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鳥籠の中の教皇

『ヴェリタス商会』の看板を掲げ、急速に拡大を続けるカイトの事務所。

そのデスクで、カイトは聖都のシズクから届いた一通の緊急書簡を読み終え、静かにそれを机の上に置いた。

手紙の行間からは、普段の冷静さを失った彼女の焦燥と悲痛な叫びが、痛いほどに伝わってきた。

「カイト、なんて書いてあったの? 聖都で何かあった?」

隣で魔導回路をいじっていたニコラが顔を上げ、ソファで剣の手入れをしていたセイラも、カイトのただならぬ雰囲気に動きを止める。

カイトは二人の視線を正面から受け止めると、努めて冷静な声で、手紙に書かれた事実を告げた。

「……エリーの母親が倒れた。そして、それを狙い澄ましたかのように、ドラウスっていう大物貴族が実家の天文学的な借金を盾に、エリーに結婚を迫って邸宅に軟禁したらしい。正式な婚約まで、猶予はあと一週間だ」

「なっ……!?」

「エリーが、そんな理不尽な目に……っ!」

ニコラとセイラが同時に立ち上がり、動揺に顔を青ざめさせる。

特にセイラは、友であり、大切な恋のライバルでもあるエリーの危機に、無意識に剣の柄を強く握りしめた。

大人のドス黒い政治の罠が、あの真っ直ぐな少女をねじ伏せようとしている。

しかし、二人の張り詰めた空気を融かしたのは、フッと鼻で笑ったカイトの、いつもの不敵な笑みだった。

「一週間、ねぇ。あのド汚い大人どもめ、自分たちが絶対有利なゲームを仕掛けたつもりで、さぞ良い気になってる頃だろうな」

カイトの瞳には、かつてバルバラを精神地獄へ叩き落とした時と同じ、冷徹で圧倒的な光が宿っていた。

その絶対的な自信に満ちた表情を見て、セイラとニコラは不思議とスーッと平静を取り戻し、確固たる信頼を胸にカイトの指示を待った。

「タイムリミットは一週間。相手のフィールドでまともに戦う必要はねえ、こっちのルールで根底からひっくり返すぞ。……二人とも、さっそく動くぞ」

カイトは立ち上がり、テキパキと作戦を指示し始める。

「まずセイラ。お前の隠密技術を使って、ドラウスの屋敷に忍び込んでくれ。軟禁されているエリーと接触し、現地の状況と、何よりあいつの本心を聞き出してきてほしい」

「お任せください、カイトさん。必ずエリーの元へ辿り着いてみせますわ」

セイラは力強く頷く。

「次にニコラ。お前は商会の全ルートを使って、今動かせるだけの現金を限界まで集めておいてくれ。相手が金を盾にしてる以上、こっちも物理的な数字の暴力を叩きつける準備が必要だ」

「了解。大手のギルドも巻き込んで、目の飛び出るような額を搔き集めてあげるよ!」

ニコラが不敵に八重歯を覗かせる。

「じゃあカイトは何をするの?」

ニコラの問いに、カイトは外套を羽織りながら、冷たい笑みを浮かべてドアへ向かった。

「俺はこれからシズクと合流して、すべての発端になったエリーの母親の病室へ行ってくる。……詐欺まがいの契約書でハメられたんだろ? だったら、その契約書を破り捨てるための『真実』を、直接本人から聞いてこなきゃな」

こうして、タイムリミット一週間のカウントダウンと共に、エリーを救い出すための『ヴェリタス商会』の総力戦が、静かに幕を開けた。


ドラウス侯爵邸の最上階。贅沢な調度品で飾られた、「鳥籠」のような客室で、エリーはベッドに腰掛け、一人深く俯いていた。

(一週間……。あと数日もすれば、私はあの男の家の人間になり、二度とこの部屋から、自由に出ることは叶わなくなりますのね)

カイトと過ごした日々が、遠い幻のように思い出される。

あんなに楽しかった思い出が、今は胸を締め付ける痛みに変わっていた。


――ガタ、リ。

突然、背後の窓から微かな音が響いた。

ハッとしてエリーが顔を上げると、月明かりを背に、夜風に長い髪をなびかせる一人の少女が、音もなく室内に滑り込んできたところだった。

暗闇に浮かび上がる、見紛うはずもない凛とした佇まい。

「……久しぶりですね、エリー」

「っ……、セイラ……!?」

微笑むセイラの姿を見た瞬間、エリーの視界が一気に潤んだ。

張り詰めていた緊張の糸が解け、今すぐその胸に飛び込んで泣きじゃくりたい衝動に駆られる。

しかし、エリーは奥歯を噛み締め、涙を必死に堪えていつもの教皇としての微笑を張り付けた。

「お、お久しぶりですわね、セイラ。相変わらず、お見事な影のような侵入の仕方ですこと」

「ふふ、お元気そうで何よりです。……事情は多少、シズクさんから聞きました。ですが、エリーから詳しいお話を聞いておきたいと思って、直接訪ねてきました」

セイラは一歩、エリーへと歩み寄る。

その真摯な瞳に見つめられ、エリーの胸の奥で激しい葛藤が渦巻いた。

(ああ、セイラ。もし、ここで私が『助けて』と縋れば……あなたはきっと、この頑丈な扉も、屋敷の警備兵もすべてを叩き潰して、私をここから連れ出して守ってくれるのでしょうね)

