新しい相手は
聖都の頂点にそびえ立つ大聖堂。
その最奥にある教皇執務室の前で、エレオノーラは深く、強く息を吸い込んだ。
「ふぅ……。さあ、今日からまた、教皇として頑張りますわよ!」
あのヴェールの町での涙の別れから数日。今のエリーは、旅を経て見違えるほどのやる気と使命感に満ち溢れていた。
カイトが教えてくれた、国家規模の組織が抱える歪み。
そして、人々の暮らしの現実。
今の自分には、ただ神輿として座っているだけでなく、やるべき事、やらなければいけない事が山のようにあるのだ。
人々の美しい理想を守るために、私はこの聖都の頂点で戦う――。
そんな熱い決意を胸に、エリーは両手で勢いよく執務室の重厚な扉を開け放った。
「皆の者、ただいま戻りまし――」
快活な声をあげて一歩踏み出したエリーの身体が、そのままピキリと凍りついた。
「……え?」
エリーの輝かしいやる気を正面からへし折るかのように、そこには、文字通り「天高くそびえ立つ紙の山脈」が待っていた。
長方形の巨大な執務机の上だけでなく、床、応接用のソファ、果ては本棚の前に至るまで、シズクが涙目で訴えていた「決済待ちの書類」が、人間の背丈を優に超える高さでいくつも積み上がっていたのだ。
部屋の隅では、先に来ていたシズクが、虚ろな目で
「あ、お帰りなさいませ……」と幽霊のように手を振っている。
「な、なんですの、この禍々しい質量は……っ!?」
「ですから言ったでしょう、限界だと。これでも私が代理で突っぱねられるだけ突っぱねた残りですからね。さあ、未来の自立した平和のため、まずは目の前の現実を片付けていただきましょうか」
「うぐっ……!」
怒ったセイラを前にしても怯まなかったエリーだが、この物理的な書類の威圧感にはさすがに冷や汗が止まらない。
しかし、ここで逃げたらあの嘘つきで最高に格好いいカイトに顔向けができない。
「……望むところですわ! 私は世界一の教皇になりますのよ! この程度の紙切れに負けてたまるもんですかぁぁぁ!!」
エリーはドレスの袖を力強くまくり上げると、雄叫びと共に執務机へと躍り出た。
こうして、若き教皇と、前代未聞の「書類の山」との死闘の火蓋が切って落とされた。
「これは新法の承認!? ダメですわ、内容が地方の現状と噛み合っていません! 差し戻し! こっちは予算の決済……怪しいですわね、使途を細かく開示させなさい! あと、焼失した教会の再建案件は……あーっ! これは私たちが燃やした、じゃなくて燃え落ちたバルバラの教会ですわね! 再建は許可しますが、人事は総本山から直轄の監査官を派遣することを条件としますわ!!」
ペンを剣のようになびかせ、超高速で書類を捌いていくエリー。
旅の経験が、ただの文字の羅列だった書類に「生きた現実」としての意味を与えていた。
的確かつ冷徹な判断力は、隣で補佐するシズクが「……本当に見違えましたわね」と目を見張るほどだった。
――カツ、カツ、カツ、カツ!!
執務室に激しいペン音だけが響き渡る。
一時間、二時間、時間は瞬く間に過ぎていき、気づけば窓の外は美しい茜色から、帳の降りた深い夜の世界へと変わっていた。
そして、日没から数時間が経った頃。
「――終わりましたわぁぁぁ!!」
エリーが最後の書類にサインを叩きつけ、ペンを放り投げた。
あれほど部屋を埋め尽くしていた書類の山は、すべて綺麗に「承認」と「差し戻し」の二つの山へと完璧に分類されていた。
「ふっ……ふふん。どんなもんだい、ですわ……。神託がなくとも、私にかかれば……これくらい……」
エリーは満足げに、誇らしげにニヤリと不敵な笑みを浮かべ――。
ドサリ、と力尽きたように机の上に突っ伏した。
「……すぴ〜」
そのまま、一秒と経たずに規則正しい健康的な寝息を立て始めるエリー。
燃え尽きたように眠るその顔は、激戦を生き抜いた戦士のようであり、同時に、どこか誇らしげな達成感に満ちあふれていた。
ところ変わって、聖都のふもとにある町。カイトたちが拠点として借り受けた小さな事務所のデスクでも、まったく同じ「地獄」が具現化していた。
「おいおい……嘘だろ……。なんで異世界に転生してまで、こんなお役所仕事の書類に殺されかけなきゃいけないんだよ……」
カイトは机の上にうずたかく積まれた書類の山を前に、完全に頭を抱えていた。
商会を立ち上げるための公的な申請書や、活動認可の書類が膨大なのはまだいい。
