3 アトゥック 1
「痛っ!」
叫びたい声を呑み込むようにしてワイラが吐いた。地面に突き出た握りこぶしほどの石につまずいたのだ。
道端に座り込み靴を脱いでみると、親指の爪がはがれかけ、血がしたたり落ちていた。麻布で患部を覆ったが、靴は底が擦り切れ、つまずいた拍子に前開きになり、もう使い物にならなくなっていた。
幸いにもサンチャゴ・デル・エステロの郊外に差しかかっていたので、靴を布でくるみ、雑貨屋まで急いだ。靴を買い替えると、もうお金はほとんど残っていなかった。
ワイラはカルダゴという男を頼ることにした。カルダゴはサンチャゴ・デル・エステロの大商人で、ワイラたちの頭領であるメンドーサとは無二の親友だったため、ワイラも馴染みがあったのだ。
カルダゴの屋敷に着くと、真っ先にアルコールをもらい、口に含んで右足の親指に吹きかけた。全身が負傷しているかのような激痛が走った。
「その足でこの先やって行けるのか? 化膿するかも知れんぞ」
カルダゴは心配そうに患部をじっと見つめ、ツクマン行きの荷馬車を紹介してくれた。
「運のいい奴だ。こんなにタイミングよく出るものではないんだぞ」
ブエノスアイレス行きの荷馬車は毎日のように出ていたが、北部のツクマンとなるとその数はめっきり減る。カルダゴへの来客は多く、彼はワイラを荷馬車の主に引き合わせると、すぐに事務所の方へ戻っていった。
夕刻に荷馬車が出発した。ワイラとサミは、これまでの徒歩の旅の疲れのせいか、すぐに眠り込んでしまった。目を覚ましたのは、翌日の夕方頃だった。荷馬車の主人は何も言わずにパンと干し肉のスープを渡すと、焚き火の炎をじっと見つめながらパイプをくわえていた。ワイラとサミは眠りすぎて主人の機嫌を損ねてしまったのかと思い、顔を見合わせ、黙り込んでいた。だが、やがて主人はワイラにパイプを勧めてくれた。
翌朝からワイラたちは、ランプを磨いたり、馬に飼い葉をやったり、食事の火を起こしたり、飲み水を汲みに行ったりと、以前牛車にいた時のように働いた。ツクマンに近づくにつれ体の気だるさも取れ、怪我もほとんど良くなっていった。
サトウキビ畑で刈り入れをしている無表情なインディオたち。曇天の空の下、黙々と働くその姿はワイラたちの心を重くした。彼らは決して白い歯を見せず、荷馬車に目を留めることもなく、まるで機械のように手と体を動かしていた。
ツクマンに着くと、再び徒歩の旅が始まった。サルタまでは、あの荷馬車で過ごしたのと同じほどの距離を歩くことになる。ただ、これまで続いた平原とはほぼ別れを告げ、ここからはなだらかな山岳地帯を行くことになる。
景色も、白い雲がぽつねんと浮かぶ大空と、背の低い草が広がる大海原のような平行線の世界から、やっと変化を見せ始めた。幾千もの針に覆われて無造作にそびえ立つサボテン、赤や黄色の山肌、石垣の家といった、いささか個性のある断面へと変わっていく。道が瓦礫でデコボコしており、さらに北に進んでいるため、暑さと乾きといった自然の厳しさが増してワイラたちの体を痛めつけたが、それらは二人に生き延びる知恵と忍耐を与えてくれた。
サルタに着く頃には、二人とも日焼けして黒くなり、幾分痩せはしたが、その精神力にはある種の粘り強さが根付いていた。
視界に入るすべてのものがオレンジ色に染まる時間帯、ワイラとサミは、後に「七月九日広場」と呼ばれることになるサルタの一角を歩いていた。建設中の建物が広場を取り囲んでいた。歴史が流れ、文化が進むにつれ、それらはみな重要な意味を持つ建物になるのかもしれないが、この時はただのレンガ積みに過ぎず、将来の威厳を匂わせるようにはとても見えなかった。
散歩の途中なのだろうか、背を丸めて杖をつく老人。大きなシャベルを担ぎ、ドロドロの仕事着に脂汗をかく鉱夫。教会になるのだろうか、オレンジ色のレンガ組みに向かって祈りを捧げる、幼子を連れた婦人。広場は、そうした人々が右往左往していた。
ワイラたちは宿を探していた。持ち合わせの金が少ないので、いつもなら野宿をするところだが、ここでは一稼ぎしようと考えていた。
広場を真っすぐに横切り、二つ目の角を曲がって小路に入ると、大声が聞こえてきた。怒鳴り合っているようだ。声のする方向に歩いて行くと、再び大通りに出た。ここは先ほどの賑やかな大通りと違い、寂れた作業場が立ち並んでいた。
