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アンデスへの旅路ーギターとケーナの出会いー  作者: 村松希美


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14 サイリの選択、静かなる贖罪



『アンデスへの旅路』の残響が、硝煙(しょうえん)(すす)に汚れたクスコの神殿広場に、奇跡のような静寂をもたらしていた。


つい数刻前まで、そこは狂気と憎悪の坩堝るつぼだった。鳴り響く銃声、肉を裂く鉄の音、神をかたる者たちの金切り声、そして圧政に抗う民の怒号。


しかし今、それらすべてが、サミの吹くケーナの鋭くも清らかな旋律と、ワイラの刻むギターの力強い羽ばたきによって、遠い幻影のように()き消されていた。


石壁を穿(うが)(くさび)となったその音楽は、サイリの魂をがんじがらめに縛り付けていた見えない呪縛――教会によって植え付けられた「洗脳」という名の暗雲――を、根底から粉々に砕き散らした。


サイリの右手が小刻みに震えていた。握りしめていたはずの、幾人もの同胞の血を吸った冷たい剣が、その指先から滑り落ちる。石畳に激しく激突し、カン、と高い乾いた音を立てて転がったが、今の彼にはその音さえ鼓膜(こまく)に届いていなかった。


「私は……私は、一体……」

かすれた声が、彼自身の喉から()れ出た。サイリは激しい眩暈めまいに襲われ、視界が歪むのを感じた。両手で顔を覆った瞬間、彼の膝は糸が切れた人形のように崩れ落ち、冷徹な石の床に激しく打ち付けられた。だが、肉体の痛みなど、今彼の胸の内で燃え盛る地獄に比べれば無に等しかった。


指の隙間から、熱い涙が止めどなく溢れ出し、(すす)と血の混じった頬を黒く濡らしていく。

脳裏を濁流のように駆け巡っていたのは、今まで「異教の悪魔が見せる幻影」として無理やり抑え込んでいた、鮮烈な、あまりにも鮮烈な「本当の記憶」の断片だった。


風が吹いていた。太陽の島を家族と共に抜け、クスコ近郊の村に吹いてあの懐かしいアンデスの風だ。


耳の奥で、母が口ずさんでいた優しいケチュアの子守唄が蘇る。そして何より、まだ自分の腰の高さほどしかなかった幼いサミの、小さく温かい手を引いて、黄金色のトウモロコシ畑を歩いたあの輝くような日々。

あの時、自分は確かにサミの兄だった。彼女を守るためなら、何だってできると信じていた。


(それを……私は……!)

激しい拒絶反応がサイリの心を()いた。教会は彼に「過去を捨てよ、あれは邪教の(けが)れだ」と教え込んだ。その言葉を盲信(もうしん)し、自らのアイデンティティを、家族を、血の記憶を、自ら悪魔のわざとして否定したのだ。それだけではない。あまつさえ、その汚れなき実の妹を、神の名のもとに「異端」として断罪し、この手で処刑しようとさえした。


その罪の意識は、鋭利な数千の針となって、サイリの心臓を容赦なく突き刺し、抉り回した。呼吸ができない。吐き気がするほどの自己嫌悪が彼を包み込み、彼はただ、子供のように声を上げて泣きじゃくるしかなかった。


「サイリ兄さん……!」

その時、ひび割れた世界を引き裂くように、愛おしい声が響いた。

サミがなりふり構わず駆け寄り、泥と涙にまみれたサイリの足元に縋り付いた。


サミの胸中は、嵐のような感情が吹き荒れていた。兄の瞳に宿った光を見た瞬間、彼女はすべてを悟ったのだ。冷酷な「教会の使徒」としての(こお)りついた仮面が剥がれ落ち、そこにあったのは、かつて自分を命がけで慈しみ、守ってくれた、あの優しく温かい兄の眼差しそのものだった。


その確信を得た瞬間、彼女の中でこれまで張り詰めていた、生命の限界とも言える緊張の糸が、ぷつりと切れた。


「あ、ああ……兄さん、本当に、兄さんなのね……!」

サミはサイリの(ひざ)に顔を埋め、大粒の涙を流して激しく泣いた。それは、これまで味わってきた恐怖や絶望の涙ではなかった。暗闇の底に囚われていた魂の半分を、ついに、ついに取り戻したという、身体が震えるほどの歓喜の涙だった。


