第7章 世界は失敗した
二人の黒い服の男が、同時に曲刀を抜いた。
――キンッ!
古びた倉庫の中に、金属音が響いた。
ライキョウは立ち尽くしていた。
目の前にはアイズラとコヒナ。
その前にカイエンが立っている。
キュウレイは左側、木製の棚の近くにいた。
そして、出口はライキョウたちの後ろ。
数歩しかない。
ライキョウが全員の位置を確認した、その瞬間――
一人の男が消えた。
「……え?」
ライキョウは左を見る。
何もいない。
右を見る。
そこにもいない。
風を切る音がした。
振り向く。
黒服の男が、すでに目の前に立っていた。
近すぎる。
曲刀が自分へ向けられているのが見えた。
身体が動かない。
避けられない。
腕を上げることすらできない。
――キンッ!
鋭い金属音が響いた。
いつの間にか、キュウレイがライキョウの前に立っていた。
手にした大きな棍棒で、曲刀を受け止めている。
ライキョウは後ろへ下がった。
一歩。
二歩。
踵が木箱にぶつかった。
キュウレイが力を込める。
黒服の男が弾き飛ばされた。
男は床に着地し、そのまま後ろへ滑っていく。
「また邪魔者か」
黒服の男が呟いた。
キュウレイは男を睨む。
「わしの家で、好き勝手するつもりか?」
ライキョウは、まだ何も言えなかった。
目の前にいるキュウレイを見る。
彼は立っている。
棍棒を握っている。
さっきの攻撃を防いだ。
ライキョウは、自分が息を止めていたことに気づいた。
少なくとも……。
まだ、守ってくれる人がいる。
カイエンが前へ出た。
二人の黒服の男とアイズラの間に立つ。
「ライキョウ」
ライキョウが彼を見る。
「アイズラとコヒナを守れ」
「でも……」
「やれ」
短い言葉だった。
けれど、反論を許さない声だった。
ライキョウは後ろにいる二人を見る。
そして、カイエンを見る。
彼が片手を上げた。
「風よ」
空気が動いた。
カイエンの手の周囲に光が集まる。
風が渦を巻く。
光が細長く伸びていく。
そして一本の剣へと形を変えた。
ライキョウはそれを見つめた。
魔法。
かつて自分が夢見たもの。
ほんの一瞬だけ、今の状況を忘れそうになった。
しかし――
二人の黒服の男が消えた。
――キンッ!
カイエンが一撃を受け止める。
――キンッ!
もう一撃。
ライキョウは音のした方へ振り向いた。
左。
誰もいない。
――キンッ!
今度は後ろ。
振り返る。
カイエンがそこにいた。
「……速すぎる」
カイエンがどう動いているのか、見えない。
ライキョウに聞こえるのは、剣がぶつかる音だけだった。
左。
前。
そして、また後ろ。
ライキョウが振り向くたびに、戦いは別の場所で起きていた。
必死に目で追う。
けれど、追いつけない。
黒い影。
光。
金属音。
そして、消える。
――ドンッ!
すぐ隣の棚が斬りつけられた。
棚に置かれていた古い箱がいくつも落ちてくる。
一つがライキョウの目の前に落ちた。
彼は驚いて後ろへ下がった。
木の粉が舞う。
ライキョウは棚に残された深い斬り跡を見た。
ただの傷ではない。
木材そのものが深く切り裂かれている。
曲刀を見る。
そして、カイエンの光の剣を見る。
そのとき初めて、ライキョウは理解した。
これは、自分が割って入れるような戦いではない。
「ライキョウ!」
カイエンの声が飛んできた。
「二人を連れて逃げろ!」
ライキョウは出口を見る。
まだある。
塞がっていない。
「行け!」
ライキョウはアイズラの手を掴んだ。
コヒナも走ろうとした。
その瞬間――
一人の黒服の男が、出口の前に現れた。
コヒナが足を止める。
ライキョウも止まった。
男は動かない。
手にした曲刀をゆっくり下げる。
「逃げても無駄だ」
誰も何も言わなかった。
ライキョウは出口を見る。
ほんの数歩。
それなのに、その間には一人の敵が立っている。
左を見る。
棚と棚の間に、狭い通路がある。
右にも通路がある。
だが、後ろからはまだ剣の音が聞こえてくる。
カイエンがどこにいるのか分からない。
ただ、まだ戦っている。
ライキョウはアイズラを引っ張って後ろへ下がった。
コヒナも後ろへ下がる。
そのとき――
――ドンッ!
棚が倒れた。
左側の通路が塞がれる。
コヒナが驚いて振り返った。
そして、キュウレイを見る。
「おじいちゃん……」
キュウレイはまだ立っていた。
まだ戦っている。
コヒナはもう一度、彼を見た。
それから前を向く。
少なくとも……。
まだ、おじいちゃんがいる。
まだ、大丈夫なのかもしれない。
再び金属音が響いた。
――キンッ!
