不穏な噂
魔瘴が収まってから一年が経った頃、不穏な噂が流れ始めた。
「古の魔術師が王都に向かっている」
「死者を操る黒魔術が国境付近で目撃された」
「百年前の魔瘴より強い何かが、目覚めようとしている」
どれも眉唾ものの噂だと思いたかったが、騎士団が動き始めたのを見て、私は少し考え込んだ。
薬草屋に来る客の中にも、雰囲気が変わった人が増えていた。いつも穏やかな老婆が「なんだか空気が重い気がする」と言っていた。感受性の高い人には、何かが感じられているのかもしれない。
父は「噂は噂だ」と言いながら、仕入れの量を少し増やし始めた。何かあったときのための備えだと、口には出さなかったが、私にはわかった。
……お父さんは、いつも言葉より先に手が動きます。
レオンが非番に来たとき、いつもより顔が険しかった。疲れているのとは違う。何かを抱えているときの顔だ。
「……何かあったんですか」
「国境で異常な魔力反応が連続して出ている。原因がわかっていない」
「死者を操る魔術、というのは本当ですか」
レオンが少し止まった。
「……否定できない。現場を見た騎士の報告では、一度倒した魔物が動き続けていたという話がある」
……やっぱり、本当なんですね。
私は薬草の仕分けを続けながら、頭の中で情報を整理した。死者を操る黒魔術。百年前より強い何か。そして、一年前の魔瘴の核はすでに浄化したはずなのに、新たな異常が続いている。
……これは、単純な話じゃないかもしれません。
魔瘴の核を浄化したことと、今起きていることは、別の問題かもしれない。
「騎士団は、どう動くつもりですか」
「情報収集中だ。まだ全容がわかっていない」
「わかったら、教えてもらえますか」
「……お前が動くつもりか」
「情報次第です」
レオンが少し私を見た。それから、「わかった」と言った。
表情は変わらなかった。でも、私が「情報次第で動く」と言ったことに、反対しなかった。それがこの人なりの信頼の形だと、最近わかってきた。
……「行くな」とは言わない人です。
その代わり、「行くなら俺も」という人です。
◆
その夜、ガイウスが来た。
謎の老魔術師、ガイウス。私の正体を唯一知っていた人物で、魔力抑制の指輪をくれた人でもある。普段は気まぐれに現れて、意味深なことを言って消えていく。
今夜は珍しく、真剣な顔をしていた。杖をついて、いつもより少し背が小さく見えた。
「アリア。そろそろ動く時が来た」
「こんばんは、ガイウスさん。突然ですね」
「前置きは省く。百年前の魔瘴を引き起こした存在が、また目覚めつつある」
「……百年前の?」
「名をヴォルド。かつて世界の均衡を乱した古の魔術師だ。死んだと思われていたが、死者の魔力を糧に復活しようとしている」
「それを止める方法は」
「ある。ただし、歴代最強の聖力が必要だ」
……歴代最強。
つまり私のことですね。
こういう流れになるんですね、やっぱり。
「……厄介ごとですね、これは」
「その通りだ」ガイウスがにっこりした。「だが、君は厄介ごとを放っておけない性分だろう」
……それは否定できません。
でも今回は、一人じゃない。
「……一つ確認させてください。今行動しなければ、どうなりますか」
「半年以内に、ヴォルドは完全に復活する。そうなれば、一年前の魔瘴どころではない被害が出る」
「わかりました。協力します」
ガイウスが少し目を細めた。「ありがとう」と言った。こんなに素直な言葉は、初めて聞いた気がした。
「ガイウスさん、詳しい場所はわかりますか」
「国境の東、荒れた大地の奥に古い塔がある。そこがヴォルドの根城だ。三日の行程だな」
「騎士団には伝えた方がいいですか」
「伝えてもいいが、大部隊が動けば感知される恐れがある。少人数の方が有利だ」
……少人数、ですか。
私と、レオンと、エミリアさんと、ガイウスさん。それで足りるかどうか。
でも、信頼できる人たちです。
ガイウスが去ってから、私はしばらく店の中に立っていた。
薬草の香りが漂っていた。いつもと同じ店だった。でも、また何かが動き始めた夜だった。
前世では、こういう夜に一人で考え込んだ。今世でも十二年間、一人で抱えてきた。
……でも今回は、違います。
話せる人が、いる。
私は戸締まりをして、レオンに話しに行くことにした。
外に出ると、夜の王都は静かだった。石畳が月明かりに濡れていた。こんな穏やかな夜に、百年前の何かが目覚めようとしている。
……前世でも今世でも、世界は平和そうに見えて、どこかで何かが動いていますね。
でも今回は、それを止められる力が私にはある。
そして止めたいと思う理由も、ある。
レオンの家に着いた。扉をノックすると、すぐに開いた。
「……どうした」
「話があります。少し時間をもらえますか」
「ああ、入れ」
部屋に入った。暖炉が温かかった。レオンが茶を淹れてくれた。
「……それほど急ぎの話か」
「そうかもしれません。聞いてもらえますか」
「ああ」
……この人は、夜中にこういう訪問をされても、驚かずに受け入れてくれます。
それがありがたいです。本当に。




