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ep.02 アトリエ

 大学の敷地の隅……と言えば聞こえはいいが、敷地の中でもわかりやすく辺境の校舎へと俺は来ていた。先ほどまでいた学食からは、正反対の位置に当たる校舎である。


 建て替えが進み、真新しい建物が並ぶ大学内に不気味なほど古ぼけた一角があるのだが、それが教育学部の校舎群だった。

 ピカピカの建物が並ぶキャンパス内でこの一帯は異様な雰囲気を放っている。

 良くいえばアンティーク、悪くいえば廃墟……そんなところだ。


 おぼつかない足取りで俺はその校舎の一つへと入っていく。

 人影はなく誰ともすれ違うこともない。教育学部の連中は授業が終わったのだろうか。


 採光性の低い窓が並ぶ薄暗い廊下を歩いていく。

 まだ昼間だというのに不気味だ。何回来てもこの雰囲気に慣れることはない。


 教育学部の連中がいつも「自分たちだけ牢獄にいるような気分だ」と冗談混じりに不平を鳴らすのも納得できる。

 法学部棟もこんなホラー映画みたいな校舎だったら、授業をストライキするところだ。



 そんなくだらない事を考えながら「美術科アトリエ」と書かれた方へと向かっていく。

 薄暗い廊下に一つの部屋から灯りが漏れていた。

 あそこだ。きっとあそこに絵梨花がいる。


 そう確信を持って俺の足ははやまり、胸の鼓動が高鳴った。


 ノックをすることもなくドアを開け、俺は「うぃーす」とわざとらしく気だるげに声を出した。

「よっ」と返事が返ってきた。

 無数の絵の具が飛び散った淡い桃色のエプロンを着た女の子。

 絵梨花が親しげな眼差しで俺を見つめていた。


「今日も元気に制作ですかい」

「ま、そんなところ。もう時間もないしね」


 アトリエの中は画材や資料などがあちこちに散らばっていた。飲みかけのコーヒーカップや食べかけのお菓子なんかもある。

 そのせいもあってか、室内はなんともいえない匂いに包まれていた。高校の時の美術室とはまた性質を異にする匂いだ……

 西日の光の筋のあいだに、埃がちらちらと舞っているのが目に入った。


「まったく、少しは整頓しないのかよ。ほら、これ」

 俺はそう言いながら、絵梨花に買ってきたジュースを手渡した。


「なにこれ?」

「制作に没頭してるようだし、差し入れだよ。おごりだから」

「え、まじー? ありがとう」

 絵梨花は楽しそうにペットボトルの蓋を開け、ごくごくと飲み始めた。

 その様子を眺めながら俺も飲みかけの水を口にした。


「ここって絵梨花だけの場所じゃないんだろ。こんなに散らかってていいのかよ」

「ああ、おいしい! まだ春だけど炭酸が美味いねぇ」

 絵梨花は俺の言葉にまったく耳を貸そうとしない。


「おいしいのはいいけどさぁ」

「ん? 散らかってていいんだよ。みーんなガサツだからさ」

「そんなもんなのか、やっぱり」

「みんな自分の制作のことしか頭にないってぇ」


 アトリエの中を見渡してみた。

 乱雑ながらも広い室内には、あちこちにイーゼルが置いてあり、描きかけの絵がたくさんあった。

 デッサン用の首の塑像が床に転がっていたりもする。


「マイペースな人が多いんだなぁ……」

 ぼそっと呟くと、「美術科なんてそんなもんだよ」と絵梨花に笑われた。


「それより」

 絵梨花が俺の顔を見て大きく手招きのような仕草をした。こっちへ来いということなのだろう。

 その若干オーバーなところが可笑しくて、俺は笑いそうになった。


「なに?」

「ねえ、見てよ」

 絵梨花に促されて描きかけの絵に目をやると、キャンバスの半分以上がすでに彩られていた。

 思わず「おお」と声が出てしまった。

 以前見た時は——三ヶ月以上前になるが——キャンバスはほぼ真っ白だった。


 なんだろう。大きな空と……果樹園のような畑が描かれている。雄大な自然だ。どこの景色かはわからないが、明媚で素敵な風景だ。


「これね、ぶどう畑なんだ」

「なるほど、ぶどうか。どうりで房みたいのがいっぱいあるわけだ」

 ここまで言って疑問が生じた。


「でもなんで、ぶどう畑?」

 そう訊くと、絵梨花は待ってましたと言わんばかりににっこりと笑みを浮かべた。


「私の故郷なんだ。綺麗でしょ、ぶどうの丘」

「へえ、ぶどうの丘かぁ……」

 田舎というものにあまり馴染みのない俺は、妙に心惹かれるような気がした。


「教科書とかで見たことない? 扇状地ってやつ」

「んー? なんか聞いたことあるようなないような」

 絵梨花は「ま、そうだよね」と苦笑いしつつ話を続けた。


「なんにもないところだけどね、夏になると町中が緑でいっぱいになる。焦げたような独特な匂いがして、その中を自転車でくだっていくの。思いきり風を受けて。それが忘れられなくてさぁ」