カイエンが弾き飛ばされる。
床を滑ったが、すぐに体勢を立て直した。
黒服の男が再び襲いかかる。
カイエンが受け止める。
だが、もう一人が横から現れた。
「……!」
カイエンが振り向く。
遅かった。
曲刀が彼の腕をかすめた。
「……くっ!」
アイズラがすぐに手を上げる。
「カイエン、気をつけて!」
魔力が集まる。
光が前方へ放たれた。
黒服の男が後ろへ下がる。
カイエンがアイズラを見る。
ほんの一瞬だけ。
そして、彼女が無事かどうかを確認する。
アイズラもカイエンの腕を見る。
その表情が変わった。
前へ出ようとする。
しかし、後ろにはコヒナがいる。
前には二人の敵がいる。
その場を離れることはできない。
キュウレイが前へ出た。
大きな棍棒を横薙ぎに振る。
黒服の男が避ける。
棍棒が後ろの棚に叩きつけられた。
――ドンッ!
また古い箱が床へ落ちる。
キュウレイは棍棒を床についた。
そして息を吐く。
コヒナがそれを見ていた。
ほんの少し。
けれど、彼女には分かった。
さっきまでとは違う。
「おじいちゃん……」
キュウレイが振り返る。
「大丈夫じゃ」
たったそれだけだった。
コヒナは何も言わなかった。
ただ、彼を見ている。
そして、アイズラの手を強く握った。
二人の黒服の男が互いを見る。
「二人で力を合わせれば、誰も生き残れない」
その言葉と同時に――
二人とも消えた。
今度こそ、ライキョウには完全に見失った。
――キンッ!
左から音がする。
振り向く。
誰もいない。
――キンッ!
右。
振り返る。
黒い影が一瞬だけ見えた。
誰なのか分からない。
――ドンッ!
机が吹き飛ぶ。
――バキッ!
天井の木材が揺れる。
ライキョウは後ろへ下がった。
「……どこだ?」
答えはない。
必死に見る。
けれど、目が追いつかない。
影が見えたと思えば消える。
剣が見えたと思えば、もうそこにはない。
自分が見ているのがカイエンなのか、敵なのかさえ分からなくなってくる。
ただ、剣の音だけが近づいてくる。
そして遠ざかる。
また近づく。
ライキョウは自分の手を見る。
何もない。
剣もない。
魔法もない。
何も持っていない。
助けたい。
でも、どうやって?
大きな音が前方から響いた。
キュウレイが吹き飛ばされた。
彼は棍棒を床につく。
片膝をついた。
「コヒナ!」
コヒナがすぐに前へ出ようとする。
「おじいちゃん!」
「来るな!」
キュウレイが叫んだ。
コヒナの足が止まる。
ほんの数歩先。
彼女は走っていきたかった。
けれど、その先には敵がいる。
コヒナはキュウレイを見る。
彼は立ち上がろうとしている。
棍棒に体重をかける。
立ち上がる。
そして――
また膝をついた。
「……おじいちゃん」
今度の声は、剣の音に消えそうなくらい小さかった。
キュウレイが顔を上げる。
コヒナを見る。
「そこにいろ」
それだけだった。
慰める言葉ではない。
説明でもない。
ただ、そこにいるように言った。
コヒナは動かなかった。
その場に立ったまま、祖父を見る。
それから二人の黒服の男を見る。
そして、アイズラの手をさらに強く握った。
カイエンが前へ出る。
傷ついた腕が震えている。
光の剣も、最初ほど安定していない。
それでも、彼はアイズラの前に立つ。
「逃げろ!」
ライキョウは彼を見る。
「でも――」
「逃げろ!」
カイエンが叫ぶ。
ライキョウは驚いて身を震わせた。
アイズラを引っ張る。
コヒナも振り返る。
三人が走ろうとした。
しかし、出口は塞がれている。
左の通路も塞がっている。
右は――
そこにも黒い影が立っていた。
ライキョウは止まった。
コヒナも止まる。
アイズラが周囲を見る。
もう、逃げ道がない。
ほんの短い沈黙が落ちた。
誰も何も言わない。
ライキョウには、自分の呼吸だけが聞こえた。
速い。
重い。
カイエンを見る。
まだ立っている。
けれど、剣を握る手が震えている。
キュウレイを見る。
まだ立とうとしている。
アイズラを見る。
彼女はコヒナの手を握っている。
コヒナを見る。
彼女はまだ祖父を見ている。
そして、自分の両手を見る。
何もない。
「……俺は、どうすればいい?」
今回は、ただ方法が思いつかないわけではなかった。
もう、分かり始めていた。
本当に――
何もできないのかもしれない。
二人の黒服の男がゆっくりと近づいてくる。
急ぐ必要などない。
もう、誰も彼らを止められない。
コツ。
一歩。
コツ。
もう一歩。
カイエンは剣を構えたまま。
アイズラはその後ろ。
キュウレイは棍棒を支えにしている。
コヒナは祖父を見ている。
ライキョウは目を離せない。
逃げたい。
でも、どこへ?