彼女の吹いたケーナの音色は、ただの音楽ではなかった。兄の魂の奥底に眠る「本当の彼」を呼び覚ますための、命を懸けた祈りだったのだ。そしてその祈りは、天に届いた。


「……すまない、サミ。許してくれ、などとは……口が裂けても言えない……。私は、お前の信じる清らかな心を、私たちの誇り高き血を……この汚れた手で、永遠に汚そうとしたのだ……」


サイリは、激しく泣きじゃくるサミの震える肩を見て、本能的にそれを抱き寄せようとした。しかし、彼の両手は、サミの身体に触れる直前で、まるで目に見えない障壁に阻まれたかのように、空中でピタリと止まった。


彼自身の視界に映る、自分の両手。それは、あまりにも多くの同胞を(しいた)げ、「神の正義」という欺瞞ぎまんの後ろ盾を得て、異端審問の場で罪なき人々の肉体を破壊してきた手だった。教会の忠実な犬として、先祖代々受け継がれてきた聖なる伝統を、インカの記憶を、この街の至る所で破壊することに加担してきた呪われた手だ。


(この汚れた指先で……ひたむきに私を信じ、私のために命を削って音を(かな)でてくれたサミの、この清らかな肌に触れていいはずがない……!)


サイリの心は、妹との再会の喜びを遥かに凌駕(りょうが)する、底知れない自己嫌悪と絶望に支配されていた。彼は自らの両手を激しく見つめ、まるで不浄の肉塊であるかのように忌み嫌い、再び地面へと打ち付けた。救われたはずの彼の魂は、今度は自らが犯した罪の重さという、新たな底なしの沼へと沈み込もうとしていた。

そんなサイリの背後で、荒い息の音が響いた。


アトゥックが、べっとりと他人の血がこびりついた不恰好(ぶかっこう)棍棒(こんぼう)を、腰の荒縄(あらなわ)へと収めた。彼の胸はまだ激しく上下しており、全身から戦いの熱気と、焦げ臭い硝煙の匂いを漂わせている。

アトゥックは、地面に()いつくばって泣き崩れるサイリを見下ろし、ふん、と鼻を鳴らした。


「おい、いつまでそうやってシケた面してやがる。街はまだひっくり返ったままだぜ。……あんたが本当にサミの兄貴だってんなら、いつまでも地面の石っころばかり見てんじゃねえ」


アトゥックの言葉は、相変わらず鋭く、地を這うように乱暴だった。だが、その声の端々には、不器用な同情と、同じインディオの血を引く者としての静かな連帯感が、確かに宿っていた。


アトゥックは、目の前のこの青年をただの「敵の反逆者」としては見ていなかった。彼は知っていたのだ。自分たちインディオの民が、スペイン人という侵略者によってどれほど無残に引き裂かれてきたかを。このサイリという青年もまた、自分たちと同じ――いや、幼い頃に拉致され、心を書き換えられたという意味では、自分たち以上に、巨大な時代の(うず)()み込まれ、自分自身という最大の存在を奪われた悲劇の犠牲者であることを、アトゥックの野性の直感が理解していた。


アトゥックにとって、血の繋がった兄妹が、憎しみを乗り越えてこうして分かり合えた瞬間は、暗闇の中で放たれたあまりにも(まぶ)しすぎる光のようで、まともに直視できないほど尊いものに思えた。だからこそ、サイリが自らの罪に押し潰され、そのまま魂を腐らせていくのを見ていられなかったのだ。


ワイラもまた、血の(にじ)む指の痛みを必死でこらえながら、愛用のギターを背負い直した。彼の指先は、限界を超えた激しいピッキングによって皮がめくれ、弦には彼の赤い血が線となって付着していた。しかし、その表情には一片の悔いもなかった。ワイラは、ゆっくりとサイリに歩み寄り、その深い眼差しを静かに注いだ。


「サイリさん。あなたの心の中にあった音楽が、僕たちの音に応えてくれた。それがすべてです。過去をやり直すことは、神様であってもできません。だけど……これからあなたが歩む道だけは、誰にも、あの教会にさえも、二度と奪わせないでください」


ワイラの真っ直ぐで、一切の迷いのない言葉。それは、自責の念という名の深い霧の中で立ち往生していたサイリの胸を、一閃(いっせん)雷光(らいこう)のように貫いた。


(これから歩む道……。そうだ、私はまだ生きている。犯した罪は消えない。だが、死んで逃げることも、ここで立ち止まることも許されないのだ)