 一生懸命に話す絵梨花の言葉には熱が篭っていた。それはどこかいたいけな、純粋な熱気のように思われた。


「じゃあ、この絵は絵梨花の思い出ってわけだ」

「そうなるかも」

 絵梨花は嬉しそうに笑みを浮かべて、キャンバスを見ていた。


 見たこともない景色。感じたこともないような風。きっとそこには、そういうものがあるんだろうな。

 どんな匂いがするんだろう。どんな音が聴こえるんだろう。どんな人がいるんだろう。

 絵梨花の絵を見て、俺もなんだかそこへ行きたくなってきた。


 絵梨花の生まれ育った町。

 ぶどう畑の広がる、ぶどうの丘——


 彼女の実家が山梨だということは前々から聞いていたが、ここまで感情を込めて郷里の話を聞いたのは初めてだった。絵に描くくらいだ。きっと、いいところなんだろうな。


 ふと我に返ると、キャンバスの右下には余白が残っていることに気づいた。


「その右下の空いてるところには何を描くの?」

 そう尋ねると絵梨花は何を言うでもなく俺の顔を一瞥した。そしてすこしだけ間をおいてから、


「今……だよ」

 とだけ言った。


「今? どういうことだ?」

 俺には彼女が何を言っているのかよくわからなかった。絵梨花は眉を八の字にし笑みともとれない含みげな表情をした。


「分かんないかー。今って言ったら今しかないじゃん」

「今……? っていうと、今か?」

 そう尋ねながら、なんとはなしに地面を指差してみた。


「そ、せいかい。ここには、大学のことを描くんだ」

 得意げな顔つきで絵梨花はキャンバスをぽんと叩いた。俺は合点がいって「わかったぞ」と呟いた。


「一つの絵の中に、思い出の景色と今の景色を合わせて表現するんだな?」

 俺が得意げに言うと、「それじゃあまんまじゃん」と笑われた。


「でも、そういうことだよね。今の私を形成してくれたものを描こうと思ってるの」

「やっぱりそうか。うん、俺もそれが言いたかった」

「嘘ばっかり」

 くだらないやり取りをして、二人して笑ってしまう。絵梨花とはいつもこんな調子だ。

 二人で話していると楽しいし、とても心が朗らかになっていく。大学で知り合ってからもう三年近くが経っている、気の知れた仲ゆえなのだろう。


 そしてひとしきり笑ったあと、絵梨花がぽろっと口にした。

「でもこの絵は、報告でもあるんだよね」

「報告? なんの……?」

「それは……」


 絵梨花は少し考えたあと、首を横に振った。

「別に気にしないで。早く完成するといいなって話」


 彼女は少し低い声でそう言うと、近くにあったスナック菓子に手を伸ばした。なんだか意識的に話を逸らされたような気がした。


 絵梨花は何を言ってるんだろう? 俺には皆目見当がつかなかった。

