」

「向こうの選者さんが挨拶に来てさ、何かしらの賞は取る可能性が高いって。それで教授にも呼ばれたの」

 そういうことか、と納得した。

 四年に一度の権威あるコンクールで賞を取ることになれば、学科としても素晴らしいことだ。それでわざわざ教授から呼び出しがあったというわけか。


「そういうのって事前にわかるものなんだ」

「ものによるだろうけどね。今回のはそうみたい。それに私が学生だからってのもあるかもしれないけど」

「そうか……それは良かったじゃないか」

 俺の発した感情のこもっていない言葉に、絵梨花は首を傾げた。きっと俺は、さぞかし仏頂面だったんだろう。


「これもノリたちが応援してくれたからだよ。本当に嬉しい」

 そう言って絵梨花は俺に笑顔を向けたが、その煌きは俺の心に触れることはなかった。

 俺、応援していただろうか。絵梨花に入選してほしいって、一度でも思っただろうか。


 絵梨花はどうして俺を見てくれないんだろう?

 その太陽のようにすべてを明るく照らす笑顔だって、違う誰かに向いているものなんだろう?


 絵梨花は笑顔を崩さず話し続けた。

 そのことさらに楽しそうな様子が、俺のことなど全然顧みていないような気がして、さらに苛立ちを加速させた。


「本当に良かった。これでやっと……」

「約束の人に会える、ってか?」

 絵梨花が言いかけたところで、俺が割って入った。


「ノリ……?」

「そうだろう。入選したから、好きな人に再会できるんじゃないか。それで絵梨花は喜んでるんだろう?」

「それは、そのとおりだけど……」

 その返事を聞いて、俺はわざとらしく舌打ちをしてみせた。絵梨花の前で舌打ちなんてしたのは、初めてだったかもしれない。


「約束の人、約束の人ってさぁ、過去のことばかりに目を向けて」

 かつてないほどに尖った語気で俺は絵梨花に迫った。


「今、目の前にいる俺との約束は守らないくせに!」

「ノリ、それは違うよ。私本当に悪いと思って……」

「そんなことないだろう!」

 涙目になる絵梨花に向かって、俺は声を荒げた。


「なんて言い訳しようと、俺との約束は守らなかった。それが全てじゃないか!」

 そして俺は一呼吸おくと……最低な一言を発してしまった。



「俺のことなんて……どうでもいいんだろ?」



 俺がここまで言い終えると、絵梨花の頬には涙が伝い、力なく笑っていた。

「それで全部かな。ノリ」

 俺はその問いかけには答えなかった。


「確かに私の約束は大切……ずっとこのために絵を描いてきたし、必ず叶えたいと思ってる……でもね」

 絵梨花はひどい涙声で続けた。

「ノリだって、同じくらいに大切だったんだよ?」

 その言葉に心臓が一つ大きな音をたてたが、声は出さず、黙って絵梨花の顔を見つめ続けた。

 絵梨花は白いブラウスの袖で涙を拭うと、ゆっくりと呼吸を整えた。


「でも、私の約束を知ってるのはノリだけだったから——ノリになら全部話せるから」

 絵梨花の頬には、次から次へと涙が流れ落ちた。

「私がノリの幸せを願うように、ノリも私の幸せを願ってくれると思ってた……私、馬鹿だったのかもね」


「それはどういう意味?」

「ごめん、気にしなくていいの」

 絵梨花は力なくそう言うと、俯いてしまった。


 絵梨花は何が言いたいんだろう。

 絵梨花の幸せを、俺が願う? それはつまり——


「ねえ、ノリ。今から家に描きかけのキャンバスを取りに行ってくるから、アトリエ来ない?」

「はあ?」

「できたら一緒にキャンバスを運ぶのも手伝ってもらえたら——」

 絵梨花がすぐにいつもの調子に戻ったことが、また俺の苛立ちに火をくべた。


「随分勝手なこと言うんだね。俺はもう三時間も待ってたんだ。描くなら一人で描けよ」

「そっか……」

「俺は便利屋じゃねえんだ。帰る」

 そう言い捨て歩き出すと、後ろから「明日もアトリエで待ってるから、気が向いたら来てね」と声が聞こえた。

 俺は、その声に振り向くことはなかった。



 出会ってから一度も、絵梨花との約束を破ったことはなかった。

 絵梨花の願いにはすべて応えたいし、そうすることが絵梨花の幸せになるとずっと信じていたからだ。


 だが俺は次の日、アトリエへ向こうことはなかった。

 絵梨花との約束を、初めて破った。

 もちろん絵梨花が寂しそうにするのも目に浮かんだし、絵梨花を困らせたいわけでもない。

 だが、あんなことを言ってしまった以上、絵梨花に合わせる顔がなかった。


 俺は絵梨花に、ひどいことを言ってしまったかもしれない——

 でも、俺には俺の「気持ち」がある。結果的にひどいことを言ってしまったかもしれないが、俺は悪くはないんだ……



 絵梨花との諍いがあってから二日後。

 俺はその日も昼過ぎまで惰眠を貪っていた。午前中に学部共通の講義があった気がするが、そんなものはどうでも良かった。

 正午を過ぎたあたりで、携帯に着信があった。

 滅多に電話がかかってくることもないので、思わず飛び起きた。


 番号に目をやると、携帯電話のそれではなかった。今月は電気代もガス代も払っているし、こんな番号から電話がかかってくる覚えはない。

 恐る恐る電話をとると、平板な女性の声が聞こえた。


「もしもし、こちら伊坂憲明さんの携帯でよろしかったでしょうか」

「——そうですが」

 警戒し、一呼吸置いてから応答した。

「恐れ入りますが、今出られているのはご本人で?」

「ええ、自分です」


「申し遅れましたが、私○×大学教育学部の、学務課の者です」

「え、そうなんですか」

 どうやら、うちの大学の学務から電話がかかってきたようだ。それを聞いて、目が冴えてきた。教育学部、というのがひっかかるが——


「お伝えしないといけないことがありまして。落ち着いて聞いて欲しいのですが——伊坂さん、教育学部の川原絵梨花さんをご存知ですよね? うちの学生に連絡したところ、親しくしていると耳にしましたので」

「ええ、まあ……仲良くしていますが」

 俺は音をたてて生唾を飲み込んだ。嫌な緊張感が体に走った。


「大変残念なことではありますが……二日前、川原さんが学校近くで事故に遭われて、お亡くなりになりました」

 

 電話口の声が、まるで機械の自動音声のように、俺の頭を通過していった。

 今、何て言った?


「つきましては、親御様より大学のご学友に向けて葬儀の案内が来ておりますので……口頭でお伝えしてもよろしいでしょうか」

「えーと、何を言ってるんでしょうか。誰が亡くなったって?」

「川原絵梨花さんですが……ご友人ですよね?」

「絵梨花が、亡くなったんですか?」

 俺はわけもわからず、聞き返してしまった。


「はい、そうです。大変お辛いかと思いますが……心中お察しします」

 

 そのあと、何を話したかはあまり記憶に残っていない。

 葬儀の詳細は大学のメールの方にまとめて送るとか、他にも他学部で親しい友人がいたら伝えて欲しいとか、そんなことだった気がする。

 それよりも俺の記憶に残ったのは、絵梨花が二日前の夕刻に事故に遭ったということだった。

 

 ちょうど俺と揉めた、その直後である。

 一人で大学に向けてキャンバスを運んでいる最中、交差点で左折したトラックに巻き込まれ——即死だったらしい。


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