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ep.03 出逢い

 二○○九年五月——


 大学に入学して間もなかった俺は、キャンパス内で孤立していた。

 人と群れることが得意ではなかったので、サークルに入ることもできず、学部内で友人を作ることもできなかった。

 新しい環境に翻弄され、為す術もなく棒立ちするように日々を過ごしていたら、あっという間に一人になっていた。


 ある日、在籍している法学部の英語の授業のあと、クラスの親睦を深めるため皆でカラオケに行こうという話が上がった。

 ピアスを開けたり、髪の毛を明るく染め上げたクラスの中心メンバーによって企画されたものだ。


 彼らのことは好きではなかったが、女子も含めクラスのほぼ全員が参加するということなので、声をかけられるのを心待ちにしていた。

 ここで打ち解けて、友人を作るチャンスが来るかもしれないと思ったのだ。


「おい、あいつどうすんだよ」

「あー、そういや声かけてねえな」

 授業後、例の中心メンバーが俺の方を見て話しているのが聞こえた。


「別に良くねえ? 絡んだこともねえし、男子のが人数多いしよ」

「だな。そもそもあいつ名前なんて言ったっけ?」

「名前も知らん奴呼ばなくていいだろ」

「そりゃそうだよな!」


 どっと笑いが起きたのが分かった。ずっと一人でいる俺を話のネタにして、笑いものにしていたのだ。

 そしてクラスメイトの一団は、俺を一人残して慌ただしく教室から出て行った。


 やっぱり、誘われなかったか。


 どうってことないと思っていたが、帰り道は視界がぼやけた。

 悔しくて、目に涙が滲んだ。惨めで情けなくて、歯を食いしばって大学からアパートへと帰った。


 高校までは、何もしなくてもただ教室にいるだけで話し相手ができた。

 自然と友達ができて、何も無理せず楽しい毎日を送ることができた。しかし、それは大学では許されないのだ。


 大学で楽しくやっていくためには自分を取り繕い、必死に営業して輪の中に入っていかなければならない。

 楽しくもない話題で笑ったり、どうでもいい流行に詳しくなったり、行きたくもない飲み会に付き合わなければならない。

 ぼやぼやしている奴は、置いて行かれる。


 俺はただ自然体でいたいだけだった。

 自然に笑って、興味のあるものだけ追いかけて、自由に過ごしていたい。そう思っていたら、俺の周りからは人が消えた。


 それの何がいけなかったというのだろう。

 無理して作る関係性なんて、そこに何の意味があるというのだろう。


 そんなことを一丁前に考えながら、俺はしばらく一人だった。一向に誰にも心を開けず、授業はいつでも一人きりだった。

 次第に、大学へ通うことにも嫌気が差してきた。

 どうせ大学へ来ても話す相手すらおらず、一人きりなのだ。こんなもの、誰だって嫌になって当然だ。

 興味があったはずの学部の講義だって、ちっとも面白いと思えない。


 いっそのこと、辞めてしまおうか——


 そんなことまで考え始めたある日、俺は全学部共通の一般教養の講義に出席していた。

 健康医学と名を冠したその講義は、癌のリスクや食生活の重要性などを学ぶものだった。

 一般教養の講義は内容もくだけたもので簡単に単位がとれるということで、どの講義も人でいっぱいなのだが、この講義に限っては内容の退屈さも相まってか、閑散としていた。


 その日も誰も寄り付かない一番後ろの隅に陣取り、一人で講義を受けようとしていた。

 この阿呆みたいに退屈な授業を乗り切ったら、さっさと帰ってしまおう。

 そんなことをぼんやりと考えていたら、俺の近くに一人の女の子が座って話しかけてきた。


「ねえねえ、ここ誰か来る? 座っていいかな」

 突然のことで、俺は口を開けたまま何も応答することができなかった。


「いきなりごめんね。私前回休んじゃってさぁ。良かったらノート見せてくれない?」

「ノート? いいけど……」

 なんて言ったらいいのか分からず、しどろもどろになってしまう。

 人と話すこと自体久しぶりなのに、まさか女の子と話すことになるなんて、夢にも思っていなかった。


「うわ! 綺麗にノート書いてるんだね。すごいなぁ」

「ま、まあ、後で見返す時に見やすいじゃん」

「そっかーなるほどね。えーと……何くん、かな」

 そう言って俺を捉えた彼女の瞳は、きらきらと輝いていた。

 雲ひとつない、地面いっぱいに日光を注ぐ青空のように澄んでいた。


「俺は伊坂憲明。法学部だよ」

「そっか、憲明くんって言うんだ。私は川原絵梨花。教育の美術科だよ。よろしくね」

 自己紹介をすると、彼女はまた無邪気にしゃべり出した。


「にしても憲明くんって字上手いね。ノートとかこれもう、売れるレベルだって!」

「そんな大げさな。ちゃんと書いとくと後で楽できるじゃん。結局サボリ性なだけだよ」


「いやいやー、私にはマネできない。無理だよ。書道とかやってたの?」

「まあ、小学生の時にちょっとだけ」

「やっぱりなぁ、そうだと思った。字の上手い憲明くん、覚えたよ」

 そう言うと、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべた。なんだか照れくさくて、俺は唇を噛んでそれとなく頷いてみせた。