 でも、そこまで深追いするようなことでもないと思い、これ以上詮索するのはやめて話題を変えた。


「絵梨花は、この後なにか予定あんの?」

「なんも。予定ナーシ」

 スナック菓子をかじりながら、気だるげに答えた。

「でも、暗くなるまでは描いていこうかなって思ってる」

「オーケー。じゃあそれまで待ってるわ」

 俺がそう言うと、「あら、暇なんだねぇ」と憎まれ口を叩かれた。


「なんだよ。そもそもお前が来いって言うからわざわざ来たのに」

「いや、その暇な時間を少しでも私にわけてほしいなぁと思って」

「その言われよう、いい気はしないぜ」

「嘘だって! ごめんごめん」

 そう言って謝る絵梨花は、屈託のない笑顔だった。

 ずるいな、と思ってしまう。

 どんな悪ふざけをされたって、この笑顔を見せられたら、全てチャラだ。


「ま、いいけどさ。暇人なのは事実だしな」

「へへ、さすがノリ。話が分かるねぇ」

「調子の良いやつ……」

 すっかり絵梨花のペースに巻き込まれてしまった。

 でも、絵梨花の言うとおり俺は確かに暇人だった。


 俺だけではない、俺たち——大学生は、大抵がみんな暇人なのだ。

 ただ、他の人はみんな思い思いの「何か大切なもの」にこの時間をつぎ込む。それは就活だったり、部活だったり、バイトだったり、研究だったり……答えはない。何を選択しようが、どう過ごそうか、自由なのだ。


 時間だけはある。

 それが大学生に与えられた唯一の特権であり、代償だ。


 俺は——

 バイトもしていなければ、部活もしていない。就活だって、この期に及んで未だに始めてすらいない。

 内定なんて夢のまた夢だ。でも正直そんなことはどうでもいいし、ただ気の合う仲間と楽しくやれていればいい。

 それが今の俺の率直な気持ちで、こうしてたまに絵梨花に会って、笑顔が見れればそれでいい。

 

 俺はきっと、怠惰な大学生そのものなんだろうな。



「日が暮れるまでだろうがなんだろうが、待ってるよ」

「ありがとう。じゃ、気合い入れて描こうかな」

 絵梨花は嬉しそうに笑って、側にあった筆を手に取った。これでいいんだ。俺の時間の使い方は、俺が決めるんだから。


 大学生活という限られた時間。


 その真っ只中に俺は今確かにいて、こうして過ごしている。何を成すでもなく、何を求めるでもなく、ただ漫然と。

 そんな暮らしをしていると、時間が無限にあるような気がしてくるが、いつかは大学生活も終わりを告げる。こんなモラトリアムに満ちた日々は、永遠ではないんだ。


 黙々と筆を走らせる絵梨花の横で、節操なく散らかったアトリエを眺めながら、そんなことを思っていた。なんだか急に寂しさが押し寄せてきて、俺は絵梨花に話しかけずにはいられなかった。