カイトにとっての本当の死闘は、別のところにあった。
この世界には、前世でいう「特許」のような、技術の盗難を防ぎ知的財産を守るための法制度が一切存在しなかったのだ。
ニコラの天才的な魔導具をそのまま売り出し、もしも大手の商会に構造を真似されれば、資本力で叩き潰されるのは目に見えている。
そのためカイトは、契約書の文言に二重三重の罠を仕込み、技術のブラックボックス化を図り、さらには国の法制度の隙間を突いて「技術独占の仕組み」をゼロから構築する羽目になっていた。
前世の法学の知識をフル回転させ、ペンを握り続けて丸数日。
徹夜に次ぐ徹夜の果てに、ようやく最後の契約書にサインを書き終えた。
「……終わった……。全部、終わったぞ……」
カイトはペンを落とすと、がくりと椅子の背もたれに上半身を預けた。
その顔からは完全に生気が抜け落ち、文字通り、真っ白な灰になって燃え尽きていた。
魂が口から半分飛び出している。
そこへ、心配そうに様子を伺っていたセイラが、タタタッと足音を立てて駆け寄ってきた。
「カ、カイトさん!? 魂が抜けています! こ、これは大変です、すぐに救命措置をしないと……!」
セイラはあからさまに動転したフリをしながら、なぜかその頬をぽっと赤く染め、両手を組んで祈るような姿勢をとった。
「だ、大丈夫ですよカイトさん、今すぐ私が『人工呼吸』をして差し上げますから……! ん、んむ……っ」
「って、おいお前それ、ただ便乗してキスしにいきたいだけだろ、んむ…っ」
息も絶え絶えなカイトの唇に、セイラはここぞとばかりに初々しく、けれど大胆に自らの唇を重ねにいった。
カイトの顔がみるみる赤くなり、限界を迎えていたはずの脳が強制起動させられる。
そんな二人の様子を、少し離れた作業机で魔導具を組み立てていたニコラが、工具を握ったままじと目で眺めていた。
「はぁ……。ちょっとそこのバカップル。くっついたのはおめでたいし、カイトの生存確認ができたのは良かったんだけどさぁ……」
ニコラは深く、深ーいため息を吐くと、呆れたように二人を指差した。
「さすがに、まだ仕事中の僕の見えないところでイチャついてくれない? 独り身の心に直接ダメージが来るからさ! ほらセイラ、人工呼吸が終わったならカイトにこれ飲ませて。徹夜用の栄養剤」
「ふぇっ!? は、はいっ、すみませんニコラさん……!」
セイラは真っ赤になってカイトから飛び退き、差し出された薬瓶を大慌てで受け取る。
ニコラのいつもの「やれやれ」としたツッコミに、事務所の空気はいつもの賑やかさを取り戻していく。
離れた場所にいても、同じように書類の山と戦い、燃え尽きていた教皇エリーと嘘つき魔道士カイト。
それぞれの場所で新たな一歩を踏み出した二人の奮闘により、世界の歯車は、聖都を巻き込む新たなうねりへと向かって確実に動き始めていた。
聖都の中央に君臨する、王国の気品高き王城。
その厳かな謁見の間にて、教皇エレオノーラは純白の正装に身を包み、国王の前に堂々と立っていた。
「――以上が、我が教会の一部で起きていた不正、および違法植物密造の全容にございます。国王陛下」
エリーの凛とした声が謁見の間に響き渡る。
地方教会を人攫いの巣窟に変えていたバルバラの悪行。
そして、その背景にある教会の財政ブラックボックス化。
旅で目撃した生々しい「現実」を、エリーは一切の容赦なく国王へと報告した。
そして、彼女の本当の目的はここからだった。
「これらは、教会が国家規模の組織でありながら、その内部が不透明であるからこそ起きた悲劇。……ゆえに私は、これ以上の腐敗を防ぎ、民の理想を守るため、教会の金の流れと動きを外部から厳しく『監視する新機関』を設立したいと考えております」
エリーが告げた突然の提案に、玉座に座る国王は、眉をひそめて難色を示した。
「……教皇よ。其方の熱意は認めるが、新機関の設立となると話は別だ。教会は我が国の重要機関でもある。そこへ新たな監視の目を入れ、組織を再編するとなれば、国や教会の反発は免れん。何より、おいそれと動かせるほど予算も人員も余ってはいないのだ」
「お言葉ですが、陛下――」と食い下がろうとするエリー。
だが、国王は静かに手を挙げてそれを遮った。
「現段階では、ただの理想論に過ぎん。突飛な提案で国を動かすことはできぬよ」
絶対的な拒絶ではない。
しかし、大人の政治という冷徹な壁が、エリーの前に立ち塞がった。
