第16章 答えのない変数
森の奥深く、どこかの場所で。
カイエンは一人、川辺の岩に腰を下ろしていた。
目の前を流れる川のせせらぎが、一定のリズムで響いている。
背後には木々が立ち並び、外の世界から切り離されたかのように静まり返っていた。
カイエンは俯き、自分の身体を見つめる。
ムハイとの戦いで負った傷は、まだ残っていた。
身体の一部にそっと触れる。
だが、すぐに手を引っ込めた。
……痛い。
カイエンはしばらく動かなかった。
そして、再びムハイの言葉が頭の中に蘇る。
「お前が一生努力したところで、俺の半分の力にも届かない」
カイエンはさらに深く俯いた。
膝の上に置いていた手が、ゆっくりと握り締められる。
「そうだ……」
声は小さく、川の音に紛れてしまいそうだった。
「どれだけ努力しても……あいつには勝てない」
カイエンは目の前の川を見つめた。
答えは返ってこない。
ただ、水だけが流れ続けていた。
しばらくして――
ザッ。
背後から足音が聞こえた。
カイエンの動きが止まる。
顔を上げた。
再び音がする。
ザッ……ザッ……。
その瞬間、カイエンの顔から疲労が消えた。
「ライキョウ……?」
岩に手をつき、立ち上がる。
口元に浮かんだ笑みは、次の瞬間には消えていた。
木々の間から、二つの人影が現れた。
ライキョウではない。
カイエンは何も言わなかった。
ただ目の前の二人を見つめ、その視線を警戒へと変える。
一人が、少し離れた場所で足を止めた。
「お前は、クロザネ・ライガの家の皇太子、カイエンか?」
カイエンはすぐには答えなかった。
わずかに身体を斜めにし、二人との距離を保つ。
「お前たちは……何者だ?」
もう一人が笑った。
「ハハ……俺たちが何者なのか、お前は知らなくていい」
男が一歩前へ出る。
「お前、強くなりたくないか?」
カイエンは男を見た。
「……どうやって?」
「どうやって、だって?」
男は再び笑った。
「すぐに分かるさ」
隣にいた男がカイエンを見る。
「連れていけ」
二人が近づき始める。
カイエンは一歩後ろへ下がった。
背後には川。
左右には密集した木々。
カイエンは素早く周囲を見渡す。
移動できる場所は、もう多くない。
「お前たち……何をするつもりだ?」
返事はない。
二つの人影が、さらに距離を詰めてくる。
カイエンは拳を握り締めた。
そして――
すべてが静寂に包まれた。
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その頃。
アイズラの屋敷では。
ライキョウが帰りを待っていた。
窓の外から差し込んでいた光は、すでに消えかけている。
ライキョウは頬杖をつき、扉の方を眺めていた。
「まったく……あいつ、本当に馬鹿だな」
小さく息を吐く。
「まあ、きっとそのうち帰ってくるだろ」
ライキョウは立ち上がり、服を整えてから外へ出た。
屋敷の門を抜けると、目の前に道が続いている。
右も森。
左も森。
ライキョウは数秒、その場で立ち止まった。
「……どっちに行けばいいんだ?」
結局、ライキョウは前を指差した。
「まあ、適当に行ってみるか」
森へ入っていく。
最初のうちは、何もおかしくなかった。
木々の間に、自分の足音だけが響く。
風が静かに通り抜ける。
だが、奥へ進むにつれて、周囲の音が少しずつ消えていった。
ライキョウの歩みが遅くなる。
顔を上げる。
木々の隙間から見える夕暮れの光は、もうわずかしか残っていない。
鳥の声もない。
虫の音もない。
聞こえるのは、自分の足音だけ。
コツ。
コツ。
コツ。
ライキョウは左を見る。
それから右を見る。
何もない。
「……気にしすぎか」
そう呟いて、再び歩き始めた。
グルル……。
足が止まる。
「……ん?」
茂みの向こうから、低い唸り声が聞こえた。
ライキョウが振り返る。
暗闇の中に、二つの赤い光が浮かんでいた。
「え?」
巨大な魔物が飛び出してくる。
ライキョウは目を見開いた。
「ちょっ――!」
すぐに身体を翻し、走り出す。
背後から重い足音が迫ってくる。
ドンッ!
魔物が木々を揺らしながら追ってくる。
ライキョウは何度も方向を変えながら、木々の間を駆け抜けた。
「もう追ってくるなよ!」
返事はない。
代わりに、背後から聞こえる唸り声がどんどん近づいてくる。
前を見る。
一本の木が進路を塞いでいる。
ライキョウは身体を傾け、その脇をすり抜けた。
着地した瞬間、すぐに方向を変える。
だが、前方の地面は急に下り坂になっていた。
「うわっ!」
足が滑る。
なんとか身体を立て直し、そのまま走り続ける。
そして――
道がなくなった。
目の前は崖だった。
ライキョウが立ち止まる。
ゆっくり振り返る。
暗闇から魔物が姿を現した。
「……これは、まずいな」
魔物が飛びかかってくる。
その瞬間――
閃光が走った。
ドォン!
