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失われた光

デュミナス教総本山、教皇執務室。

そこには、未だ止まない暗殺の恐怖に怯え、机の陰で小さく震えている教皇エレオノーラの姿があった。

「うう、シズク……。私、やっぱり怖くて夜も眠れないよ……。いつ、どこから裏切り者が刃を突きつけてくるか分からないなんて……」

そんなエリーの前に、隠密調査から一時帰還したシズクが静かに歩み寄った。

彼女はいつもの冷徹な表情を少しだけ和らげ、エリーの華奢な肩を優しく抱きしめる。

「大丈夫ですよ、エリー。……もう心配いりません。教皇暗殺計画の全貌、そしてその裏で糸を引く黒幕の尻尾を、ようやく掴みかけています。解決の目処は立ちつつありますから、貴女は私を信じて、安心していなさい」

「シズク……っ。うん、私、シズクを信じる……!」

幼馴染の力強い言葉に、エリーは縋り付くようにして涙を拭った。

エリーを宥めるシズクの赤い瞳には、最愛の友を必ず守り抜くという、揺るぎない決意が宿っていた。

一方その頃、大聖堂の地下深くにあるグレゴリー神父の私室。

そこには、激しい怒りと焦燥感に駆られ、書類を床にぶちまけている神父の姿があった。

「クソッ……! 外部の暗殺者を何人送り込ませれば気が済むのだ! なぜ、あんな小僧一人、一向に始末できない……ッ!」

最高の手札であったセイラを失ったとはいえ、金を積んで雇ったプロの刺客たちが、誰一人として戻ってこない。

焦りと苛立ちが限界に達し、神父が忌々しげに顔を歪めた、その時だった。

「大変失礼いたしました」

「っ!?」

部屋の隅、濃密な影の中から、まるで最初からそこにいたかのように、音もなく一人の人物が姿を現した。

顔全体を不気味な仮面で覆い、全身から漆黒のオーラを放つ不気味な暗殺者。

グレゴリーが莫大な裏金で契約した、外部の組織でも文字通り『桁違い』の実力を持つと噂される特級の刺客だった。

「お前か……!」

「私の部下たちが、再三にわたり無様な失敗を重ねたこと、深くお詫び申し上げます。……ですが、これ以上の失敗は我が組織の、そして私自身の誇りが許しません。次の機会にて、必ずや標的の首を御前へと捧げてみせましょう」

歪な仮面の奥から、冷徹極まりない声が響く。

神父がその圧倒的な威圧感に気圧されている間に、仮面の暗殺者は再び陽炎のように揺らめき、音もなくその姿を闇の中へと消し去ってしまった。

「ふ、ふん……。そうだ、お前のような本物の化け物なら、あの小僧など一瞬で……。次こそは確実に、確実に消し去ってくれるわ……!」

神父は消えた暗殺者の残響に向かって、狂気を孕んだ歪な笑みを浮かべるのだった。


その頃、ニコラ工房の一角。

カイトさんは、少し改まった様子で私を呼び出していた。

「なぁ、セイラ。これ、お前に渡しておくよ」

カイトさんが差し出してきたのは、丁寧に蝋で封印された一通の手紙だった。

私が不思議そうに首を傾げると、カイトさんは少しだけ真面目な顔になり、静かに言葉を続けた。

「もし……もしも、俺の身に何かあったら、その時まで絶対に開けずに、これを読んでほしいんだ」

「え……?」

カイトさんの口から飛び出したあまりにも不穏な言葉に、私の心臓がドクリと嫌な音を立てた。

胸を突き刺すような不吉な予感に、私は渡された手紙を強く握りしめ、必死に首を横に振る。

「カイトさん……! お願いですから、そんな不吉なことを言わないでください。……暗殺者なんて、何人来ても関係ありません。カイトさんは、私が、私の命に代えてでも必ず守ります……っ! だから、そんな遺言のようなものは受け取れません!」

今にも泣き出しそうになりながらカイトさんを見上げる。

そんな私の必死さに、カイトさんはいつもの調子を取り戻し、困ったように頭を掻きながら笑った。

「はは、大袈裟だって。別に何かあると決まったわけじゃなしさ。まぁ、人生何が起こるか分からないからさ、一種の『保険』みたいなものだよ。な?」

いつものように優しく微笑むカイトさん。

――だが。

そのカイトさんの言葉が鼓膜に届いた瞬間、私の頭の奥で、悍ましいほどの『激しいノイズ』が狂ったように鳴り響いた。

(ノイズ……!? 嘘、をついている……!?)