だが、今のエリーはかつてのお飾りの教皇ではない。
カイトから「美しき理想の守り方」を、その仕組みの重要性を教わってきたのだ。
エリーは怯むことなく、深く一礼して答えた。
「――分かりました。では、その新機関がどのように機能し、どれほどの予算と人員で運営可能か……すべての必要事項を詰めた『提案書』を、近日中に作成してまいります。それを御覧いただいた上で、再度、ご判断を仰ぎたく存じます」
その堂々たる態度に、国王は微かに目を見張った。
「……ふむ。そこまで言うのであれば、書類が届き次第、吟味しよう」
「感謝いたしますわ」
謁見を終え、エリーが毅然とした足取りで謁見の間を後にする。
その背中を、列席していた一人の老臣――この国の政治を裏で牛耳る大臣が、細められた冷酷な目で見つめていた。
エリーの姿が扉の向こうへ消えると、大臣は口元に不気味な笑みを浮かべ、誰にも聞こえないほどの小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……ふん。小生意気な小娘が。大物貴族や教会の長たちに傅かれ、神輿の上で綺麗なお飾り教皇のままでいれば良いものを。わざわざ自分の寿命を縮めるような真似を……愚かなことだ」
カイトが持ち帰ったバルバラの名簿。
そこに連なる悪徳貴族たちの影が、静かに、けれど確実に、若き教皇の首を絞めようと動き出していた。
王への提案をしていたエリーの預かり知らぬところで、町のカイトたちの事務所では、商会の本格始動に向けた最終局面に差し掛かっていた。
「認可も下りた、拠点も構えた、防衛網も敷いた。……となると、いよいよアレを正式に決めなきゃな」
カイトがデスクの上に白紙の羊皮紙を広げ、ペンを回しながら言った。
ソファで書類を整理していたセイラと、作業机でネジを締めていたニコラが顔を上げる。
「あれ、ですか?」
「ああ。うちの商会の、正式な名前さ。『嘘つき魔道士商会』じゃ、さすがに表の取引で怪しすぎるだろ?」
「確かに、名刺を出すだけで詐欺師扱いされそうだもんね」
ニコラがクスクスと笑う。
カイトはコホンと一つ咳払いをすると、前世の男心をくすぐる言葉を脳内から引っ張り出し、少し得意げに胸を張った。
「そこでだ。元の世界のとある言語で真実・心理を表す言葉から『ヴェリタス商会』これでいこうと思うんだが、二人の意見を聞かせてくれ」
カイトが自信満々にプレゼンしたその瞬間、一番に反応したのは、やはりこの男のすべてを全肯定する恋人だった。
「素晴らしいですわ、カイトさん……っ!」
セイラは頬を薔薇色に染め、瞳をキラキラと輝かせながらカイトの手を握りしめた。
「『ヴェリタス』……なんて響きが良くて、知的で、洗練されたお名前なのでしょう! さすがカイトさんです、世界をひっくり返す私たちの商会にこれ以上なくぴったりですわ! 一生ついていきます!」
「お、おう、ありがとな……」
あまりの猛烈な絶賛っぷりに、カイトは嬉しい反面、少し気恥ずかしさに顔を引く。
対するもう一人の相棒はというと、組み立て途中の魔導具の隙間から、片目を細めてこちらを覗き込んでいた。
「んー、ヴェリタス商会ねぇ……。うん、短くて呼びやすいし、いいんじゃないのー?」
ニコラはネジを回す手を止めることもなく、実にあっさりと、興味なさげにそれだけを口にした。
「……なぁ、ニコラ。もうちょっとこう、なんか無いのか? 由来の格好良さとかさ」
「だってカイトのいた世界の言語なんて知らないし、まぁ、カイトが数日くらい頭を捻って考えた名前なんだろうなー、っていう努力は買ってあげるよ。ニシシ」
悪戯っぽく八重歯を覗かせて笑うニコラと、両手を胸の前で組んでうっとりしているセイラ。
カイトは二人のあまりにも極端な反応を見比べると、ガシガシと自分の頭を掻きむしり、やれやれと苦笑いを浮かべた。
「はぁ……。ネーミングセンスが無いなりに必死にひねり出した結果がこれか。一人は盲目的に大絶賛で、もう一人は適当な生返事。……これじゃ、本当にこの名前が良いのか悪いのか、さっぱり分からねえよ」
「カイトさんの考えたお名前が、悪いはずありませんわ!」
「はいはい、セイラは一回落ち着こうねー」
そんな賑やかなやり取りを経て、カイトたちの足跡は正式に『ヴェリタス商会』として世界に刻まれることとなった。