「なあ、絵梨花」

「なーにー」

 絵に意識が向いているため、その返答は力が抜けている。


「随分と集中して描いてるんだね」

「絵を描く時はいつだって真剣だよ」

「そうはいっても、何か鬼気迫るっていうかさ」


 いつもは完成するまで絵を見せない絵梨花が、今回に限っては途中経過を見せてきた。

 それは他でもなく、気合いが入っているという証拠なのだろう。地元のコンクールに出すから、というのはわかるがそれにしても珍しいなと思っていた。


「この絵は、私にとって特別なんだよね」

「やっぱり地元のコンクールに出すから?」

 そう尋ねると、絵梨花は「うーん」と唸って首を傾げた。


「それもあるけど、それだけじゃない」

「なんだそれ」

 はっきりとしない答えに、焦れったさを覚えた。そんな風に言われると、やっぱり気になってしまう。


「じゃあ、なんで特別なの?」

 回りくどいのも面倒なので、直球で訊いてみる。

 すると絵梨花は「待って」と呟き、何本か持っていた筆を濁った水の中に投げ入れた。

 そのまま窓際まで歩いていき、半分閉じていたカーテンを思い切り開けた。

 傾いた春の西日が室内に満遍なく降り注ぎ、思わず目を細めてしまう。


「まぶしいな」

「今日は良い天気だね」

 外は見事な晴れ模様で、春というには少し暑い、そんな天気だった。


「カーテン開けちゃっていいのかよ。描きにくくなるんじゃないの」

「たまにはこうして開けないと。気持ち悪くなっちゃうから」

 そう言うと絵梨花は、窓の前で日光を浴びながら大きく伸びをした。

 その姿が逆光となって、くっきりシルエットが浮かび上がる。まるで綺麗な影絵を見ているようだな、と思った。

 絵梨花はその影絵のまま、俺に語り始めた。


「この絵をね、見せたい人がいるの」

「見せたい人か」

 その言葉を聞いて、俺の心臓がぐっと締めつけられた。そして次第に、鼓動が速まっていく。


「さっきも言ったけどさ、この絵は今の私を形成してるすべてなの。それを……見せたい、報告したい人がいるから」

 逆光のせいで影絵となった絵梨花の表情はよく見えない。

 胸がざわつく。

 きっと絵梨花は、俺の知らない表情をしているだろう。見えないけれど、そんな気がしたのだ。


「それでそんなに一生懸命なのか」

「そんなとこだね」

 そう言うと、絵梨花は窓際から再びキャンバスの前へと戻ってきた。

 絵梨花のしゃべり方は、何故か少したどたどしいものだった。

 俺はそれに違和感を覚えた。何かきまりの悪そうな……歯切れの悪い受け答えに。

 だから俺は、訊かずにはいられなかったのだ。


「それは……どんな人なんだ?」


 俺が訊ねると……絵梨花は少しだけ笑みを浮かべて、もったいぶるように話し始めた。


「どんな人か……そうだね。ひらたく言えば……私の大切な人だね」

 瞬間、心臓から全身に冷水が染み出していくような感覚に襲われた。

 一体どういうことなんだ。

 突然のことで頭が真っ白になり、何と言うべきなのかも分からない。極力平静を装って、慎重に質問を続ける。


「それは、つまり、絵梨花の好きな人、ということ?」

「そうだね。片想いかもしれないけど」

「そっか……そうなのか」

 自分でも信じられないくらいに焦っているのが分かった。冷静さなんてどこかに立ち消え、声が震えている。それも当たり前だ。


 絵梨花と大学で出会ってからこの三年間、彼女の口から誰かを「好き」だなんてこと、初めて聞いたのだ。

 そんな色恋沙汰になんて、全く興味がないと勝手に思い込んでいたのだ。


「長い付き合いなのに、そんな人がいるなんて初めて聞いたぞ」

「言ってなくてごめん。とても大切なことだったからさ……隠すつもりもなかったんだけど」

 俺は、ふうっと一つ長めに深呼吸をした。一旦、落ち着かないと。あまりに畳み掛けて、絵梨花を嫌な気持ちにさせてしまってはいけない。


「最近知り合ったのか?」

「違うよ。高校の時に知り合った人で——大学に来てからは一度も会ってない」

「それはまた……随分と一途だな」

 俺の頭の至るところで、思考がぐるぐると巡る。

 ということは、絵梨花は出会った瞬間から心に決めていた人がいたのか……。


「中学とか高校の友達?」

「ううん、違うの。学校は関係ない」

 予想外の返答を受けて、俺の頭の中はさらにぐるぐると回った。


「片想いかもって言ってたけど、告白とかは……しないの?」

