薬草屋の朝
魔瘴が収まってから、三ヶ月が経った。
王都はすっかり日常を取り戻していた。北側の城壁は修繕され、商業区の賑わいも戻り、夜市もまた月に一度、橙色の灯りで街を照らすようになった。子どもたちが路地を走り、馬車が石畳を渡り、市場に野菜と花が並ぶ。それが当たり前だった景色が、いったん失われかけて、また戻ってきた。
ヴェルメール薬草店も、変わらず営業している。
朝は六時に起きて店の掃除をして、七時から開店の準備をして、八時に父が店番に立ったら私は裏の作業場で薬草の仕分けをする。ヒール草、魔力草、眠り草、シルバーリーフ。種類ごとに並べて、質を確かめて、傷んでいるものを除く。毎朝繰り返す作業だ。
変わったことといえば、一つだけある。
週に二度、レオンが来る。
……以前からそうだったような気もしますが、今は意味が違います。
以前は「なぜ来るんだろう」と思いながら受け入れていました。今は「来てくれるんだ」と思いながら待っています。
自分でも驚くくらい、変わりました。
◆
聖女院との関係は、落としどころが見つかった。
「登録はしない。しかし、国の危機に際して要請があれば、自分の判断で協力を検討する」という形だ。サイラス調査官は最初難色を示したが、魔瘴の件で私の力の規模がわかってしまった以上、強硬手段を取るよりも穏やかに関係を保つ方が得策だと判断したらしい。先日、また顔を出しに来て、「今後ともよろしくお願いします」と言って帰った。あの人はやっぱり目が笑っていなかったが、敵意はなかった。
完全な自由ではない。でも、命令に従う道具でもない。
……前世のOL時代より、だいぶましな働き方です。
有給休暇もないし、退職金もないし、社会保険もないですが。
自分で決められる、というのが何よりです。
エミリアとは、月に一度会うようになった。
先月は新しい薬草茶を一緒に飲んだ。エミリアが「これ、前世でいうやつですか」と聞いてきた。前世の概念を彼女なりに理解しようとしてくれているのが、少し嬉しかった。
「少し違いますが、近いです」
「いつか、前世の世界のお茶も飲んでみたいです」
「転生しないと難しいですね」
「それは困ります」
二人で笑った。
エミリアは相変わらず聖女院に所属しているが、できる範囲で制度の改善を内側から働きかけていると言っていた。「あなたみたいに外から声を上げる人と、私みたいに内側から変えようとする人と、両方いた方がいい」と、真剣な顔で言った。
「……あなたは、本当にまっすぐな人ですね」
「アリアほどじゃないです」
「私はまっすぐじゃないですよ。十二年間逃げていたんですから」
「逃げていたけど、最終的にちゃんとやった。それがまっすぐだと思います」
……この子と友人になれて、よかったです。
聖女院の中と外で、向いている方向が少し違っても、同じところを目指している人がいる。それがわかっただけで、外にいることが少し楽になりました。
◆
ある朝、仕分けをしていたら、作業場の扉がノックされた。
「入っていいか」
レオンの声だった。
「どうぞ」
扉が開いて、レオンが入ってきた。手に、薬草の束を持っていた。鎧ではなく、普段着だった。非番だとすぐわかった。
「また採取してきたんですか」
「ああ。今日は魔力草も採れた」
「見せてください」
受け取って確認する。魔力草は根の部分の香りが強いものがいい。今日のは、とてもいい。根が太く、香りが芯まで詰まっている。これは良品だ。
「上出来です。どこで採りましたか」
「城壁の東側の林。お前が前に行っていた場所だ」
「覚えていたんですか」
「当たり前だ」
……この人は、さりげなく覚えています。いつも。
私が何気なく言ったことを、次の週には行動に移している。
それが一番ずるい。
「今日はどのくらいの量が必要だ」
「これだけあれば十分です。ありがとうございます」
「礼はいい。仕分けを手伝う」
「大丈夫ですよ。採取してきてくれただけで十分です」
「俺がやりたい」
これ以上何を言っても無駄だとわかっているので、椅子を一つ出した。
レオンが隣に座った。
薬草を仕分けながら、しばらく二人で作業した。レオンは何も言わずに薬草の茎を整えていた。口数は相変わらず少ない。でもここにいる。それで十分だった。
……静かです。
でも、一人の静かさとは違う。
誰かがいる静かさは、こんなに違うものなんですね。
◆
しばらくして、母が顔を出した。
「二人ともお茶はいる?」
「いただきます」
「もらう」
二人分のお茶が来た。母は何も言わずにまた奥に引っ込んだ。でも引っ込む直前に、少しだけ笑っていた。
……見ましたよ、お母さん。
お茶を受け取って、一口飲んだ。温かかった。蜂蜜が入っていた。母はいつもこういうところで気が利く。
「レオン、薬草の仕分けを覚えて何ヶ月になりますか」