ワイラの目に、赤レンガの看板が真っ先に飛び込んできた。そのすぐ下で、決して引き締まっているとは言えない大柄な白人の男に対し、背丈はワイラと同じくらいで少し痩せ気味のインディオの少年が、握りこぶしを構えて今にも飛びかかりそうな様子で対峙していた。
「これっぽっちの金で、父ちゃんや弟や妹たちを養えっていうのかよ!」
「不足ならやめてもらったっていいんだぜ。代わりはいくらでもいるからな」
「俺、体は父ちゃんより小さいけど、その分長く働いてる。なのに父ちゃんの半分もないじゃないか!」
「仕方ないさ。お前は子供なんだからな」
賃金が不当に低い本当の理由を、少年は知っていた。
しかし、それを口にしてこの男を罵るわけにはいかなかった。男は少年の困り果てた様子を見て、楽しんでいるようだった。少年の口に出せない怒りが顔に表れれば表れるほど、男はおもしろがっていた。そして、冷ややかに言った。
「お前たちが生きて行けなくなったって、俺が困る訳じゃない。少しの金でも、文無しになるよりは有り難いと思うこったな。急ぐから、そこをのいてくれ」
男は少年を横へ押しやると、後ろに停めていた馬車に乗り込んだ。少年は押しやられた拍子に足がもつれ、地べたに倒れ込んだ。そして、馬車が走り去っても起き上がろうとはしなかった。
あまりにも長い間、少年がうつ伏せになったままだったので、ワイラたちは心配になり、少年のもとへ駆け寄った。ワイラが少年を起こそうとその上体に手を掛けた、その瞬間だった。少年が猛烈に食ってかかってきた。
「そんなにおもしろいのかよ!」
目は怒りで血走っていた。何か誤解をしているらしい。
「そんなところで突っ立っていないで、早くどこかへ行ってしまえよ。行かなきゃこいつをお見舞いしてやるぜ!」
少年は喋り終わる前に、ワイラのあご目がけて拳をねじり込んできた。ワイラは吹っ飛んだ。少年はワイラに飛びつき、怒りのままに容赦なく拳を振るった。しかし、五、六発殴られているうちに、ワイラの中にも怒りが込み上げてきて、体が反射的に動くようになった。ワイラも怒りを爆発させ、激しく殴り返した。頭では「やめよう」と思いながらも、体は言うことを聞かなかった。
互角の殴り合いが続いた。決着がつかないまま、双方とも息切れがして道に横たわった。サミがワイラに駆け寄ってきて、手拭いを渡した。
「ちぇっ、女の子とデレデレしやがって……」
少年は力尽き、暴言を吐く元気もなさそうだったが、不服そうに呟いた。サミは少年にも手拭いを渡した。少年はぶっきらぼうにそれを受け取ると、顔に当てた。傷を癒やすと同時に、心の中の怒りも静めようとしているようだった。
ワイラはこの不当に売られた喧嘩のおかげで、怒るどころか気だるさが取れ、すっきりとした気分になっていた。自分でもなぜだかよく分からなかった。サミはそんな二人をじっと見つめていた。
やがて少年が声をあげた。目はまだ手拭いで隠されたままだった。
「しかしよ……お前、強いじゃないか」
少年は本当に感心しているようだった。
「君もだよ」
ワイラは少し照れくさくなって言った。
「俺はアトゥック。お前たちは何て名だ?」
少年は手拭いを取って二人を見た。「アトゥック」とはケチュア語で『狐』を意味し、生き抜く知恵や生存力があり、それでいて仲間思いであることを示す名前だった。
「僕はワイラ。この娘はサミっていうんだ」
アトゥックはワイラよりも、サミの方をじっと探るように見ていた。瞳をまともに見られないからなのかもしれない。ワイラの胸に、妙な警戒心が沸き起こった。
(僕が初めてサミに出会った時と、同じ感情を抱いているのだろうか。僕の他にも、同じように感じる者がいる……あのガウチョもそうだった)
サミは確かに美しい。だが、その魅力は単に容姿が美しいというだけのものではなかった。サミの瞳には、魔性に近い強さで人を引きつけるものがあった。それが彼女にとって良いことなのか悪いことなのかは、旅が進むにつれて分かることだろう。サミは自分の感情を他人に言葉で表すことはあまりない。その言葉にならないものが、彼女の瞳の輝きとなって表れているのだろうか。彼女が無口になればなるほど、その瞳は輝きを増した。
サミが口を開いた。
「あの人のところで、まだ働くの?」
サミの心配している気持ちが、不器用な言葉になってこぼれた。アトゥックはうつむき、足で地面を小突いた。