神父の洗脳から解き放たれて以降、初めて聴くレベルの巨大な嘘の音色。

『何かあると決まったわけじゃない』『ただの保険だ』というカイトさんの言葉の裏には、確定された明確な意図、あるいは逃れられない破滅の予感が隠されている。

私には、それがはっきりと分かってしまった。

(……そうよね。カイトさんは、自分が凄腕の暗殺者たちに狙われていることを知っている。だから、自分が絶対に安全だなんていう確証はどこにもない……。だから、私を安心させるために、あんな嘘をついたんだ……!)

カイトさんが命の危険を前にして、自分を巻き込むまいと必死に平静を装っているのだと、私は痛切に理解していた。

カイトさんがどれほど自分を想い、優しい嘘で守ろうとしてくれているか――その健気な姿勢が、私の心を激しく揺さぶる。

「カイトさん……」

私は溢れそうになる感情を堪え、手紙をそっと胸の前に抱きしめた。

そして、目の前の愛おしい青年を見つめ、声に出さず、魂の底で誓いを立てる。

(何があっても。たとえ世界中を敵に回したとしても……私は、貴方を絶対に死なせたりしません)

カイトさんが優しい嘘を紡ぐなら、私はそれを真実にするための盾となろう。

固い決意を胸に秘めた私と、どこか遠い目をするカイトさん。

不穏な気配を漂わせ夜は更けていったのでした。


「――うわぁ、すごい……! カイトさん、見てください、あそこにお魚の形をした焼き菓子が売っています!」

潮の香りが心地よく吹き抜ける、海沿いの港。

いつもなら大聖堂かニコラの薄暗い工房にこもっているはずの私たちが、どうしてこうして賑やかな市場を歩いているのか、未だに少しだけ夢見心地だった。

前日、カイトさんから突然「たまには息抜きしようぜ」と誘われたのだ。

あの不穏な手紙を渡された直後だったから、私は生きた心地がしなかったけれど、カイトさんは本当にただ楽しそうに、私の手を引いて街へと連れ出してくれた。

「どれどれ? お、本当だ。鯛焼き……じゃなくて、こっちの世界の魚だな。よし、二つください!」

カイトさんは露店のおじさんに銅貨を支払うと、出来立ての温かいお菓子を「ほら」と私に手渡してくれた。

「あつっ……でも、すごく美味しいです」

「だろ? ほら、口の横に白い粉ついてんぞ」

「えっ!? ど、どこですか……?」

慌てて顔を覆う私を見て、カイトさんは「うそうそ、冗談」と悪戯っぽく笑った。

その屈託のない笑顔を見るだけで、私の胸の奥が、トクンと小さく跳ねる。

(……おかしい。最近、本当に変、です)

お菓子を噛み締めながら、私はカイトさんの横顔を盗み見た。

今までだって、ずっと一緒に旅をしてきたはずなのに。

神父様に裏切られ、私の薄汚い本性をすべて知られてもなお、優しく後ろから抱きしめてくれたあの日から――カイトさんの顔をまともに見ることができなくなってしまった。

ただ隣を歩いているだけなのに、肩が触れそうになるだけで、心臓が壊れてしまいそうなくらいドクドクと激しい音を立てる。カイトさんが他愛もないことで笑いかけてくれるたびに、顔がカッと熱くなって、喉の奥が震える。

(ニコラさんと仲良くお話しされていた時も、胸がチクチクして、すごく嫌な気持ちになりました……。これって、私……)

市場を抜け、人の少なくなった海沿いの遊歩道を歩きながら、私は自分の胸にそっと手を当てた。

暗殺の道具としてしか育てられず、誰かを慈しむ感情なんて知らなかった私に、カイトさんは「心」をくれた。

私を、一人の人間として、女の子として扱ってくれた。

(私……カイトさんのことが、好き、なんだ……)

頭の中でその言葉が結ばれた瞬間、点と点だったすべての感情が一本の線に繋がった。

恥ずかしさと、愛おしさと、そして彼が抱えているかもしれない「危険」への恐怖が、一気に押し寄せてくる。

私はもう、ただの護衛じゃない。

一人の恋する女の子として、この人を絶対に失いたくない。

何があっても、私が、私のすべてを懸けて守るんだ。

恋心を自覚した私の視界に映る景色は、さっきまでよりも何倍も鮮やかで、キラキラと輝いて見えた。

「――お、セイラ。あそこの崖の上、めちゃくちゃ見晴らしが良さそうだぞ。行ってみようぜ」

カイトさんが楽しそうに指差したのは、海に突き出た美しい断崖絶壁だった。

「はい! どこまでもついていきます、カイトさん!」

私は弾んだ声で答え、カイトさんの少し前を歩くようにして、崖へと続く坂道を登り始めた。

カイトさんを守るため、いつでも周囲を警戒できるように。

だけど、恋心に胸を躍らせ、幸せの絶頂にいた私は――この時、まだ気づいていなかった。

美しく澄み渡る青空の裏で、取り返しのつかない最悪の凶刃が、すぐそこまで迫っていることに。


坂道を登りきり、私たちは海へと突き出た崖の先端へとたどり着いた。

「わぁ……っ!」

思わず、感嘆の声が口から漏れる。

視界のすべてを埋め尽くすような、どこまでも広がる真っ青な海。

水平線が緩やかに弧を描き、降り注ぐ太陽の光を浴びて、波頭がまるで砕けた宝石のようにキラキラと輝いている。

風が心地よく髪を揺らし、潮の香りが全身を包み込んだ。

(こんなに素敵な場所に連れてきてくれるなんて。……やっぱり、大好きです、カイトさん)