「あ、ごめんね。ソッコーで写しちゃうからさ」

「別に。ゆっくりで構わないよ」

「そうはいかないよ。もう授業始まっちゃうし」

「そっか」


 本当に申し訳ないと思ったのか、彼女は眉間に皺を寄せ、集中した様子でノートを写し始めた。

 その姿を横目に見ながら、丁寧にノートを取っておいて良かったな、と思った。

 ちゃんと出席してノートを取っていたから、彼女とも話すことができた。少しだけ心が弾み、嬉しい気持ちになった。


「憲明くんさ、いっつもこの席に座ってるよね」

 彼女は熱心にペンを走らせながら、話しかけてきた。

「そうだけど……どうして?」

「だっていつも一番後ろに座ってるからさぁ。なんとなく、覚えてたんだよね」

 急に体が熱くなってきて、拍動が乱れ始めた。


 どうして突然、そんなことを訊いてきたんだろう。いつも隅っこに一人でいるみっともない奴とでも思われていたんだろうか。


 もしかして俺、この授業でも笑いものにされていた?

 

 彼女の顔を直視できなくなってしまい、俯いた。


「いつも真剣にノート取っててさ、偉いなぁって思ってたよ。だから今回も、ちょっと頼りにしちゃったわけだけど……」

「え? それだけ?」

「うん、それだけ。どうかした?」

「別に……なんでもないよ」


 拍子抜けだった。

 というか、俺の被害妄想甚だしいじゃないか。

 彼女は、俺の考えるようなそんな好奇な目でまわりを見ていたわけではないようだ。

 この時初めて、自分の考え方にも少し過ちがあったことに気付かされた。


 人を避け続けて、仲間たちに融和していくことを嫌って、卑屈になっていたのは俺の方ではなかったのか。

 彼女のまっすぐな態度は、にわかに俺の心にそんな思考を芽生えさせた。


「はい、写し終わった! ありがとう」

「いえいえ」

 彼女は俺にノートを手渡すと、鞄の中からいくつかのノートらしきものを取り出した。


「そっちも授業ノートなの?」

「これはね、クロッキー帳って言って絵を描くやつなの。授業中暇だからさ、落書きでもしようかなって」

 そう言うと、彼女は頬を緩めて宙を仰いだ。

「何描こうかな」と呟き、楽しそうに体を前後に揺らしている。


「そっか、川原さんは美術科だったもんね」

「そうです。絵を描くのが本業だからね。それと、川原さんじゃなくて絵梨花でいいよ?」

「いきなり名前でいいの? でも……」


「いいのいいの。そのほうが私も楽だからさ」

「わかった。じゃあそうするよ」


 不思議と、彼女とは楽に会話ができた。

 英語のクラスメイトの連中といる時に感じる、窮屈さみたいなものがなかった。俺がそのまま俺で、自然体でいられる気がした。

 気づけば教室の前方に教員が来て授業が始まっていたが、淡々と進むだけで特に何があるわけでもない。


「この授業は退屈だからさ、落書きもはかどるんだよねぇ」

 彼女はさも楽しそうに口角を上げ、熱心にペンを走らせる。


「絵梨花は……絵を描くのが好きなんだね」

 名前を呼ぶことが面映ゆくて、少しだけ言い淀んでしまった。なんとなくだけど、絵梨花って名前、彼女にぴったりだなぁと思った。


「大好きだよ。楽しいからね」

「美術科に来たってことは昔からずっと描くのが好きだったんだ」

 そう尋ねると、彼女は伏し目がちに「そういうわけでもないよ」と言った。


「高校生の時なんだけど、死ぬほど絵が嫌いになったことがあったよ。でもね、とある人のお陰で——また絵を描くのが大好きになった」

 意外だな、と思った。

 こんなに楽しそうに無邪気に描いているのに、嫌いになったことがあるのか。何か一つのことに打ち込んだ経験のない俺には、少し想像し難いことだった。


「じゃあ、その人には感謝だね。好きなことが続けられて良かった」

「そうだね。すごく感謝してるよ」

 どうしてそんなに好きな絵を嫌いになったのかとか、それはいつ頃の話なのかとか。

 気になることはあったけれど、初対面で色々と詮索するのも悪いと思って、俺は心に留めた。

 それにこの話題になってから、彼女は少し辛そうにしていた。


 きっと訊かれたくないこともあるだろう、そう思って俺は話題を変えることにした。


「そろそろ2ヶ月くらい経つけど、大学には慣れた?」

「いやー、それが全然。まだまだ馴染めてない」

「わかるわかる。俺も全然馴染めないんだよ」

 話が噛み合ったことが嬉しくて、俺は調子に乗って会話を続けた。そしてうっかり、口を滑らせてしまったのだ。


「俺なんか全然友達できなくてさ、いまだに一人きりだよ」

 しまったな、と思った。

 さすがの彼女でも、これは軽蔑することだろう。大学が始まって五月も半ばだというのに、いまだに一人の落伍者なんてそうそういない。

 これまでか、と思ったその時。


「本当に? それ、私もほとんど一緒だ」

 彼女は嬉しそうに声を弾ませた。

 どういうことだ?

