それぞれの思惑
王国の首都にそびえ立つ、デュミナス教総本山。
その最上階にある教皇執務室は、国家規模のインフラと化した教会の業務を支える膨大な書類で埋め尽くされていた。
「うう、シズク……もう無理。お仕事多すぎ、書類多すぎ。なんで私がこれ全部にハンコ押さなきゃいけないのぉ……」
豪華な執務机に突っ伏し、美しいブロンドヘアを振り乱しながら情けない声を上げているのは、若くしてデュミナス教のトップである教皇を継いだ女性、エレオノーラだった。
表向きは威厳ある最高権力者として振る舞っている彼女だが、幼少期からの付き合いであり、唯一の理解者である側近のシズクの前では、こうして完璧に素の弱音をこぼすのが日常茶飯事だった。
シズクは、呆れたような、けれどどこか愛おしそうな深い溜息をついた。
「エレオノーラ様、またそうやって公務を放り出そうとして……。貴女が急に教皇の座を継ぐことになって大変なのは分かりますが、これも『弱者救済』の教義を全うするためです。ほら、顔を上げてペンを握ってください」
「シズクは冷たいなぁ。ちょっとくらい優しくしてくれたっていいじゃない。あと二人きりの時は昔みたいにエリーって呼んでって言ってるでしょ。あーあ、どこかに私の代わりにこのお仕事を全部やってくれる、かっこよくて素敵な白馬の王子様でも現れてくれないかしら……」
「そんな都合の良い人間、この世にいるわけが――」
シズクが言いかけた、その瞬間だった。
「――っ!?」
突如として、エリーの身体がびくりと跳ね上がった。
その美しい青い瞳から完全に光が消え失せ、まるでどこか遠くの深淵を覗き込んでいるかのように虚空を見つめる。
「エ、エリー……?」
シズクが声をかける間もなく、エリーの全身から凄まじい密度の神聖な魔力が吹き荒れた。エリーの家系に代々伝わる固有魔法――未来の出来事を神が告げる『オラクル』の発動だった。
わずか数十秒の、けれど永遠のようにも思える静寂。
やがて、エリーの瞳に光が戻った瞬間、彼女は見たこともないほど真っ青な顔になり、ガタガタと激しく身体を震わせ始めた。
「シ、シズク……ッ!!」
エリーは椅子から転げ落ちるようにしてシズクに駆け寄ると、その細い身体に涙目で必死にしがみついてきた。
その手は、恐怖で哀れなほどに震えている。
「どうしたのですか、エリー!? 一体、神は何を告げたのですか!?」
「あ、暗殺、されるの……っ。私、近いうちに、殺されちゃう……! しかも、外の敵じゃない……この『教会内部の人間』によって、教皇である私が暗殺されるって、そう予言されたの……!」
あまりの恐怖に怯え、子供のように震えてしがみついてくるエリーの背中を、シズクは優しく叩きながら、努めて冷静なトーンで語りかけた。
「……落ち着いてください、エリー。大丈夫です、貴女のオラクルの的中率はやたらと低い。20%以下も良いところでしょう? 今回の予言も、どうせ神の気まぐれか、何かの見間違いです。ですから、そんなに心配しなくていいのですよ」
シズクのその温かい宥めの言葉に、エリーは「そ、そうよね……? 私の予言、滅多に当たらないもんね……」と、少しだけ安心したように息を吐き、シズクの胸に顔を埋めた。
だが。
(……そんなわけがない)
エリーを抱きしめるシズクの赤い瞳は、エリーからは見えない位置で、冷徹なまでの焦燥と恐怖に染まっていた。
シズクは、エリーの父親が亡くなる間際に、オラクルの『本当の仕様』を極秘裏に知らされていた。
この能力は、神の気まぐれなどではない。実態は「全力を尽くせば至る最良の未来」か、あるいは「全力で回避しなければ必ず訪れる最悪の未来」のどちらかを極端に指し示すという、極めて重大かつ決定的な予言の力なのだ。
エリーはまだ若く、この残酷な仕様を知らされていない。そして、彼女自身がまだ教皇としての自覚が薄く、良い予言に対して全力で動いておらず、悪い予言は周囲が頑張って回避していたからこそ、結果としてこれまでの的中率が下がっていたに過ぎないのだ。
つまり、今回の予言は――「このまま何もせず放っておけば、エリーは確実に教会内部の何者かによって暗殺される」という、確定された最悪の未来に他ならなかった。
(エリー……貴女には絶対に言えません。そんな残酷な真実を知れば、貴女の心は恐怖で壊れてしまう)
シズクは、腕の中で少し落ち着きを取り戻し始めた愛おしい幼馴染の温もりを感じながら、奥歯を強く噛み締めた。
(私が、エリーを守る。神の予言が『最悪の未来』を示したというのなら、私が死力を尽くして、その未来を全力で叩き潰して回避してみせる……!)
