人の悪意が襲い来て
一方その頃、産声をあげたカイトたちの商会――『ヴェリタス商会』は、周囲の予想を遥かに超える、まさに狂暴とも言える勢いで、立ちふさがる障害を次々と薙ぎ倒していた。
「おい! こんな理不尽な契約書が結べるか! 開発した魔導具の利権をすべてそっちが握るなど、これまでの商業ギルドの歴史にない悪質な――」
「ギルドの歴史? 知るかよ。これ俺独自の『特許』っていう最新の絶対防衛法に基づいた契約書だから。嫌なら他所に行けば? ニコラが作ったこの魔導具、あんたのライバル商会なら喜んで契約を結んでくれると思うけど?」
「ぐ、う、うぬぬぬ……ッ!!」
新しい技術を搾取しようと群がってきた悪徳商人やギルドの重鎮たちは、カイトの冷徹な正論と、ハッタリ交じりの弁舌の前に、手も足も出ずに完膚なきまでに論破されていた。
さらに、彼らが裏で技術を盗もうと、ニコラの開発した魔導具を分解・解析しようとしても、それは全くの無駄に終わった。
「ば、馬鹿な……!? 魔力のバイパスが複雑怪奇すぎて、構造がさっぱり理解できん! 一体どういう理論で作られているんだ、これは……っ!?」
ニコラの固有魔法『スキャン』と、カイトがもたらす科学理論の融合によって生み出された魔導具は、この世界の技術者たちの理解を数世紀単位で飛び越えた、まさにブラックボックス。
真似しようとした競合他社は、構造の難解さに脳のキャパシティを破裂させ、勝手に自滅していくのだった。
そして――。
利権を奪うことも、技術を盗むこともできないと悟り、逆上して実力行使に出た愚か者たちには、最悪の結末が待っていた。
「おい、そこの生意気な商売人どもぉ! その命と魔導具、まとめて置いていって――」
「――カイトさん、下がっていてください」
「あ、うん。お疲れ様、セイラ」
夜の事務所を襲撃した十数人の武装集団を前に、セイラが静かに一歩前へ出る。
過酷な暗殺者としての経験。
そして長い旅を経てさらに洗練された、カイトを守るための圧倒的な武力。
「不殺」は守りつつも、大切な拠点を脅かす悪党への慈悲はない。
闇夜に響いたのは、鋭い風切り音と、肉が潰れ骨が軋む鈍い音、そして「ひ、ぎゃあああ!?」という情けない悲鳴だけだった。
翌朝、事務所の前に転がっていた襲撃犯たちは、一人残らず五体満足とは程遠い状態で、文字通り「病院送り」にされていた。これには町の衛兵たちも「ヴェリタス商会のところだけは絶対に敵に回すな」とガタガタと震え上がる始末だった。
論破され、技術の壁に絶望し、最後は物理的に叩き潰される。
こうして、敵という敵を文字通り灰燼に帰しながら、カイトたちの商会は急速に「莫大な財力」と「逆らえない影響力」を蓄えていく。
聖都の頂点で孤独な戦いを始めようとしているエリーを、いつでも底の底から支えられるだけの、最強の基盤が着実に完成しつつあった。
国王陛下への謁見から、怒涛の三ヶ月が瞬く間に過ぎ去っていった。
その間、エリーはかつてないほどの激務をこなし、ついに新機関設立のための「完成版・提案書」をその手で書き上げた。
執務机の上に厳かに置かれた、ずっしりと重みのある書類の束。
そこには、中立な人員の確保、教会の財政を可視化するための厳格な監査システム、そして国と教会が連携するための具体的な予算試算に至るまで、カイトから学んだ知識とエリーの意志のすべてが完璧な文字で詰め込まれていた。
「……ついに、やりましたわ」
エリーはペンを置き、感慨深げに書類を見つめた。
この新機関が正式に立ち上がれば、バルバラのように権力を悪用して私腹を肥やす腐敗層への、強力な牽制になる。
もう二度と、教会の名の下に民が涙を流すような悲劇は起こさせない。
美しき理想の守り方が、今、ようやく現実の形になろうとしていた。
「よくぞここまで仕上げましたね、エリー。これなら、あの頭の固い国王陛下も首を縦に振らざるを得ませんね」
隣で同じように徹夜を重ねていたシズクが、心からの敬意を込めて微笑む。
「さあ、明日にでも城へ――」
シズクがそう言いかけた、まさにその時だった。
――バンッ!!
