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絶望の中で

カイトさんが海へ落ちてから、私はどうやってあの崖を後にしたのか、ほとんど記憶にありませんでした。

ただ気がつけば、私は夕闇に包まれ始めたジャンク屋の町へと、ふらふらと戻ってきていました。

「カイトさん……カイトさん……っ」

いくら涙を拭っても、視界が滲んで前が見えなくなります。

胸を引き裂くような喪失感と、彼を守れなかった激しい後悔が、波のように何度も押し寄せてきて、息をすることすら苦しい。

(……あ。――手紙)

その時、私の混沌とした脳裏に、一本の細い光のような記憶が蘇りました。

前日、カイトさんが「俺の身に何かあったら、その時まで絶対に開けずに読んでほしい」と言って渡してきた、あの丁寧に蝋で封印された手紙。

それはまだ、ニコラさんの店の、私たちの部屋の机の上に置いてあります。

(ノイズ……あの時、カイトさんの言葉にはもの凄い嘘のノイズが走っていた。あれは、自分がこうなることを分かっていたから……!?)

何が何でもカイトさんの意図を知らなければならない。

私は最後の希望に縋るようにして、ニコラ工房の扉を勢いよく押し開けました。

「ニコラさん……! ニコラさんはいますか……っ!?」

叫びながら店内を見回しましたが、いつもなら機械をいじって騒がしいはずのニコラさんの姿は、どこにもありませんでした。店内の火も消えていて、静まり返っています。

「いない……? いえ、そんなことより今は、カイトさんの手紙を……っ」

今の私にとって、ニコラさんの不在など些細なことでした。

私は転げるようにして奥の部屋へと駆け込み、机の上にポツンと残されていた手紙をひったくりました。

震える指先で封蝋を破り、中に畳まれていた紙を広げます。

そこには、見慣れたカイトさんの、少し雑で、けれど愛おしい筆跡が並んでいました。

『セイラへ。

この手紙を読んでいるってことは、きっと俺の身に何かヤバいことが起こった後なんだろうな。

先に謝っておく。勝手なことをして本当にすまない。

実は俺、お前にずっと内緒で、あのクソ神父を完膚なきまでに失脚させるための極秘計画を進めていたんだ。

シズクさんやニコラとも協力して、奴の化けの皮を街の全員の前で引き剥がすための罠を仕掛けていた。だけど、相手はあの狡猾な神父だ。どうしても、かなり危ない橋を渡らなきゃいけねえ。だから、万が一の不測の事態に備えて、この手紙を残しておくことにした。

お前がこれを読んでいる以上、俺の計画は一歩間違えて、俺自身が動けない状況になっちまったんだと思う。

だからセイラ、情けない話だけど、俺の代わりにあのクソ神父の野望を止めてくれないか。お前のその強さで、奴に引導を渡してやってほしい。

最後に。

こんな一番大変な時に、お前の側にいてやれなくて本当にすまない。

だけど安心しろ。たとえ今この瞬間、俺がお前の側にいられなくてもさ。

――俺はずっと、セイラのことを見ているからな』

「カイト、さん……」

手紙を読み終えた瞬間、私の目から、先ほどまでの絶望の涙がすっと消え去っていました。

カイトさんは、自分の身を危険に晒してまで、私のためにあの神父様を止めようとしてくれていた。

そして、動けなくなった自分に代わって、未来を私に託してくれたのだ。

最後に書かれていた『ずっとお前を見ている』という、まるで今も近くで見守ってくれているかのような優しい言葉が、私の凍りついた心を強く、熱く奮い立たせます。

(カイトさん……貴方の意志は、確かに私が受け継ぎました)

手紙を強く胸に抱きしめ、私はゆっくりと立ち上がりました。

私の瞳に宿ったのは、悲しみではなく、烈火のごとき確固たる決意。

(グレゴリー神父……。必ず、私が貴方を止めます。今度こそ、あなたの甘言に惑わされることは…ない!)