戦いたい。
でも、何を使って?
助けたい。
でも、どうやって?
答えはなかった。
カイエンが振り返る。
その視線がライキョウで止まる。
「逃げろ」
ライキョウは動かなかった。
「逃げろ!」
カイエンが叫ぶ。
ライキョウが驚いて動く。
アイズラを引っ張る。
コヒナも手を伸ばす。
三人が走ろうとした――
その瞬間。
目の前に黒い影が現れた。
ライキョウの足が止まる。
近い。
近すぎる。
後ろへ下がりたい。
けれど、足が動かない。
誰かを呼びたい。
声が出ない。
その瞬間、ライキョウは黒服の男の向こう側を見た。
カイエン。
アイズラ。
コヒナ。
キュウレイ。
全員がそこにいる。
けれど、初めてだった。
彼らが自分を守ってくれるとは、もう思えなかった。
全身が冷たくなる。
そして――
すべてが消えた。
---
音がない。
光もない。
重さもない。
ライキョウは目を開けた。
自分がどこにいるのか分からない。
「……ここは……?」
返事はない。
暗闇の中から声が響いた。
「お前は失敗した」
ライキョウは振り返る。
「誰だ?」
「いずれ分かる」
ライキョウは黙った。
まだ覚えている。
すべて。
キュウレイの棍棒。
カイエンの剣。
アイズラの手。
コヒナの声。
出口。
棚。
二人の黒服の男。
そして、自分には何もできなかったという感覚。
「もう一度、やり直す機会が欲しいか?」
ライキョウは俯いた。
しばらく答えなかった。
そして、拳を握る。
「……欲しい」
顔を上げる。
「俺は、変えたい」
暗闇の中で笑い声が響いた。
「ならば、お前はこれから起こる大災厄の中で、一つの変数となる」
「変数……?」
ライキョウが聞き返す。
しかし、答えを聞く前に――
光が弾けた。
---
「……っ!」
ライキョウは飛び起きた。
大きく息を吸う。
両手を地面につく。
心臓が激しく鳴っている。
周囲を見る。
倉庫はない。
倒れた棚もない。
二人の黒服の男もいない。
剣の音もない。
誰も傷ついていない。
すべてが――
何事もなかったように戻っている。
ライキョウは自分の手を見る。
そして腕を見る。
傷はない。
「……」
頭の中に、記憶が蘇る。
キュウレイ。
カイエン。
アイズラ。
コヒナ。
暗闇。
あの声。
すべてが一気に押し寄せてくる。
ライキョウは頭を抱えた。
「……夢?」
小さく呟く。
そうだ。
きっと夢だ。
あまりにも現実的な夢だっただけ。
そう考えればいい。
でも――
周囲を見回す。
目の前の景色が、妙に見覚えのあるものだった。
見覚えがある。
ありすぎる。
ライキョウは一歩進む。
そして止まった。
小さな違和感。
場所。
道。
そして、そこにあるもの。
頭の中の記憶と、目の前の景色が重なった。
ライキョウは唾を飲み込む。
「……そんなはず……」
それでも、信じられない。
もし夢だったら?
もし、あの記憶がただの夢だったら?
もし、あそこで起きたことが一度も現実になっていないのなら?
ライキョウは目を閉じた。
そして開く。
景色は変わらない。
自分の手を見る。
傷はない。
「……」
もし本当に夢だったのなら――
どうして、あんなにも細かく覚えている?
どうして、まだ起きていないことを知っている?
ライキョウは前を見る。
心臓が少しずつ速くなる。
ここを知っている。
次に何が起こるのかも、知っている。
けれど、信じることができない。
もしあの記憶が本物なら――
すべては、これから起こる。
キュウレイはまだ生きている。
コヒナはまだ祖父を失っていない。
カイエンはまだ傷ついていない。
アイズラもまだ何も知らない。
そして二人の黒服の男は――
まだ現れていない。
ライキョウは立ち尽くした。
自分が何を信じればいいのか分からない。
目の前の現実を信じるべきなのか。
それとも、自分自身でさえ本物だと確信できない記憶を信じるべきなのか。
「……もし、あれが夢じゃなかったら……」
言葉が止まる。
ライキョウは拳を握った。
初めて気づいた。
未来を知っているからといって――
どうすればいいのか分かるわけではない。
自分は何も変わっていない。
剣もない。
魔法も使えない。
あの戦いについていくこともできない。
ただ――
今度は、知っている。
ライキョウは前を見る。
「……俺は、どうすればいい?」
答えはない。
しばらく、その場に立っていた。
そして、歩き出す。
本当に自分が戻ってきたと確信したからではない。
もし、あの記憶が本物なら――
もう一度、あの結末を見るのは嫌だった。