執務室の扉が、凄まじい勢いで乱暴に開け放たれた。
息を激しく切らせた若い神官が、青ざめた顔で室内に飛び込んでくる。
「教、教皇様……っ! 大変にございますっ!!」
「な、なんですの、不作法ですわよ? 一体何が――」
「エレオノーラ様の実母、メアリ公爵夫人が……先ほど邸宅で突然倒れられ、聖都の中央病院へと緊急搬送されました……っ! 」
「――っ!?」
その瞬間、エリーの思考が真っ白に染まった。
脳裏をよぎったのは、三ヶ月前、久しぶりに帰郷した実家で見た母の姿。
妙に悪かった顔色。泳いでいた視線。震えていた細い手。
あの時の強烈な違和感が、最悪の事実となってエリーの胸に突き刺さる。
「お母様、が……?」
「エリー、しっかりなさい!」
シズクの鋭い声で、エリーはハッと我に返った。
「シズク、私……っ!」
「書類は私が預かります! 会合もすべて私が変更の手配をいたします! ですからエリー、あなたは今すぐお母様の元へ行きなさい!!」
「ありがとう、シズク……っ!」
エリーは純白の教皇服の裾を大きく翻し、執務室を飛び出した。
完成したばかりの提案書を振り返る余裕など、一分一秒すらなかった。
心臓を激しく打ち鳴らしながら、エリーはただ祈るように、母が待つ中央病院へとひた走るのだった。
聖都中央病院の厳かな個室。
白雪のようなベッドに横たわる母メアリの顔色は痛々しいほどに白く、様々な魔導医療の器具が静かな音を立てていた。
「生命に別状はありません。ですが……」
エリーに問われた初老の医師は、痛ましげに眉をひそめて告げた。
「長期間、何か過度なストレスがかかり続けたことによる、極度の心労が原因と思われます。身体のあちこちの魔力循環も滞っており、とにかくしばらくは入院して、絶対安静にしてもらうほかありませんな」
「お母様が、過度なストレス……?」
エリーはベッドの傍らに立ち、母の細い手を握りしめた。
実家を一人で完璧に取り仕切っていた、あの気高く強い母が、それほどまでに追い詰められていたなんて。
三ヶ月前、自分の異変に気づいていながら、公務を理由に深く問い詰めなかった己の未熟さに、激しい後悔が押し寄せる。
その時だった。静寂に包まれていた病室の扉が、遠慮のない音を立てて開け放たれた。
「おやおや、これはこれは。教皇様直々のお見舞いとは、実に涙ぐましい親子の情愛ですなァ」
入ってきたのは、仕立ての良い、けれど成金じみた派手な衣装を纏った大物貴族――ギラム=ドラウス。
バルバラの顧客名簿にも名を連ねていた、この聖都の腐敗層の一角を担う男だった。
その顔には、隠そうともしない下卑た笑みが浮かんでいる。
「……何の用ですの。ここは病室ですわよ、不躾な真似は慎みなさい」
エリーが教皇としての冷徹な眼差しを向けるが、ギラムはどこ吹く風で、ヒゲをなでながら歩み寄ってきた。
「いや何、教皇様もここにいらっしゃるなら話が早い。メアリ夫人が倒れられたと聞きましてね。こんな時に大変心苦しいのですが……実家の『借金』を、きっちり返していただこうと思いましてねぇ?」
「借金……? 一体何を言って――」
ギラムがニヤニヤと差し出してきた数枚の羊皮紙。
そこに書かれた文字と、最後に記された『金額』がエリーの目に飛び込んできた瞬間、彼女の身体は硬直した。
「な、なんですの……この、目の飛び出るような額は……っ!?」
それは、公爵家といえども逆立ちしても払えるはずのないほどの莫大な金額だった。
「お、お母様が、こんな天文学的な借金をするはずがありませんわ!」
「おや、そこのサインをよくご覧なさい。間違いなくお父上が亡くなられた後、領地経営の補填として夫人が一筆書かれたものだ。法的な効力も完璧。……さあ、どうされます? 今すぐ全額耳を揃えて払っていただけるなら、我らもこれ以上は言いませんが?」
「そんな……今すぐなんて、払えるわけ……」
言葉を失い、青ざめるエリー。
教皇という立場にあっても、実家の、それも法的に成立している債務に、教会の公金を流用することなど絶対に許されない。
エリーの絶望を極上の娯楽のように見つめながら、ギラムは待ってましたとばかりに、さらに顔を近づけて声を潜めた。
「ふふふ、やはり払えませんか。ならば……以前、私が夫人にさせて頂いた『素晴らしい提案』を、本格的に考えていただかないといけませんなぁ」
「提案……? 提案とは、何ですの!?」
エリーが声を荒らげる。
ギラムは下卑た笑みを最高潮に深め、歪んだ口元を吊り上げて答えた。
「――教皇様と、我がドラウス家の息子の『結婚』ですよ」
「なっ……!?」