あの日、大聖堂で育ての親への情から手が震えてしまった私を、カイトさんは後ろから優しく抱きしめてくれました。

だけど、今度はもう、1ミリだって躊躇うことはありません。

だって――あの男は、私の世界で一番大切な、カイトさんの仇なのだから。

私は部屋の隅に置いてあった暗殺者として使いこんだ剣を手に取り、漆黒の夜へと力強く歩み出しました。

カイトさんの想いを胸に、全ての決着をつけるために。


大聖堂の奥深く、重厚な扉に閉ざされたグレゴリー神父の執務室。

窓から差し込む月光が部屋を薄暗く照らす中、その男は狂喜に震えていた。

「ハハッ……! ハハハハハハハ!!! ついに、ついにやったか……ッ!」

グレゴリー神父は机の上に置かれた『それ』を凝視し、はしたなく大声を上げて笑い転げていた。

神父の目の前に転がっているのは、髪を血に染め、虚ろに目を見開いたカイトの「生首」だった。

首の断面からは今も生々しい鮮血が滴り、机の高級な敷物を汚している。

「あの忌々しい小僧め! 偉そうにこの私を脅しておきながら、死ぬ時はこれほどあっけないとはな! 素晴らしい、実に素晴らしいぞ!」

最大の障壁だったカイトの死に、神父は完全に理性を失って勝ち誇っていた。

大笑いする自らの声が部屋中に反響し、興奮で頭に血が上りきっているせいで――今の神父には、室内のあちこちから微かに聞こえる「カチ、カチ」という奇妙な駆動音や、目と鼻の先に漂う、姿なき何者かの「衣擦れの音」のような小さな異音には、微塵も気づく余裕がなかった。

そんな狂乱の神父を、傍らに佇む『仮面の暗殺者』が歪な仮面の奥から冷徹に見つめていた。

暗殺者は一歩前へ出ると、感情の起伏が一切見えない平坦な声で神父に問いかける。

「御前、標的の始末はこれにて完了いたしました。……ついては、他に依頼はございますか?」

「他、だと?」

「例えば……この男と共に行動していた、あのシスターの娘です。放っておけば御前の脅威になり得るかと存じますが、いかがいたしましょう」

仮面の暗殺者の言葉に、神父はピクリと眉を動かし、笑い声を収めて忌々しげに鼻を鳴らした。

「ふん、セイラか。……フハッ、お前はまだ相対していないようだが、あの娘を甘く見てはならんぞ。神父であるこの私を裏切って以降、奴は私が送り込んだ私設部隊やお前の部下たちを、全員人知れず返り討ちにしてみせているのだ。お前もかなりの手練れのようだが、本当にあの化け物を始末できるのか?」

神父の疑り深い視線に対し、仮面の暗殺者は怯むどころか、ふっと嘲笑うかのように肩をすくめてみせた。

「……暗殺者とは、正面から戦うものではありません。どれほど武力に秀でた化け物であれ、隙を突けば肉の塊に過ぎない。この大聖堂……いえ、この部屋にでもあの娘を誘い込み、背後から不意を突けば、私の技術をもってすればどうとでもなります」

「ほう、背後から不意を突く、か……」

暗殺者の冷酷な言葉を聞いたグレゴリー神父の顔に、底知れないほど邪悪で、悍ましい笑みがじわじわと浮かび上がっていった。

神父は机の上のカイトの生首を愛おしそうに撫で回すと、低く濁った声で満足げに告げる。

「素晴らしいアイデアだ。ならば、あの娘を泳がせ、この部屋へ誘い込むがいい。――そして、先に地獄へ落ちた最愛の男の首と、ここで感動の再会をさせてやるのだ。絶望に顔を歪めたその瞬間を、私の目の前で仕留めてみせよ」

「御心のままに」

仮面の暗殺者は深く一礼した。

神父の醜悪な欲望が、自らの口からすべて吐き出されていく。

すべて仕掛けられた網の中だとも知らず、神父は破滅へと続く罠の扉を、自らの手で狂喜と共に押し開けていた。


ガタゴトと激しく揺れる馬車の中、私は一人、膝の上でカイトさんの手紙を強く握りしめていました。

窓の外を流れる景色を見つめても、胸の奥に広がるのは底のない暗闇だけ。

ほんの少し前まで、私の隣で、呆れたように、けれど誰よりも優しく微笑んでくれていた最愛の人は、もうどこにもいません。

(カイトさん……カイトさん……っ)