魔物が吹き飛ばされる。
ライキョウは驚いて横を見る。
聞き覚えのある声が響いた。
「ライキョウ、もう夜なのに、どうしてまだ戻っていないんですか?」
「……ミユラ?」
闇の中から、ミユラが姿を現した。
その両手には、鎖で繋がれた二本の鎌が握られている。
彼女はライキョウを一度見てから、魔物の方へ視線を移した。
「ここがどれほど危険な場所か、ご存じですか?」
ライキョウは頭を掻いた。
「実は……カイエンを探しに来たんだ」
ミユラの動きが止まる。
「カイエン様を?」
「うん」
ライキョウは後ろを指差した。
「でも……また迷子になった」
ミユラは目を閉じ、息を吐いた。
「……そういうことでしたか」
そしてライキョウへ一歩近づく。
「私の近くにいてください」
「え?」
「夜になると、魔物が現れることが多くなります」
ミユラは武器を握り直した。
「もう勝手に離れないでくださいね」
ライキョウは彼女を数秒見つめ、それから頷いた。
「分かった。気をつけるよ」
だが、その直後――
グルル……。
別の唸り声が響いた。
そして、もう一つ。
さらにもう一つ。
ライキョウが振り返る。
木々の間に、黒い影が次々と現れ始めていた。
ミユラはすぐに前へ出る。
ライキョウと魔物の間に立った。
「……多すぎますね」
彼女の手の中で、鎖がピンと張る。
一体が飛びかかってきた。
ミユラは身体を傾けて避ける。
鎌が横薙ぎに振られ、魔物が弾き飛ばされた。
別の一体が反対側から襲いかかる。
ミユラは身体を回転させ、鎖を強く引いた。
空中の鎌が軌道を変える。
ヒュッ!
彼女はそのまま動き続けた。
一つの場所に留まらない。
魔物が近づくたびに位置を変え、攻撃をかわしながら、ライキョウへ近づけさせない。
ライキョウは少しずつ後ろへ下がった。
一歩。
そして、もう一歩。
ミユラが必死に魔物を抑えている。
「彼女……」
その時――
別の音が響いた。
唸り声ではない。
足音でもない。
泣き声だった。
「……お願い……」
ミユラの動きが止まる。
周囲の魔物たちも動きを鈍らせた。
「……こいつらを、許してやってくれ」
ライキョウは声の方を見る。
「誰かいるのか?」
魔物たちが後退し始めた。
一体。
また一体。
森の中央に、少しずつ空間ができていく。
ミユラは武器を握り直した。
「……そんな」
その声は、先ほどまでよりも明らかに小さかった。
ライキョウが彼女を見る。
「どうしたんだ?」
ミユラはすぐには答えなかった。
ただ、その空いた場所を見つめている。
「……ミズキ……」
ライキョウは眉を寄せた。
「誰、それ?」
ミユラは答えなかった。
彼女はミズキを見つめる。
そして、周囲の魔物たちが彼から距離を取っていることにも気づいていた。
頬を、一筋の汗が伝う。
「それは……」
ミユラの声が低くなる。
「……伝説の狂人です」
ライキョウは目を見開いた。
「……は?」
ミズキは頭を下げたまま、何度も地面に額を近づける。
「お願い……こいつらを許してやってくれ」
声は震えている。
まるで、本当に泣いているようだった。
だが――
突然、止まった。
泣き声が消える。
すすり泣きもない。
森全体が静まり返る。
ミズキは、まだその場に膝をついたままだった。
数秒が過ぎる。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
赤い瞳が、魔物たちへ向けられる。
口元が、わずかに歪んだ。
ライキョウには、何が起きているのか分からなかった。
ミユラも前へ出ようとはしない。
ただ、ミズキを見ている。
そして――
ミズキが笑った。
「ハハハ……」
一度。
そして、もう一度。
「ハハハハハハ!」
森の中に、狂ったような笑い声が響き渡る。
ついさっきまで泣いていた声とは、まるで違う。
ライキョウは思わず一歩後ろへ下がった。
ミズキが立ち上がる。
その笑みは、さらに大きくなっていく。
「どうして、お前たちはあいつらを許さないんだ?」
周囲の空気が変わり始める。
赤い気配が、少しずつ広がっていく。
魔物たちはさらに後ろへ下がった。
ミユラは目の前の光景を見つめる。
その表情から、いつもの落ち着きが消えていた。
「まずい……」
二本の鎌を強く握り締める。
「こいつ……神魂を使い始めた」
ライキョウはミズキを見つめた。
この森へ入ってから初めて――
次に何が起こるのか、まったく分からなかった。




