第3話――盗まれた家紋章
「……痛いな」
ライキョウは地面に手をつき、ゆっくりと体を起こした。
背中がズキズキする。
さっきよりはマシになった気もするが、まだ痛いものは痛い。
試しに背筋を伸ばしてみる。
「いてっ!」
すぐに元へ戻した。
「……やめとこ」
ライキョウは服についた埃を払いながら、周囲を見回した。
さっきまでいた男たちは、もういない。
路地には静けさが戻っている。
少し離れたところから、街のざわめきだけが聞こえてきた。
ライキョウはそこで、ようやく目の前の少女に気づいた。
少女は少し離れた場所に立っていた。
青みがかった黒髪。
そして、金色の瞳。
ライキョウは思わず見入ってしまった。
「……天使?」
「え?」
少女が首をかしげる。
その瞬間、ライキョウも自分の口から出た言葉に気づいた。
「……あっ。ごめん! 今のなし!」
「ふふっ。別にいいよ」
少女は楽しそうに笑った。
ライキョウは少し気まずそうに頭をかく。
「いや、その……なんか、そう見えたから」
「そう?」
「うん。……いや、忘れて」
自分で言っておいて恥ずかしくなったのか、ライキョウは少女から目をそらした。
少女はそんな彼を見て、また小さく笑う。
「それより、背中は大丈夫?」
「大丈夫……たぶん」
「たぶん?」
「……まあ、動けるから大丈夫」
そう言って、ライキョウは一歩歩いてみせる。
「ほら」
「無理してない?」
「してないって」
言った直後、背中を押さえる。
「……ちょっとだけ痛いけど」
「やっぱり痛いんだ」
「そこは聞かなかったことにしてよ」
少女は笑った。
そして、少しだけ表情を柔らかくする。
「助けてくれて、ありがとう」
「いいよ。あんなの見たら、助けるだろ」
ライキョウはそう言ってから、辺りを見た。
「……ところで」
「うん?」
「君、名前は?」
「アイズラ」
「アイズラ……」
ライキョウはその名前を口の中で一度繰り返した。
「俺はライキョウ」
「うん。覚えた」
「そっか」
それだけ言って、二人の間に少しだけ沈黙が落ちる。
ライキョウは何か話そうとした。
けれど、次に何を言えばいいのか分からない。
そんなときだった。
「アイズラ様ー!」
通りの向こうから、大きな声が飛んできた。
「……誰?」
ライキョウが振り返る。
白い髪に赤い髪が混じった青年が、こちらへ向かって走ってくる。
かなり急いできたらしい。
長い上着を揺らしながら、息を切らしている。
「アイズラ様! どこに行ってたんですか! 探しましたよ!」
青年は二人の前まで来ると、肩で息をした。
「はぁ……はぁ……やっと見つけた……」
「カイエン」
アイズラが声をかける。
「まったく……急にいなくなるから――」
カイエンはそこでライキョウに気づいた。
視線が止まる。
「……誰ですか?」
ライキョウも自分を指さす。
「俺?」
「他に誰がいるんです?」
「いや、知らないけど……」
カイエンはアイズラを見る。
「まさか……この人が、アイズラ様を?」
「違うよ」
アイズラがすぐに答えた。
「この人は私を助けてくれたの」
「……そうなんですか?」
「うん」
カイエンはライキョウを見る。
埃だらけの服。
疲れた顔。
そして、痛そうにしている背中。
「……失礼しました。てっきり誘拐犯かと」
「なんでそうなるんだよ!」
ライキョウが思わず叫ぶ。
「俺、さっきまでこいつらにボコボコにされてたんだぞ!」
「それは……すみません」
「謝るの早いな!」
「勘違いしたので」
「いや、そうだけど!」
ライキョウは頭を抱えた。
「そもそも、俺ってそんなに誘拐犯に見える?」
カイエンはライキョウをじっと見る。
頭から足元まで。
そして一言。
「……言われてみれば、そうかもしれませんね」
「納得するな!」
アイズラが吹き出した。
「ふふっ……」
「笑わないでよ!」
「ごめん、ごめん」
カイエンは小さく咳払いをして、姿勢を正した。
「改めて。俺はカイエン。アイズラ様の護衛をしています」
「ライキョウ」
「ライキョウさんですね。先ほどはアイズラ様を助けていただいて、ありがとうございました」
「だから、そんなに気にしなくていいって」
「そうですか」
カイエンはアイズラを見る。
「それよりアイズラ様。勝手に一人で出歩かないでください」
「少し散歩しただけだよ」
「その『少し』のせいで、俺は街を走り回ったんですけど」