 そう尋ねると、絵梨花は「うーん」と納得のいかない様子である。

「告白というか……この絵が完成して、紫玉絵画展に入選したら——もう一度会おうって約束してるの」


「なんだぁそれ、随分とロマンチックだな」

「うん、言いたいことは分かるよ」

 そう言うと絵梨花はきまり悪そうに苦笑いした。

「こんな約束、馬鹿馬鹿しいよね。現実的じゃないと思う。でも私は伝えたいの。この絵を見せて……今でも貴方が好きですって」


 俺を見つめる絵梨花の瞳には、寸分の曇りもなかった。

 今日の晴れ空のように、澄み切っている。絵梨花の気持ちは本物で、それでいて真っ直ぐだということを察した。

 その約束の人が本当に好きで、そのためにこの絵も一生懸命描いているんだろう。そう思うと一気に脱力して、何も考えられなくなった。


 俺の入り込む隙なんて、少しもないじゃないか。

 絵梨花に、そんな心に決めた人がいたなんて——

 そんなことを考えつつ、一つ疑問に感じたことがあった。


「でも、その話だとさ。入選しないと会わないんだろ? 別に入選しなくたって、いいんじゃないか?」

 そう尋ねると、絵梨花は頬を緩めて宙を仰いだ。絵梨花の考え事をする時の癖だ。


 ひとしきり「えっとねー」と考えたあと、絵梨花は答える。


「入選しないと、会えないんだよ」

「だからどうして。会うならそんなことに拘らなくても……」

 絵梨花は大げさな仕草でかぶりを振った。

「そういう約束だから。紫玉絵画展に入選して、私の絵が展示されたら……もう一度会おうって約束してるの」

「へえ……」

 聞きたいことは山ほどあった。


 一体相手はどんな人なんだとか、どうしてそんな約束をしたのか、とか。

 でももう、言葉にすることもできなかった。

 絵梨花には好きな人がいた。ただその事実だけが俺を打ちのめした。会話を組み立てる余裕もなくなり、俺は黙って頷くことしかできなかった。


 俺はこれから、どうするんだろう……

 今まで通り絵梨花と一緒にいられるだろうか。

 この際、もう関係を断ってしまった方がいいのかもしれない。


 そんなことを悶々と考えていると、出し抜けに絵梨花が言った。

「ノリ、ありがとね」

「え? 急にどうしたのさ」

 突然お礼を言われたので、焦ってちぐはぐな返事になってしまう。絵梨花は「ふふ」と笑ってから話を続けた。


「ノリと敦と兼保に会えてさ、大学本当に楽しかったんだよね」

「なんだよそれ。まだ卒業するわけでもないのに」

「だって本当に楽しかったからさ。大学に来るまでは、東京で知らない人とやっていくの、本当に不安だった。それが、学部もサークルも違うノリたちと会って、仲良くなって、本当に良かった」


「そう思ってくれているなら、俺も嬉しいよ」

「ノリたちといると自然体でいられるっていうかさ。私にとってのホームみたいな場所なんだよね」

 熱を込めて話す絵梨花の表情は、好きなことを夢中で語る小学生のように純粋で、あどけなく見えた。


「だからね、それも伝えたい。私は今、すっごく楽しいところにいるんだって——」

「例の、約束の人に?」

「もちろん」

 やはり絵梨花の顔つきは晴れやかだった。

 その約束の人に会う日を夢見て、今と向き合っているんだろう。


 結局、全てはそこに行き着くんだな。俺たちと過ごした大学生活も、俺が見てきた沢山の笑顔も、全てはその約束の人に向かっていたんだな。

 絵梨花とは対照的に、俺の心には分厚い暗雲が立ち込めていた。今にも雨が降り出しそうで、太陽はすっかり見えなくなってしまった。

 

 黙りこむ俺はよそに、絵梨花が調子を変えずに話しかけてくる。

「だからさ、ノリ。これからもよろしくね」

 そう言うと、にっこりと歯を見せて笑った。

 その笑顔は文字通り輝きを放って見え、俺の心臓を鋭く突いた。曇りきった心に、一瞬で陽が射すのを感じた。


 なんて卑怯なんだ。やっぱり絵梨花はずるい。そんな素敵な笑顔を向けられて、俺は一体どうすればいいんだ。

 でも、そんなずるい絵梨花だから——俺は心の底から惹かれていたのだろう。その向かう所敵なしの明るさや、他人の心をほどく天衣無縫の人柄に、俺は何度も救われたのだろう。


 決して報われることがないと分かった今でさえ——


 報われることがないとしても、俺は、絵梨花に出会えて良かったのだ。

 それだけは、はっきりと言い切れるから。


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