教皇暗殺を目論む裏切り者が、このデュミナス教の内部にいる。
国からの補助金や寄付金が凄まじい額で動き、財政状態が完全にブラックボックス化しているこの巨大組織だ。
弱者救済の裏で、私腹を肥やす悪人が紛れ込んでいても何ら不思議ではない。
(一刻の猶予もありません。騎士団に頼るわけにもいかない……まずは私自身の手で、教会内部の不穏な動きを極秘裏に調査しなければ)
教皇の側近としてそこそこの立場にあるシズクは、密偵として動くにはうってつけだった。
シズクはエリーを優しく机へと戻しながら、胸の内で、見えざる教会の闇に対する冷たい決意を燃え上がらせるのだった。
大聖堂の地下深く、冷たい石壁に囲まれた神父の私室。
カイトとセイラが立ち去った後、グレゴリー神父は怒りと屈辱に顔を歪めながら、激しく机を叩きつけていた。
「カイトとかいったか……あの小僧、一体何者だ……っ!」
あの場では何とか外面を保ち、痛み分けという形で取り繕ったものの、グレゴリーの胸中に渦巻くのは、かつて味わったことのないほどの激しい焦燥感だった。
あの時、確かに自分は、セイラが自害する光景をこの目で見たはずなのだ。それなのに、カイトが指を鳴らした直後、死んだはずのセイラが何事もなかったかのように立ち上がり、自分の部下を一瞬で制圧した。
(私の『ドグマ』の洗脳を破っただけでなく、私に『偽りの光景』を見せて踊らせていたというのか……? 幻覚、あるいは認識操作の固有魔法……。不敵に笑うあの顔、底が知れん。奴は間違いなく、私の計画の最大障壁――最重要警戒対象だ!)
グレゴリーにとって、カイトはただの「セイラの旅の連れ」などではなく、今や最優先で排除すべき宿敵へと跳ね上がっていた。
(奴をこれ以上放っておけば、水面下で進めている『教皇エレオノーラの暗殺計画』すらも頓挫しかねないぞ……!)
デュミナス教の莫大な財政の闇に紛れ、貴族たちから裏の報酬を受け取って私腹を肥やしてきたグレゴリー。
彼の 野望の終着点こそが、現在の若き教皇エレオノーラを暗殺し、教会の権力を完全に掌握することだった。
しかし、その計画は今、かつてないほどの危機に瀕している。
(ただでさえ、私の手駒の中で『一番の手練れ』であり、圧倒的な戦闘力を誇っていたセイラに離反されたのだ。あの娘という最大の矛を失っただけで、計画の大幅な修正を余儀なくされているというのに……!)
グレゴリーが言葉巧みに洗脳し、裏で囲っていた孤児の私設暗殺部隊。
その総数はせいぜい20人程度しかいない。 しかも、その20人を束ねて全員でかかったとしても、戦闘の天才として育て上げたセイラ一人にすら、到底勝ち目はないのが現実だった。
カイトの側に、あの化け物じみた戦闘力のセイラが完全に寄り添っている以上、手持ちの駒だけで二人の首を上げるなど絶対に不可能だ。
「クソッ……こうなれば、身内の駒だけにこだわる必要はないな……」
グレゴリーは深く椅子に背を預け、冷酷な光を瞳に宿しながら、懐から一枚の隠し印章を取り出した。
「金をいくら積んででも……外部の、腕の立つ本物の暗殺者を雇うしかない」
莫大な不正蓄財なら、腐るほどある。
神父の仮面の裏で、グレゴリーはカイトとセイラ、そして教皇の命をもまとめて刈り取るための、次なる血塗られた猟犬を手配するべく、闇のルートへと触手を伸ばし始めるのだった。
ガタゴトと規則正しく揺れる馬車の窓から、カイトは遠ざかっていく大聖堂を眺めていた。
カイトとセイラが今向かっているのは、事前の噂話で耳にしていた、とある町だった。
そこには、世界の常識である魔法の仕組みを解明しようと、日夜奇妙な研究に没頭している変わった技師がジャンク屋を営んでいるらしい。
(あのクソ神父の勢力圏から、一刻も早くセイラを遠ざけたかったからな……。ちょうどいい目的地だ)
カイトが視線を馬車の内側へと戻すと、対面に座るセイラは、やはり膝の上で両手をきゅっと握りしめたまま俯いていた。
(……無理もないか。ずっと実の親だと信じ切っていた神父にあんな風に裏切られて、道具扱いされていたのを知ったばかりなんだ。精神的なショックは計り知れないよな。次の新しい町に着いたら、美味いもんでも食わせて、少しでも気分転換になればいいんだけど……)
カイトは彼女の深い傷心を察し、いつもの口調を封印して、心からの心配をその鮮緑の瞳に宿していた。
だが。 当のセイラが俯いている理由は、カイトの予想とはほんの少し――いや、劇的に違っていた。
(どうしよう……カイトさんの顔が、恥ずかしくて直視できない……っ!)
セイラの胸の奥は、これまで感じたことのないほどにドクドクと激しい鼓動を刻んでいた。
神父の裏切りによる悲しみや、自分の暗殺者としての正体への自己嫌悪はもちろんある。
あるのだが、今の彼女の脳内をそれ以上に支配しているのは、あの暗黒の大聖堂で自分を後ろから優しく抱きしめてくれた、カイトの温もりと彼の言葉だった。
『今まで育ててくれた親を、何の躊躇いもなくバッサリ斬れるような冷酷な子じゃなくて、本当に良かった』
あの言葉が、どれほど自分の救いになったか。
自分の薄汚い部分を知ってもなお、カイトは自分を拒絶せず、むしろ愛おしそうに強く抱きしめて、暗闇から連れ出してくれたのだ。
(今までは普通に目を見てお話しできていたのに。どうして急に、こんなに胸が苦しくて、ドキドキして……まともにカイトさんを見られなくなっちゃったんだろう……?)
自分の正体がバレて嫌われる恐怖から、今度は「一人の男として意識しすぎてしまう」という新たな、そして甘酸っぱいパニックに陥っているセイラ。
彼女は赤く染まった頬を隠すように、さらに深く俯くことしかできなかった。
お互いに相手を想い、だけど決定的にすれ違っている二人の旅は、賑やかなラブコメの足音と共に、ジャンク屋の町へと続いていく。