彼のことを考えるだけで、胸が物理的に引き裂かれそうに痛みます。

早く、一刻も早く神父のいる街へ着いてほしい。

焦燥感に駆られながら、私は不意に気づいてしまいました。

カイトさんと出会う前、私は一体どうやって一人で旅をしていたのだろう、と。

あんなに温かい光を知ってしまった今となっては、一人の旅がこれほどまでに寒く、ツラく、寂しいものだなんて思いもしませんでした。

街へ到着した瞬間、私は馬車を飛び出し、大聖堂のグレゴリー神父の元へと狂ったように急ぎました。

もし私の行く手を阻む者がいれば、神父の私設部隊であれ誰であれ、全員を容赦なく薙ぎ倒して進む覚悟でした。

ですが奇妙なことに、大聖堂の敷地内には不自然なほど人影がなく、誰一人として私の邪魔をする者はいませんでした。

私はその違和感を振り払い、神父の執務室の重厚な扉を勢いよく蹴り開けました。

「――戻ったか、セイラ」

部屋の奥、机の向こうには、見慣れたグレゴリー神父の姿がありました。

かつて私を地獄へ縛り付けていた、あの欺瞞に満ちた優しい笑顔。

その聖人君子のような仮面を張り付かせた神父の座る机の上には、何やら人の頭ほどの大きさの、布に包まれた不気味な塊がポツンと置かれていました。

私は神父の笑顔を睨みつけ、一切の感情を排した声で、最初の質問を突きつけました。

「カイトさんの暗殺を依頼したのは……貴方ですか?」

私の問いかけに、神父は一瞬だけ目を見開いた後、くつくつと肩を揺らし、やがてその優しい仮面をベリベリと剥ぎ取るようにして、底知れないほど邪悪な笑みを浮かべました。

「――その通りだ。私がやらせた。あの小僧は私の計画の邪魔でしかなかったからな」

「っ……!」

神父の口から放たれた明確な肯定。

その言葉が脳に達した刹那、私の胸に激しい怒りと動揺が突き抜け、ほんの一瞬だけ、致命的な『隙』が生まれました。

『――ッ!?』

背後、濃密な影から突如として現れた『仮面の暗殺者』。

完全に不意を突かれた私の身体は、凄まじい技術と力によって背後から完璧に取り押さえられ、そのまま冷たい床へと激しく組み敷かれました。

「くっ……離し、て……っ!」

必死に抗うものの、関節を完璧にロックされ、指一本まともに動かすことができません。

身動きの取れない私を、グレゴリー神父は机から立ち上がり、勝ち誇った哀れみの目で見下ろしてきました。

私は冷たい床に顔を押し付けられながらも、残された全ての力を声に込め、もう一つの疑念をぶつけました。

「教皇様を暗殺しようとしていたのも……貴方なのですか?」

神父は一瞬驚いたように眉を上げましたが、最大の障壁を排除し、私をも捕らえたことで完全に勝利を確信したのでしょう。彼は声を大にして、醜悪に大笑いし始めました。

「クハハハハ! よくそこまで調べ上げたものだ! 褒めてやろう、その通りだよセイラ! 邪魔だったお前たちを殺した後は、あの愚かな教皇の番だ。教会は、この私がすべて乗っ取ってやるのだよ!」

神父は気持ちよさそうに自らの大罪をベラベラと喋り散らかすと、再びあの邪悪な笑みを浮かべて、机の上の『包み』へと手を伸ばしました。

「お前たちがそれを見ることはないが……私は育ての親だからな、優しいのだ。旅の連れの男と、最後に会わせてやろう」

「カイトさん、が……生きているの、ですか……!?」

神父の言葉に、私の心が激しく動揺します。

生きていてほしい、けれどあの崖での出来事は紛れもない現実だったはず。

混乱する私の目の前、床の上に、神父の手によってあの不気味な包みがドサリと置かれました。

「さあ、感動の再会だ!」

神父が下劣な笑顔で、一気に布を開く。

現れたその光景に、私は一瞬、思考を完全に停止させました。

血の気の引いたカイトさんの顔――ではありませんでした。

そこに転がっていたのは、人間の男性のようなおかしな『カツラ』を不自然に被せられた、どこからどう見ても、ただの『豚の生首』でした。あまりにもシュールで馬鹿げた物体が、床の上でゴロリと横たわっています。

それなのに、グレゴリー神父は狂ったように笑いながら、私を指差して勝ち誇っているのです。

「どうだセイラ! 死んだと思った男に最後に会えて、嬉しいだろう!? 絶望したか! 苦しいか! ハハハハハ!!」

(……え? 豚、の首……? 何を言っているの、この人は……?)

神父は完全に、その豚の首を『カイトさんの生首』だと思い込んで悦に浸っています。

常軌を逸した、あまりにも滑稽で馬鹿げた状況。

ですが、この世界でただ一人、これほど大掛かりで、これほど人を食ったような馬鹿げた状況を作り出せる人間を、私は知っていました。

信じられない思いで、私の瞳にじわじわと涙が、今度は歓喜の涙が溢れ出してきます。

そんな私の耳に、大聖堂の静寂を切り裂いて――

あの日、あの崖の上で永遠に失われたはずの、世界で一番大好きな人の、いつもと何一つ変わらない飄々とした調子の言葉が届きました。

「――ぶっ! ははははは! ひっかかったなぁ、クソ神父!!」


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