サイリは息を呑み、血の混じった涙を手の甲で手荒く(ぬぐ)うと、ゆっくりと、しかし確かな意思を持って立ち上がった。彼の足元には、まだ乱戦の余韻が冷めやらぬクスコの街が広がっていた。


神殿の丘から見下ろす古都クスコは、今や赤黒い炎と煙に包まれている。遥か遠くの広場や大通りでは、トゥパク・アマル2世が率いるインディオの解放軍が、怒涛(どとう)のような気勢を上げて進軍しており、不意を突かれて立て直そうとするスペイン軍の正規兵たちとの間で、激しい小競り合いの銃声が断続的に響いていた。

時代が、確かに動いている。古い世界の壁が、民衆の怒りによって打ち(くだ)かれようとしていた。


サイリの脳裏に、いくつかの選択肢が浮かんだ。

このままサミやワイラ、アトゥックたちと共に、混乱に乗じてこの忌まわしい要塞を脱出すること。それは可能だろう。彼らと共にインカの聖なる谷へ逃れ、青い空の下で、奪われていた兄妹の時間を、自由な空気を胸いっぱいに吸い込みながら取り戻す道。それはどれほど甘美で、救いに満ちた誘惑だろうか。


あるいは、足元に転がる剣を再び拾い上げ、今度は「教会の使徒」としてではなく、虐げられてきた民衆の一人、怒れるインディオの戦士として、スペインの圧政者どもに復讐の刃を突き立てる道。血には血を、暴力には暴力を。それもまた、一つの生き方かもしれない。


だが、サイリの魂が選んだのは、そのどちらでもなかった。彼は、自らの罪の深さを見つめ直し、より過酷で、より孤独な、第三の道を見出していた。


「ワイラ、サミ。……私は、この修道院へ戻る」

その言葉が静かに放たれた瞬間、サミが弾かれたように驚愕(きょうがく)して顔を上げた。その瞳には、せっかく取り戻した兄を再び失うことへの、狂おしいほどの恐怖が走った。


「どうして!? お願いよ、兄さん、何を言っているの!? せっかく、せっかくまた会えたのに! やっと本当の兄さんに戻ってくれたのに……どうしてまた、あんな冷たくて、恐ろしい暗闇の場所へ戻ろうとするの!?」


サミはサイリの衣の(すそ)を激しく(つか)み、狂ったように首を振った。

サイリはそんな妹を見つめ、悲しげに、しかし心の奥底から湧き上がる決然とした微笑をその唇に浮かべた。その瞳からは、先ほどまでの怯えや絶望は消え去っていた。


そこにあるのは、もはや時代の濁流(だくりゅう)に流されるだけの迷える子供の目ではなかった。己の運命を自らの足で歩むと決めた、一人の男の眼差しだった。


「サミ。私は多くの同胞を裏切った。彼らの神を侮蔑(ぶべつ)し、彼らが命よりも大切にしてきた誇りを否定し、踏みにじってきた。……その血に塗れた罪を背負ったまま、私はお前たちと共に日の当たる場所へ行き、何事もなかったかのように笑うことはできないんだ。それは、私にとって救いではなく、新たな欺瞞(ぎまん)になってしまう」

サイリはそっと、サミの掴む手を優しく包み込んだ。今度は、躊躇(ためら)わなかった。


「私はあの中へ戻る。だが、それは教会の犬に戻るためではない。教会の内側から、彼らの(ゆが)んだシステムと戦う道を選ぶためだ。クスコの地下深く、あの冷たい石壁の奥には、今も拷問に苦しみ、魂を削られている無数の同胞たちがいる。私は彼らのすぐ傍に立ち、その声を聴き、彼らの魂がこれ以上踏みにじられないよう、この身を賭して盾となる。それが、多くの過ちを犯した私に残された、唯一の、本当の贖罪なんだ」


それは、誰からも称賛されることのない道だった。勝利の凱歌(がいせん)も、華々しい栄光もない。ただ一生をかけて己の犯した大罪と向き合い続け、白人たちの猜疑(さいぎ)の目に(さら)されながら、孤独の中で同胞のために祈り、動き続ける、果てしない苦行の道。下手をすれば、裏切り者として明日にも秘密裏(ひみつり)に処刑されるかもしれない、薄氷(はくひょう)を踏むような歩みだ。