「……ごめん」
「次からは一言ください」
「分かった」
ライキョウは二人のやり取りを眺めていた。
どうやら、いつものことらしい。
「……仲いいな」
「どこがです?」
カイエンが即答する。
「え?」
「俺は困ってます」
「そういう意味じゃないって」
アイズラが笑う。
「カイエンはいつもこんな感じだから」
「アイズラ様が勝手にいなくなるからですよ」
「はいはい」
そのときだった。
アイズラが腰元に手をやった。
「……あれ?」
「どうしました?」
アイズラはポケットを探る。
一度。
二度。
そして、もう一度。
「カイエン」
「はい」
「私の家紋章、ないんだけど」
カイエンの顔から笑みが消えた。
「……家紋章が?」
「うん。さっきまであったと思うんだけど」
カイエンが一歩近づく。
「最後に確認したのはいつです?」
「覚えてない」
「本当に?」
「うん」
アイズラは自分の服や荷物をもう一度確認する。
やはり、ない。
カイエンは黙って周囲を見回した。
さっきまでの軽い雰囲気が、いつの間にか消えている。
ライキョウも、その変化に気づいた。
「……そんなに大事なものなの?」
カイエンはすぐには答えなかった。
やがて、ライキョウを見る。
「かなり重要です」
「どれくらい?」
「それがないと、アイズラ様は将来、家を継ぐ資格を失う可能性があります」
「えっ?」
ライキョウは目を丸くした。
「ただの家紋章だろ?」
「ただの家紋章じゃありません」
カイエンの声が少し低くなる。
「家を継ぐ者だと証明する、大切なものです」
ライキョウはアイズラを見る。
本人は思ったより落ち着いている。
「誰かに盗まれたのかな?」
「分かりません」
カイエンが答える。
「落とした可能性は?」
「……それもある」
カイエンは少し考える。
「ですが、もし誰かが意図的に持ち去ったのなら……」
そこで言葉を止めた。
ライキョウはカイエンを見る。
「……何?」
「いや。今はまだ何とも言えません」
そう言って、カイエンは街のほうへ目を向けた。
人々は何も知らずに歩いている。
店から声が聞こえる。
馬車が石畳を走る。
いつも通りの街だ。
なのに、カイエンだけは明らかに警戒している。
ライキョウは小さく息を吐いた。
……これ、ただの落とし物じゃないんじゃないか?
「だったら、俺も探すよ」
ライキョウが言った。
カイエンが振り返る。
「いや。君はやめておいたほうがいい」
「なんで?」
「さっき襲われたばかりでしょう。それに、これは家の問題です」
「でも、探すだけだろ?」
「そういう問題じゃないんです」
「じゃあ、どういう問題なんだよ?」
「……巻き込みたくないだけです」
ライキョウは少し考えてから、眉をひそめる。
「俺を信用してない?」
「そういう意味じゃありません」
「でも、俺は手伝いたい」
「ライキョウさん」
「何?」
「これは、本当に普通の落とし物探しじゃない」
カイエンの声には、さっきまでとは違う重さがあった。
ライキョウは一瞬だけ黙った。
それでも、引くつもりはない。
「……だからって、見てるだけってのも嫌なんだよ」
アイズラが二人を見る。
少し考えたあと、口を開いた。
「じゃあ、ライキョウも一緒に来てもらおう」
「アイズラ様?」
カイエンが振り向く。
「ですが――」
「大丈夫」
アイズラはライキョウを見る。
「私は、この人を信じるよ」
ライキョウの表情が止まった。
「……俺を?」
「うん」
ライキョウは少しだけ照れくさそうに顔をそらす。
「……分かった。手伝うよ」
カイエンはため息をついた。
「アイズラ様がそう言うなら、仕方ありませんね」
「ほら」
ライキョウが笑う。
「俺、ちゃんと役に立つから」
「まだ何もしてませんけどね」
「これからだよ」
「そうですか」
「その言い方、なんかムカつくな」
アイズラがまた笑った。
三人は路地を出て、街へ戻る。
通りには人が行き交っている。
店の呼び声。
馬車の音。
子供たちの笑い声。
さっきまでと何も変わらない。
ライキョウは歩きながら、ふと後ろを振り返った。
誰もいない。
……なのに。
なぜか、妙な感じがする。
家紋章一つ。
それだけで、カイエンの態度が変わった。
ライキョウには、まだ何も分からない。
ただ――
この件。
どうやら、思っていたより面倒なことになりそうだった。