それはどれほど甘美な救いだろう。

けれど、エリーの「覚悟」がそれを拒絶した。

(でも、そうしたらお母様はどうなるの? 公爵家は取り潰され、お母様はあの悪党どもに何をされるか分かりませんわ。それに……あの借金は、一介の旅人が逆立ちしても返せるような額ではない。ここで私が逃げ出せば、ドラウス家の怒りはカイトさんたちにまで向かい、多大な迷惑をかけてしまうかもしれない……。そんなこと、絶対にさせられませんわ!)

「お気遣いは感謝しますわ、セイラ。ですが、詳しい話など何もありませんの。私は、我が家のためにドラウス家との婚姻を受け入れました。……それだけのことですわ」

エリーは本心を幾重もの嘘で隠し、冷徹に言い放った。

だが、その言葉が響いた瞬間――セイラの耳に、自身の固有魔法特有の「ノイズ」が走る。

エリーの声の震え、不自然な魔力の揺らぎ。

そのすべてが、彼女の心が血を流して泣いていることを告げていた。

セイラはそれについて何も言わず、ただ静かにエリーを見つめ、最後に一つだけ、問いかけた。

「エリー。……助けが必要ですか?」

「……いいえ」

エリーはカイトのペンダントをドレスの上から強く握りしめ、真っ直ぐにセイラを見返した。

「私に、助けは必要ありませんわ」

「……そうですか」

セイラは短く答えると、それ以上は追及せず、踵を返して窓際へと歩いていく。

そして、窓を指先で軽く弾き、月夜の闇へ身を躍らせる直前――振り返ることなく、静かに、けれど絶対的な確信を込めて告げた。

「エリー。……私に、嘘は通用しませんよ」

「あ――」

引き留める間もなく、セイラの姿は夜の帳へと消えていった。


残されたエリーは、ぽつりと開いた口をゆっくりと閉じ、ただ一人、誰もいない豪華な部屋で、耐えきれず膝を折って激しく泣き崩れるのだった。


聖都中央病院の静かな病室。

微かな医療魔導具の音が響く中、カイトはシズクと共に、ベッドの上のメアリ公爵夫人の前に立っていた。

シズクを案内役に、教皇の知人を騙って潜入したカイトは、メアリの口からドラウス家が仕掛けた「詐欺まがいの契約」の全容をすべて聞き終えていた。

「なるほどな。最初からエリーの身柄と、新機関の設立を潰すことが目的のハメ技か。やり口が汚ねえな、どこの世界の悪徳貴族も」

カイトはフッと息を吐き、呆れたように頭を振る。

「カイト殿……。事情は分かりましたが、一体あなたに何ができるというのです? 相手は法的な契約書を盾にしている。いくらあなたがエリーの友人だとしても、あの天文学的な額の債務はどうにも――」

悲痛な面持ちで語るメアリに対し、カイトはポケットに手を突っ込んだまま、実にあっさりと、信じられない言葉を口にした。

「あ、それなら心配いりません。その借金、俺たちの『ヴェリタス商会』が全部肩代わりして、その場で全額一括返済してやれますよ」

「なっ……!?」

「カ、カイトさん!?」

メアリだけでなく、隣にいたシズクまでもが驚愕に目を見開いた。

公爵家でも払えない巨額の債務だ。

いくら新進気鋭の商会とはいえ、おいそれと支払える金額ではない。

メアリは困惑し、警戒の眼差しをカイトへ向けた。

「……何を仰るのです。あなた方がどれほどの商会かは存じませんが、そのような大金を簡単に代わりに払うなど、あまりにも不自然。まさか、あなたもドラウスと同じように、我が家や教皇となったエリーを別の形で縛るつもりでは――」

当然の疑問だった。

大金が動く裏には、必ずそれ以上の見返りや欲が渦巻く。

それがこの世界の常識だからだ。

しかし、カイトはそんなメアリの疑念を、優しく、けれど芯のある苦笑いで受け流した。

「そりゃ、普通なら何か裏があるって邪推しますよね。でも、あいにく俺はまともな商人じゃないんで。……夫人、俺にとって金を稼ぐことなんてのは、ただの手段でしかないんですよ」

「手段……? では、あなたの本当の目的は何なのです?」

問われたカイトは、窓の外の聖都の夜景を見つめ、どこか遠くの、けれど確かに大切な仲間たちの顔を思い浮かべるように微笑んだ。

「――『仲間の笑顔を守ること』。それだけです」

「……え?」

「ニコラが全力で作った魔導具を、セイラが命懸けで守り、エリーがその先にあるみんなの理想のために戦う。俺はその最高の仲間たちが、理不尽に泣かされることなく、ただ笑って過ごせる場所を作りたいだけなんです。そのためなら、世界を敵に回そうが、貯め込んだ金を一瞬で使い果たそうが、痛くも痒くもありません」