「聖なる教皇様と我が息子が婚姻を結ばれれば、我らはめでたく身内となる。身内同士になれば、これほどの借金なぞ、なかったことにしても構いません。……王家にも話は通しやすい。どうです? 悪い話ではないでしょう、エレオノーラ様?」
その醜悪な取引の全容を理解した瞬間、エリーの脳裏に激しい怒りと嫌悪感が爆発した。
母をここまで追い詰めたストレスの正体は、この男たちだったのだ。
新機関の設立を邪魔したい大臣や腐敗貴族たちが、裏で手を組み、実家の借金をダシにして教皇を自分たちの「身内」という名の人形として永久に縛り付けようとしている。
あまりの卑劣さにエリーが拳を握りしめ、震える唇を開こうとした――その時。
「……そのお話は、何度も、お断りしたはずですわ」
低く、けれど毅然とした声が病室に響いた。
「お母様……っ!?」
エリーが振り返ると、いつの間にか目を覚ましていた母メアリが、上体を起こし、医師の制止を振り切って貴族を真っ直ぐに睨みつけていた。
その瞳には、病床にありながらも、娘を決して汚させないという、一人の母親としての気高い誇りが満ちあふれていた。
「チッ……目覚められましたか、メアリ夫人」
ギラムは忌々しげに舌打ちをすると、ベッドの上のメアリをねめつけた。
だが、すぐにいつもの下卑た笑みを取り戻し、外套の襟を正す。
「まぁ、今日のところはこれくらいにして帰りましょう。ですが教皇様、こちらもボランティアではない。もういくらも待てませんぞ。利息も日ごとに膨れ上がっている……。一週間後、良いお返事を期待しておりますよ。ククク……」
勝ち誇ったような足取りで、ギラムが病室から去っていく。
ピシャリと重い扉が閉まると、室内には器具の機械音だけが虚しく響き、鉛のような重い空気が二人を包み込んだ。
「お母様……」
エリーはベッドに駆け寄り、メアリの身体を支えた。
「どうして……どうしてあんな天文学的な借金が我が家にあるのですか? 堅実だったお父様とお母様が、あんな男たちからお金を借りるなんて、どうしても信じられませんわ!」
エリーの問いに、メアリはきつく目を閉じ、悔しさに唇を小刻みに震わせた。
「……思い出すだけでも、忌々しい。あのような、詐欺まがいの卑劣な罠に引っかかってしまった自分が、本当に許せないのです……」
メアリの口から語られたのは、あまりにも狡猾な策略だった。
父の死後、領地で起きた大不作。
その救済資金の融資を持ちかけてきたのがギラムたちだった。
提示された契約書は一見すればまともなものだったが、裏には幾重にも巧妙な「利息の複利条項」と「返済期日の強制繰り上げ」の罠が仕込まれており、気づいた時には公爵家でも到底支払えない巨額の債務へと膨れ上がっていたのだという。
「最初から、我が家を……いいえ、教皇となった『あなた』を縛り付けるための罠だったのですわ、エリー」
メアリは、自責の念に駆られるように自分の細い腕を抱きしめた。
しかし、すぐに娘を見上げると、その痛々しいほど白い顔に、弱々しくも慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
「ですが、エリー。あの借金はすべて私のミス。あなたが気にする必要は一切ありません。……聞きましたよ。今のあなたは、自分の足で立ち、教会の不正と戦う立派な教皇になられたそうですね。誇りに思います。だからこそ……この家の過ちのために、あなたが犠牲になる必要など、どこにもないのですよ」
娘を泥沼の政略結婚に巻き込みたくない。
一人の母親としての、命を賭した懇願だった。
だが。
そんな母の言葉を聞けば聞くほど、エリーの胸の奥で、ある「決意」が揺るぎないものへと固まっていった。
(あの、誰よりも気高くて強かったお母様が……こんなになるまで、一人で追い詰められていらしたなんて)
もしこのまま借金が返せなければ、実家は取り潰され、母の身に何が起こるか分からない。
カイトたちとの旅で、エリーは「仕組み」の重要さを学んだ。
そして同時に、「大切な仲間を守るために戦う覚悟」も教わってきたのだ。
今、その守るべき対象は、目の前で病に伏せる母親だった。
自分にできることがあるならば、どんな泥を被ってでもやるべきだ。
「お母様」
エリーはメアリーの震える手を、両手でしっかりと包み込んだ。
彼女の瞳には、涙の一滴すら浮かんでいない。
あるのは、すべてを投げ打つ覚悟の光だけだった。
「私は……さっきのドラウス家の提案を、受けようと思いますわ」
「エリー……!? 何を言って――」