胸の奥を優しく満たす恋心を噛み締めながら、私は一歩遅れて坂を登ってくる愛しい人を振り返った。

「カイトさん、早く来てください! 最高の眺めですよ!」

満面の笑みを浮かべ、彼へと手を振る。

カイトさんはいつものように少し面倒くさそうに、だけど愛おしそうに眉を下げて、「はいはい、今行くよ」と笑い返して――。

――その瞬間だった。

『――ッッ!!!』

鼓膜を、そして大気を狂暴に引き裂く、凄まじい風切り音。

それは、かつて暗殺者として数多の命を奪ってきた私が、嫌というほど身体に叩き込んできた『凶刃』の音だった。

「カイトさ――」

言葉のすべてを紡ぎ切る前に、私の身体は本能的に彼へと駆け出していた。

けれど、伸ばした私の指先が彼の服の裾に届くよりも、ほんの一瞬、早く。

『ドッ……!』

鈍く、重い衝撃音が響く。

背後の森から放たれたであろう漆黒の豪矢が、カイトさんの脳天を、一切の容赦なく正確にぶち抜いた。

「え――」

視界が、一瞬で鮮血の赤に染まる。

矢の凄まじい運動エネルギーに弾かれるようにして、カイトさんの身体が、糸の切れた人形のようにガクリと後ろへ傾いた。

そのまま、重力に引かれるがままに、断崖絶壁の向こう――白波が狂ったように泡立つ、遥か下の荒海へと真っ逆さまに落ちていく。

「カイト、さん……?」

水飛沫の音すら、遠く聞こえた。

数秒前までそこにいたはずの彼が、いない。

崖の縁へ這いつくばるようにして下を覗き込んでも、激しくうねる海面がうっすらと赤く染まっているだけで、彼の姿はどこにも見当たらなかった。

頭の中が、真っ白になる。

手足の先から、血の気が一気に引いていくのが分かった。

身体の震えが止まらない。喉の奥が引き攣って、上手く呼吸ができない。

「や、やだなぁ……カイトさん……っ」

私は乾いた声を漏らし、引きつった笑みを浮かべて、誰もいない空間に向かって呟いてみた。

「また、いつもの『イリュージョン』なんですよね……? 私をびっくりさせようとして、意地悪な幻覚を見せているだけですよね……? ほら、もう降参ですから、早く後ろから『引っかかったー!』って笑って出てきてください……っ」

そう。彼は嘘つきの魔道士だ。

これまでだって、何度も度肝を抜くような幻覚で周りを騙してきた。

これも、きっと彼の悪戯に違いない。

……だけど、そんな都合の良い現実逃避すら、私の身体は許してくれなかった。

頬にべっとりと付着した、生々しいほどの熱。

鼻腔をツンと突く、鉄の、紛れもない本物の『血の匂い』。

そして何よりも――。

(カイトさんは……さっき、『指を鳴らしていない』……!)

あの大聖堂の時も、ニコラさんの店の時もそうだった。

カイトさんがあの幻覚魔法を発動する時は、必ず、『パチン』と指を鳴らす音が聞こえていた。

けれど今、あの矢が飛んできた瞬間、カイトさんは両手をダラリと下げたまま、指なんて一回も鳴らしていなかった。

魔法の発動条件であるトリガーを引いていない。

ということは、今、私の目の前で起きた出来事は、何一つとして偽りのない『現実』だ。

「嘘……嘘、嘘嘘嘘!!! やだ、嫌ですカイトさん!!! 私を置いていかないで……っ!!」

頬の返り血を拭うことすら忘れ、私は崖の縁を爪が割れるほど激しく掻きむしった。

嫌だ。やっと見つけた。やっと、この冷え切った暗闇の人生の中で、私のすべてを肯定して、私に心を与えてくれた、世界で一番大切な人。

さっき、ようやくこの気持ちの名前を知ったばかりなのに。どんな脅威からも命に代えても守ると、そう心に誓ったばかりなのに。

「ああああああああああああああああーーーっっっ!!!!!」


海沿いの美しい断崖に、大切な光を永遠に失ったセイラの、狂ったような絶望の叫びが虚しく響き渡り、激しい波音の中へと掻き消されていった。


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