 まさか、こんなに明るい彼女も一人きりだっていうのだろうか?


「私さ、四月に風邪こじらせて肺炎になって、入院しちゃってさぁ。三週間くらい大学来れなかったら、もうグループができちゃってて。途方に暮れてたんだよね」

「入院? それは大変だったね」

 どうやら彼女、俺とは違って深刻な事情があったようだ。

 俺なんてぴんぴんして大学に来ていたのに、一人だったのだから。そんなことを考えて若干自己嫌悪になりながらも、俺は彼女の話に耳を傾けた。


「だから学部の友達が全然できなくてさ。いまだに苦労してるよ」

「それはつらいよね。休んでもノート見せてもらえないし、代返とかも頼めないし……」

「そうなんだよ。でもなかなか馴染めなくてさ、大変なんだこれが」

 深くため息をついて机に突っ伏す彼女が、微笑ましく見えた。


「絵梨花ならすぐに友達ができると思うよ」

 俺がそう言うと、彼女は思い出したように「あ、でもね!」と勢い良く体を起こした。


「この授業で会った人と、友達になったんだよ」

「この授業で? じゃあ、他学部の人と仲良くなったんだ」

「もうグループができちゃってるところより、気楽だからさ」

 確かに言われてみればそうかもな、と思った。変なしがらみがない分、気軽に声をかけられるかもしれない。


「それにもう」

 彼女はそう前置くと、俺の顔を見て破顔した。まるで、庭先で小さな向日葵が風に揺れるような、自然体で健気な笑顔だった。

「憲明くんだって、友達みたいなもんじゃんか」

「あ……」


自分でもびっくりするほど、心臓が大きな音をたてた。友達という言葉にひどく狼狽えて、俺は言葉を失った。


「だって私もう覚えたもん。字が上手くて真面目な憲明くん、じゃん」

「ありがとう。でも俺なんか……」

 そう言いかけた時に、彼女の向こう側から声が聞こえて、二人の男子がやって来た。


「おっす絵梨花。ワリイ遅れちゃった」

「まだ出席取ってないよなぁ?」

 そう言って二人の男子は、彼女の横の席に慌ただしく荷物を置いた。一人は長身ですらっとしている。灰色のジレをお洒落に着こなしていた。

 もう一人は俺より少し背が低いくらいで、くりっと丸い目が特徴的だった。二人とも素朴な印象で、大学一年生にありがちなどこかぎらつくような雰囲気はまったくなかった。


「もう、敦も兼保も遅いよ。おかげで他の人にノート見せてもらったんだから」

「そうなの? そりゃ悪かった」


 長身の男子は俺の方を指差し、小声で(この人?)と彼女に訊いているようだった。

すると彼女は何度か頷き、俺の方を向き直って「紹介するね」と言った。


「この授業で知り合った——敦と、兼保だよ」

 すると二人は軽く手を上げ、「よろしく」と親しげに挨拶をした。


「タッパがある方が敦で、経営の人。そっちが文学部の兼保」

「お前、タッパって! 今時それは死語だろぉ」

 敦がくっくっと体を震わせて笑った。


「え、嘘? 言わないかなぁ。地元だと普通に言ってたんだけど」

「いやいや、華の女子大生がタッパはまずいでしょう」

 そう言っていたずらっぽく笑みを浮かべている兼保。

 そのやり取りを見ていたら、俺も自然と笑顔になっていた。不思議と、安心した気持ちになった。


「それで、君は?」

「俺は、法学部の伊坂憲明。そうだな——ノリって呼んでよ」


 三人はお互い顔を見合わせて、頷いていた。

「よろしく、ノリ」


 絵梨花と、敦と、兼保。

 三人の温かな視線が俺に向けられていた。


 絵梨花に出会ったことで、俺の暗闇でもがき続けるような大学生活は終わりを告げた。

 突然差し込んだ一筋の光の先には、絵梨花と、敦と、兼保が待っていた。

 もしこの時、この退屈な健康医学の講義で絵梨花に出会わなかったら——。

 

 俺の大学生活はどうなっていただろう。辞めてしまっていただろうか。

 それとも、真っ暗な毎日をただただ過ごしていただろうか。

 

 どちらにせよ、俺は確かにこの日、絵梨花に救われたんだと思う。


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