「教皇という立場を捨ててでも、私はお母様を……我が家をお守りいたします。それが、今の私にできる精一杯ですわ」
驚愕に目を見開く母の前で、エリーは哀しくも、どこまでも気高く微笑むのだった。
病室を飛び出したエリーは、馬車を飛ばしてその足でドラウス侯爵邸へと向かった。
これ以上の猶予はない。
母の命と実家の存続を守るため、エリーは自らその身を檻へと捧げる道を選んだのだ。
「ほう、さすがは教皇様。決断が早くて素晴らしい」
応接室で出迎えたギラム=ドラウスは、ふんぞり返りながら醜悪な笑みを深くした。
「正式な婚約の手続きは一週間後、聖都の大神殿にて執り行います。それまでの間……エレオノーラ様には、我が邸宅の客室に『滞在』していただく。よろしいな?」
「……滞在、ですって?」
エリーの眉が微かに跳ね上がる。
それは、実質的な「軟禁」を意味していた。
国王へ提出するはずの新機関の提案書は、今も執務室にある。
婚約までの猶予を一週間と区切り、その間エリーを邸宅に閉じ込める――それが、新機関設立を阻止せんとする大臣や腐敗貴族たちの、明らかな妨害工作であることは明白だった。
しかし、借金という絶対的な弱みを握られている以上、拒絶の選択肢はない。
「……分かりましたわ。その条件、お受けいたします」
エリーは屈辱を噛み締めながら、冷徹に答えた。
「ただし、条件がありますわ。今も大聖堂の執務室で私の帰りを待っているであろう、側近のシズク。彼女にだけは、私がここに滞在する旨と、事の経緯を伝える使者を出させてくださいまし。それくらいは、未来の身内として認めていただけますわね?」
「ククク、構いませんとも。連絡を断って大聖堂の神官どもに騒がれても面倒ですからな。おい、教皇様の望み通りにして差し上げろ」
ギラムの指示で、ドラウス家の使者が大聖堂へと放たれた。
手回し良く用意されていた豪華な客室へと通され、一人きりになったエリーは、重厚な扉が閉まった瞬間にドサリとベッドへ崩れ落ちた。
「っ……う、うう……ッ!」
贅沢な天蓋を見上げながら、エリーの顔が悔しさと無力感で激しく歪む。
旅を終え、ようやく本物の教皇として歩み出せると思った矢先の、あまりにも理不尽な現実の暴力。
エリーは胸元から、カイトに買ってもらったあの魔導ペンダントをそっと取り出し、愛おしそうに、そして縋るように強く握りしめた。
「カイトさん……。私の『オラクル』は……カイトさんが私の伴侶になるなんて、大外れを引くくせに……。どうして、こんな肝心な時には、何も教えてくれませんの……っ?」
ぽつりと溢れた少女の呟きは、誰に届くこともなく、静かな部屋に消えていった。
一方、大聖堂の教皇執務室。
ドラウス家からの使者によってもたらされた「エリー軟禁」と「突然の政略結婚」の報告を受けたシズクは、目の前が暗転するほどの衝撃を受けていた。
「エリーが……ドラウス家と婚約……!? 提案書の提出を控えたこの大事な時期に、そんなこと、あるはずがありませんわ……っ!」
使者を追い返した後、シズクは誰もいない執務室で、激しい混乱のまま頭を抱えていた。
エリーの母が突然倒れたこと。
実家に莫大な借金があったこと。
そして、タイミングを合わせたかのようなドラウス家の襲撃。
(明らかに仕組まれた罠ですわ……! 大臣やあの男たちが、エリーを神輿のまま縛り付け、新機関を潰すために裏で糸を引いているに違いありません!)
だが、相手は法的な債務を盾にしている大物貴族だ。
今のシズクの手元にある教会の権力だけでは、下手に動けばエリーの立場をさらに悪化させかねない。
時間もない。婚約まで、あと一週間。
「どうすれば……私一人で、一体どうすればエリーを……っ!」
シズクは焦燥感に駆られ、爪が食い込むほどに拳を握りしめた。
聖都のドス黒い大人の政治。
その圧倒的な理不尽を前に、有能な秘書官であるはずの彼女の脳裏にも、打つ手が一向に浮かばない。
しかし。
その絶望の淵で、シズクの脳裏に、「ある男」の顔が、鮮烈に浮かび上がった。
常識外れの知識を持ち、どんな窮地も口八丁のハッタリでひっくり返し、仲間のためなら何でもする、あの最悪で、最高に頼れる嘘つき魔道士。
「……そうですわ」
シズクは顔を上げると、迷いの消えた目で、引き出しから一通の手紙の便箋を取り出した。
「こういう理不尽な状況を、ルールを根底からぶち壊してひっくり返してくれる心当たりなんて――世界に、あの人しかいません!」
シズクは震える手でペンを握り、町にいるカイトへ向けて、事態のすべてを記した緊急の手紙を、猛烈な勢いで書き始めるのだった。