「……四ヶ月か、五ヶ月か」
「ずいぶん上手くなりましたよ。最初は根と茎の区別がついていなかったのに」
「お前が教えてくれたから」
「でも覚えるのはあなた自身ですよ」
レオンが少し間を置いた。
「……剣と同じだ。繰り返せば形になる。丁寧にやれば精度が上がる」
「薬草師の適性があります」
「騎士だ」
「兼業できるかもしれません」
「しない」
「残念ですね」
レオンが少し、目を細めた。怒っているのではない。呆れているわけでもない。この顔は、たぶん笑っている。声には出なくても、この人なりの笑い方だ。
……わかるようになりました。
ずいぶん時間がかかりましたが。
◆
窓から光が差し込んできた。
朝の柔らかい光が、薬草の葉を照らして、作業場をぼんやりと明るくした。ヒール草の緑が、光の中で少し透けて見えた。シルバーリーフの銀色が、白く輝いた。
私はしばらく手を止めて、その光を見た。
前世では、こんな朝を迎えたことがなかった。余裕がなかった。疲れていた。毎朝アラームに叩き起こされて、電車に揺られて、デスクに向かった。窓から光が入っていても、見る暇がなかった。
今世では、十二年間ずっと一人で抱えてきた。笑いながら、誤魔化しながら、この光を一人で見ていた。きれいだと思いながら、どこか遠い気持ちで見ていた。
今は。
……静かです。
あたたかいです。
隣に誰かがいる。
「何を見てる」
レオンが言った。
「光です。きれいだなと思って」
「そうか」
それだけだった。でも、レオンも少し窓の方を向いた。一緒に光を見ていた。
二人で、しばらくそのまま黙っていた。薬草の香りが漂っていた。どこかで鳥が鳴いた。
「……きれいだな」
レオンがぽつりと言った。
「でしょう」
「毎朝こんな光が入るのか」
「季節によって角度が変わりますが、だいたいこんな感じです」
「……知らなかった」
レオンが少し目を細めた。初めて気づいたものを見る目だった。
……この人は騎士団の詰め所で朝を迎えることがほとんどです。こういう朝は、あまり知らないんですね。
それが何だかもったいなくて、少し笑えました。
「これからは毎週見られますよ」
「そうだな」
「非番のたびに来るので」
「……文句があるか」
「全然ないです」
また二人で薬草の仕分けを再開した。窓の外では、王都がいつもの朝を迎えていた。子どもたちの声が聞こえた。馬車の音がした。どこかで誰かが笑っていた。
……前世でも、今世でも。
私はずっと、ゆっくり生きたかっただけでした。
平和に、誰かのそばで、薬草の匂いのする朝を迎えたかっただけでした。
遅くなりましたけれど。
ようやく、見つけました。
◆
「アリア」
「はい」
「今日も来ていいか」
「……今日もいるじゃないですか」
「明日の話だ」
「明日は非番ですか」
「ああ」
……非番が多いですね、最近。
まあ、いいですけど。
「では、明日は重い配達があるので手伝ってください」
レオンが少し、口の端を上げた。
「わかった」
私も笑った。
薬草の仕分けを続けながら、私はふと思った。
十二年間、ずっと誰にも言えなかった。隠して、逃げて、一人で抱えて。それが当たり前だと思っていた。秘密を持ったまま生きることが、私の生き方だと思っていた。
でも今は、隣に人がいる。
全部知った上で、それでも隣にいてくれる人が。
……不思議なものですね。
「逃げて生きる」がいつの間にか「ここにいる」に変わっていた。
いつからかなんて、正確にはわかりません。
気がついたら、そうなっていた。
窓の外で、朝の光がさらに強くなった。
薬草の葉が、光を受けて、柔らかく揺れた。
いつもと同じ朝だった。
いつもと同じ作業場で、いつもと同じ薬草を前にして、今日も一日が始まる。
……前世の私に、一度だけ伝えられるとしたら。
たどり着けたよ、と言いたいです。
遠回りしたし、遅くなったけど。
ちゃんと、ここにいます。
――――◆――――
完
歴代最強聖女、厄介ごとに巻き込まれたくないので能力を隠して生きていきます
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
アリアは逃げているようで、誰よりも丁寧に今世と向き合っている子です。そしてレオンは、言葉は少ないけれど行動のすべてが本物の人。そんな二人の、ゆっくりとした距離の縮まり方を書けたことが、とても嬉しかったです。
◆
番外編・続編の投稿も予定しております。
番外編①「騎士は気づかなかった」はレオン視点、番外編②「エミリアの聖女院日記」はエミリア視点の物語です。続編①は告白後のふたりの甘い日常を、続編②は新たな脅威に四人で挑む冒険を描いています。
よろしければ、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。
月代