カイトの言葉には、一切のハッタリも欺瞞もなかった。

剥き出しの、けれど底抜けに温かい本音。

その圧倒的な器の大きさと純粋さに、メアリは息を呑み、シズクは救われたような想いで目元を潤ませた。

だが、カイトはすぐにいつもの悪党のようなニヤリとした不敵な笑みに戻り、親指でトントンと自分の頭を叩いてみせた。

「――ま、とは言えね。あんな悪党どもに、こっちが必死こいて稼いだ血銭をそのままくれてやるのは癪に障るんで。今回、金を使うのは『最後の手段』。ただの保険みたいなもんです」

「保険……? ということは、何か別の策が?」

「ええ。相手が法的な書類でハメてきたなら、こっちはそれを根底からひっくり返す『特大の爆弾』を仕掛けてやりますよ。一週間後、婚約の儀の場で……あのクソ貴族どもの顔が絶望で真っ青に染まるのを、今から楽しみにしててください」

一時期書類仕事で真っ白な灰になっていたが、完全に復活し、最凶の嘘つき魔道士としての本領を発揮し始めたカイト。

タイムリミットまで、あと数日。

エリーの涙を止めるための、ヴェリタス商会の逆襲劇がいよいよカウントダウンを迎える。


ドラウス邸への潜入を終えたセイラが、夜風と共に事務所へと帰還した。

待ち構えていたカイトとニコラの前で、セイラは月明かりの下、軟禁部屋で見たエリーの様子と、交わした言葉のすべてを静かに報告した。

「……『助けは必要ない』、ですか。エリーのやつ、本当にそう言ったんだね」

ニコラが複雑そうな表情で呟く。

カイトはデスクの椅子に深く腰掛け、天井を見上げながら、フッと呆れたような、それでいてどこか愛おしそうな苦笑いを漏らした。

「なるほどな。どうやらあいつは、俺たちの力を少しばかり甘く見てるらしい」

「甘く見てる……? エリーが、ですか?」

セイラが不思議そうに首を傾げる。

カイトは視線を二人に戻すと、その明晰な頭脳でエリーの胸中を完全に紐解いてみせた。

「考えてることはだいたい分かるさ。あの天文学的な借金額は、普通の人間どころか一国家のギルドが一丸となっても、たった一週間じゃ逆立ちしたって用意できる額じゃない。だから、もし俺たちが自分を助けようとするなら……『夜闇に紛れて物理的に連れ出し、どこか遠くへ匿って守る』しか方法がない、と思い込んでるんだよ」

カイトはトントン、とデスクの木目を指先で叩く。

「そして、それをやれば教会の権威は失墜し、実家のお袋さんは悪党どもの餌食になり、逃げ回る俺たちにも多大な迷惑がかかる。……あいつはな、自分一人が犠牲になればすべてが丸く収まるって、あの旅で培った優しさと責任感のせいで、一人で勝手に泥を被る覚悟を決めちまったんだ」

カイトの言葉に、セイラはハッと息を呑んだ。

エリーが必死に張り付けていた「冷徹な嘘」の裏側にあった、痛々しいほどの思いやり。

それをカイトは一瞬で見抜いていた。

「まぁ、確かに普通なら一週間でその額の現金を揃えるなんて不可能だろうさ。……」

カイトはそこで言葉を区切り、ニヤリと、最凶の嘘つき魔道士にふさわしい不敵な笑みを浮かべた。

「そう――普通なら、な」

その言葉を合図に、作業机からニコラが歩み出てくる。

その手には、重量感抜群の袋が握られていた。もちろんその中には夥しい数の金貨。

「はい、これカイト。ヴェリタス商会がこれまでに築いた全流通ルートのギルド長、さらには周辺の全大物商人たちを僕の魔導具で脅し……じゃなくて、説得して搔き集めてきた『答え』だよ。ドラウス家のふざけた借金なんて、お釣りが来てお屋敷ごと買い取れるレベルの金額が、詰まってるんだから」

「ありがとよ、ニコラ。最高の仕事だ」

カイトはニコラから、その袋を受け取ると、それを指先でパシャリと弾いた。

「さあ、タイムリミットまであと僅かだ。あの頑固で、優しくて、格好つけな教皇様の『予想』を、真正面から超えてやろうじゃねえか。……ヴェリタス商会、出陣だ!」

カイトの宣言に、セイラは歓喜に瞳を輝かせ、ニコラは頼もしそうに八重歯を覗かせる。

エリーが絶望の中で紡いだ「優しい嘘」を、カイトたちは「圧倒的な現実の暴力」で木っ端微塵に打ち砕くべく、いよいよ聖都へと動き出すのだった。


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