その名が、いずれ聖都を揺るがし、エリーを救う巨大な力になると信じて――カイトは羊皮紙の真ん中に、力強くその名を書き記すのだった。
聖都の国王へ提出する「監視新機関」の提案書作成のため、エリーは寝る間も惜しんで忙しい日々を送っていた。
予算の試算、人員の配置、既存の神官たちを納得させるための大義名分――シズクの助けを借りながら形にしていく中で、エリーはある現実的な壁にぶつかっていた。
(総本山の老人たちの息がかかっていない、完全に中立で、かつ発言力のある人員……。これを用意するには、やはり我が実家の協力が必要不可欠ですわね)
教皇エレオノーラの生家は、聖都でも古くから教会と深く結びつき、強い影響力を持つ公爵家である。
数年前に厳格だった父が亡くなって以来、領地や家の実権は、すべて母であるメアリが一人で取り仕切っていた。気高く、厳しくも優しい母。
彼女に事情を話し、実家から信頼できる文官を数人融通してもらえば、新機関の設立は一気に現実味を帯びるはずだった。
そう考えたエリーは、公務の合間を縫って、本当に久しぶりに実家である公爵邸へと帰郷した。
「お久しぶりですわ、お母様! 急に押しかけてしまってごめんなさい」
豪奢な応接室で待っていた母メアリは、エリーの姿を見ると、いつもと変わらない上品な微笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「まあ、エリー。教皇としての公務で忙しいのでしょうに、よく顔を出してくれましたね。見ない間に、随分と凛々しくなって……」
「ふふん、色々とお勉強をしてまいりましたのよ。……それでね、お母様。今日は折り入ってお願いがありまして――」
エリーは意気揚々と、自分が旅で見てきた教会の歪みと、それを正すための新機関の設立について熱弁をふるった。
母ならきっと、自分の確固たる意志を喜んで応援してくれる。
そう信じて疑わなかった。
しかし、話を続けるうちに、エリーの胸の中に妙な違和感が這い上がってきた。
「……お母様?」
いつもなら、エリーの言葉を遮ってでも厳しいアドバイスをくれるはずの母の反応が、どこか鈍い。
エリーの顔を真っ直ぐに見つめているようで、その視線はどこか泳いでおり、時折、部屋の扉の外の気配を過剰に気にしているように見えた。
何より、以前に比べて妙に肌が白く、顔色が悪い気がする。
「お母様、お疲れなのですか? なんだか、少しお顔色が……」
「え? ああ……いいえ、そんなことはありませんよ。少し、夜の寝付きが悪かっただけです。それより、新機関の話でしたね。素晴らしい志ですが、家から人員を出すとなると、少し準備に時間がかかります。まずはその提案書とやらを、私に預けてはくれませんか?」
母は穏やかに微笑みながら、エリーの差し出しかけた書類へ、すっと細い手を伸ばす。
その手が一瞬、微かに震えていたのを、エリーは見逃さなかった。
(……おかしいですわ。お母様、何かを私に隠していらっしゃる……?)
「お母様、本当に何かあったのではなくて? 私、これでも一応は教皇ですのよ。何か悩み事があるなら、力になりますわ!」
エリーが身を乗り出して問い詰める。
だが、メアリは困ったように眉を下げ、ふっと視線を外してはぐらかした。
「本当に何でもありませんよ、エリー。成長したあなたが、そうして私の心配をしてくれるだけで十分です。さあ、教皇様がいつまでも私のような者の前で油断していてはいけません」
「でも――」
なおも食い下がろうとしたその時、背後で控えていたシズクが、懐中時計を見ながら静かに告げた。
「エレオノーラ様。大変申し訳ありませんが、時間です。次のギルド長たちとの会合の時間が迫っておりますわ。今すぐ出立しなければ間に合いません」
「あ……! も、もうそんな時間なんですの!?」
エリーは慌てて時計を確認し、跳び上がった。
実家でゆっくり問い詰めている時間など、今の超過密スケジュールには一分たりとも残されていなかったのだ。
「ごめんなさい、お母様! 書類は一度置いていきますわ! また近いうちに必ず伺いますから、お身体に気をつけてくださいましね!」
エリーはそう捲し立てると、ドレスの裾を翻し、大慌てで応接室を飛び出していった。
嵐のように立ち去る最愛の娘の背中を、母メアリは寂しげに見送り――エリーの姿が完全に消えた瞬間、深く、深く、絶望に満ちた溜息を吐きながら、胸元を強く押さえてその場に膝をつくのだった。