「やめる訳にはいかないんだ。父ちゃんが戻ってくるまではね」
「病気なの?」
ワイラが尋ねた。
「ううん。俺たちの仕事はレンガを作ったり、家を建てるのを手伝ったりすることなんだ。けどよ、父ちゃん、三階の壁にレンガを並べるときに足を踏み外して、骨を折っちまったんだよ。もうだいぶ良くなっているんだけれどさ。父ちゃんの代わりに俺が働かなきゃ、怪我が治っても、父ちゃんはもう働かせてもらえなくなるんだ。あいつはそれをいいことに、あんな安い給金でこき使いやがる。インディオの子というだけでだぜ」
ワイラには分からなかった。自分もインディオだが、アトゥックのような扱いを受けたことはなかったからだ。
「どうして、インディオの子ならだめなんだい?」
「奴ら、スペイン人だからさ。この町は昔の名残が強くて、スペイン人たちは俺たちインディオを牛か馬のように思いやがる。どんなひどいことをされても、奴らのご機嫌を損ねるようなことはしなかったからな。まあ、これまでは俺たち家族七人が何とか食べていけるくらいの給金をもらえてたんだけどよ……。家族のためといっても、俺は父ちゃんのようには我慢できねえ。性分って奴なんだけどよ」
ワイラはこれまで生きていくうえで、白人対インディオという人種の差で、アトゥックのような扱いを受けたことがなかった。もちろん、自分がインディオだからといって卑下したこともない。
ワイラが所属していた隊商は全員で十五人、そのうちインディオは八人いた。頭領のメンドーサはメスチーソだった。彼は実力主義で人種差別を憎み、誰に対しても対等に接していた。彼自身、過去に嫌な思いを味わったことがあるのかもしれない。
主人が雇用者に対して差別することはなかったが、その代わり、仲間内でのいさかいは常にあった。
牛車の旅は単調であり、あまりにも平和すぎて面白みに欠けていた。人間というものは不思議なもので、平穏なものや安全なものを求めつつも、いざその状況に置かれると、今度はそれを壊したくなる習性があるようだ。彼らは、町で荷下ろしや積み荷の手配をしている時には気にも留めないような些細なことで、大平原の中、互いに因縁をつけ合った。
ターゲットに挙げられるのは、大体決まっていた。彼らの中では、あのフワンだった。彼はスペイン人だったが、他の人にはない特有の個性を持っていた。俗にいう変わり者である。彼はそつなくよく働くが、おとなしい性質で口下手だった。
頭領はフワンの長所をよく分かっていた。だが、フワンのそれ以上に、普段のぼんやりしたところが他の威勢のいい者たちの目に余り、よく因縁をつけられていた。フワンは気にしているのかいないのか、いつも黙々と地面に絵を描き、ワイラにだけ、たまに陽気な様子で愚痴をこぼした。
「あんなに言われて、よく平気でいられるね」
ワイラの方がたまりかねて聞き返したことがあった。そんな時、彼はこう言った。
「右から左、気にしないようにしているのさ」
ワイラはこのおかしなフワンのことが気になって仕方がなかった。サンチョたちに比べると、よほど強い人なのだと思った。
ある時、ワイラはサンチョたちから彼をかばったため、「馬鹿」呼ばわりされたことがあった。明らかにフワンの方が正しいことだったのに、サンチョたちの反り返りぶりに業を煮やした。フワンの頼りなげに見える態度にも腹は立つが、勢いの強いサンチョたちにつく気には、とてもなれなかった。自分が馬鹿呼ばわりされたからではない。いくら勢いが強くても、ワイラ自身、サンチョのように口先が軽く、いわれのない因縁をつける者を好きにはなれなかったのだ。
「おい、何ぼんやりしているんだ」
アトゥックの声に、ワイラは我に返った。
「あ……僕たち、クスコに向かっているんだ」
ワイラはぼんやりとして、つい口を滑らせてしまったことに後悔した。
「クスコだって!?」
アトゥックは急に顔色を変え、弾んだ調子で言った。
「お前、泊まるところはあるのか? よかったら、うちに来いよ。狭いが、飯や眠るところはあるからよ!」
と言うなり、ワイラたちの返事も聞かずに、アトゥックは足早に歩きだし、二人を導くように家路を急いだ。
AIで誤字脱字、言い回しが変なところを修正しましたが、この章も自力で書きました。
アトゥックが登場しましたね。ワイラたちの旅の一員になります。