「サミ、お願いだ。お前のそのケーナを、決して絶やさずに吹き続けてくれ。お前たちの紡ぐ美しい音楽が、アンデスの深い山々と風に乗って響き続ける限り、私はどんなに暗い石壁の奥底に囚われていても、決して自分を見失わずにいられる。お前たちの調べこそが、私が闇の中で戦い続けるための、唯一の力になるんだ」


サイリは、自らの衣服の内ポケットにそっと手を入れ、大切に守るように隠し持っていた「ある物」を取り出した。

それは、かつて彼が「教会の使徒」としてサミを捕らえた際、没収し、他の司祭たちの前で叩き割ろうとした、あのサミのケーナの破片だった。彼は、冷酷な仮面を被りながらも、どうしてもその破片を捨てることができず、自らの胸元に忍ばせていたのだ。


サイリは、その泥に汚れ、小さく割れてしまった聖なる(あし)の破片を、愛おしそうに見つめた後、サミの小さく震える手のひらの上へと、丁寧に、壊れ物を扱うように返した。


それは、彼が「兄」としてサミに遺す最後の守護の証であり、たとえどれほど離れていても、いつか必ずこの大地に本当の自由を取り戻すという、魂の契約の印でもあった。


サミは、手のひらに乗せられたケーナの破片を見つめた。兄の体温が、その小さな木片から伝わってくるようだった。


彼女の胸の中で、引き裂かれるような悲しみと、それを上回る兄への深い敬意が混ざり合い、一つの強固な決意へと昇華していった。兄は、逃げるのではなく、自分の戦場で戦うことを選んだのだ。ならば、自分がすべきことは、泣いて引き止めることではない。

「……分かったわ、兄さん。私、吹き続ける。この命がある限り、アンデスの風にのせて、どこまでも届くように」

サミは涙を力強く拭い、真っ直ぐにサイリを見つめ返して頷いた。


「兄さんの祈りが、いつか……この大地のすべての人に届いて、すべての闇を払い除けるその日まで。私は絶対に、この音を止めない」


兄妹を隔てていた、教会という名の巨大で冷酷な洗脳の壁は、今ここに完全に崩壊した。しかし、二人は手を取り合って逃げるのではなく、ここから、それぞれの過酷な戦場へと、別々の歩みを始める。サミは、兄の背負った「十字架」の、あまりにも重すぎるその意味を正しく理解し、彼が闇の底で潰れてしまわないよう、その背中を支え続けるための光として、音楽を奏でる決意を完全に固めたのだった。



夕刻。


クスコの街を赤く染める夕陽は、戦火の煙と混ざり合い、まるで大地全体が血と黄金で満たされているかのような、壮絶な美しさを放っていた。

その光の向こう側、長く伸びる影を連れながら、サイリは一人、静かに歩みを進めていた。


彼の目の前には、巨大な石造りの修道院の、重く冷たい鉄の門が口を開けて待っている。そこは彼にとって、かつて魂を奪われた場所であり、これからは孤独な戦場となる場所だ。

サイリが門をくぐり、その薄暗い闇の中へと一歩を踏み出した時、背後から、風に乗って微かな音が届いた。


遠ざかっていく、ワイラの優しくも力強いギターのストローク。そして、それに寄り添うように、高らかに天を突き、クスコの空へと広がっていくサミのケーナの調べ。


それは、彼を送り出すための、最高の賛歌だった。

鉄の門が、ズシン、と重い音を立てて閉まり、サイリの世界は再び冷徹な静寂と闇に包まれた。

だが、サイリの心には、もう一片の迷いも、恐怖もなかった。


彼がその手に選んだのは、目に見える鋼の剣ではない。人間の魂の最深層から、静かに、しかし確実に世界を浄化し、変革していく「祈り」という名の、最も強靭(きょうじん)な戦いだった。


彼は二度と、自分の名を、民族の血を、そしてサミのあの温かい手の感触を忘れない。

その絶対的な確信だけが、深い、深い闇の奥へと進む彼の足元を、何よりも眩しく照らし出す、消えない光となっていた。







この章もすべてAIが書きました。


熱いですよね。やはり、これまでの原稿やアイデアを汲み取ってくれたのかも知れません。


それにしても、洗脳はえげつないですね。洗脳って、今から洗脳するぞ!と言ってするものではないですからね。

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