全てをひっくり返せ
ドラウス侯爵邸の厳かな大広間。
そこに置かれた円卓の上には、エレオノーラとドラウス家の長男との婚約を法的に成立させるための契約書が広げられていた。
「さあ、教皇様。ここにサインを。これで実家の借金は帳消し、あなたも我がドラウス家の一員だ」
ギラム=ドラウスが下卑た笑みを浮かべ、エリーにペンを差し出す。
エリーは悔しさに唇を噛み締め、震える手でペンを取った。
まさにそのペン先が羊皮紙に触れようとした、その瞬間だった。
――バンッ!!
大広間の重厚な扉が、勢いよく押し開けられた。
「な、なんだ!? 誰だ、不作法な――」
ギラムが怒鳴り声を上げる。
しかし、現れた人物の姿を見た瞬間、室内の全員が驚愕に目を見開いた。
「お、お母様……!?」
そこに立っていたのは、数日前まで病院で寝ていたはずのエリーの母、メアリ公爵夫人だった。
しっかりと自分の足で立ち、数人の使用人を従えて堂々と歩み寄ってくる。
「おやおや、メアリ夫人。病み上がりの体で何のご用ですかな?」
不快そうに眉をひそめるギラムに対し、メアリはいつもの気高く上品な微笑みを浮かべて見せた。
「あら、ギラム様。愛娘の婚約の儀に、親である私が立ち会うのは当然のことでございましょう?」
メアリはエリーの隣まで進むと、その表情を一変させ、かつて公爵家を一人で切り盛りしていた頃の凛とした冷徹な眼差しをギラムへと向けた。
「――ですが。この婚約、私はお断りすると申したはずですわ」
「は? 何をバカなことを。借金が返せぬのなら、お前たちに拒否権など――」
「ええ、ですから『お返し』いたしますわ。これで全額、一括返済にございます」
メアリがすっと手を上げると使用人が袋を持って前に出る、差し出された袋の中には、夥しい数の金貨。それを見た瞬間、ギラムの目が飛び出さんばかりに平たくなった。
ドラウス家が仕掛けた罠で膨らませた天文学的な借金が、お釣りが来るレベルの巨額がそこにあった。
「な……っ!? 馬鹿な、こんな大金、公爵家といえど用意できるはずが――あ、いや、待て! 金を用意しようが関係ない! 契約書には期日前の全額返済には事前に手続きが必要と――」
「あら、そのことですけれど」
動揺するギラムの言葉を遮り、メアリはクスクスと気品高く笑った。
「実は、あなたが大事に保管していらっしゃる契約書なのですが……精査した所不備があるようですの。こちらの控えを御覧になって?」
メアリが従えていた使用人の一人から書類を受け取り、ギラムの目の前へ放り出す。
ギラムは狂ったようにそれを掴み、貪るように目を通した。
だが、ある箇所に目を留めた瞬間、その顔から血の気が引いていく。
「な、なんだこれは……!? 利子の項目が……年利数パーセントの、まともな条件になっているだと……!? これでは、法外な利子も違約金も取れるわけがない……っ!」
「こんなもの、偽物だッ!」と叫び、ギラムはその書類をビリビリに破り捨てた。
「おい! 厳重に保管してある原本を持ってこい! 本物の契約書を見せてやる!」
すぐに部下が持ってきて広げた、ドラウス家が保管していた契約書の原本。
しかし、ギラムがそれを確認した瞬間、彼の頭は完全にパニックを起こした。
なんと、厳重に金庫に眠っていたはずの原本の記述までもが、全く身に覚えのない「極めて健全で、まともな金利」に書き換わっていたのだ。
「ば、バカな……! こんなもの、本物であるはずがないッ!!」
完全に理性を失ったギラムは、自らの原本すらもビリビリに破り捨て、泡を吹きながらメアリへと掴みかかろうと突進した。
「いつの間にすり替えたんだッ!! 貴様、ふざけるなあああ!!」
「そこまでです」
――ドガッ!!!
メアリに届くより早く、彼女の背後に控えていた小柄な使用人の一人が、電光石火の速さでギラムの懐に潜り込み、その巨体を容赦なく床へと叩き伏せて取り押さえた。床に顔をめり込ませ、「ぶべっ!?」と情けない声を上げるギラム。
圧倒的な武力。
そして、乱れた使用人の帽子から覗いた、見覚えのある美しいライトブルーの髪。
「せ……セイラ……!?」
エリーは驚愕のあまり、持っていたペンを床へ落とした。
町にいるはずの、自分の『嘘』を見抜いて去っていった恋のライバルが、なぜか実家の使用人の服を着て、最高の笑顔で自分を見つめていた。
床に組み伏せられたギラムの姿と、それを平然と取り押さえている少女の顔を見て、エリーは驚愕のあまり声を失った。
だが、衝撃はそれだけで終わらなかった。
エリーが導かれるように残りの使用人たちへ視線を巡らせると、サイズの合わない衣装をまとった見覚えのある二人が、同時に帽子をひょいと持ち上げてみせた。
「よっ、エリー。久しぶり」
「ニシシ、ギリギリ間に合ったねー、教皇様」
「カイトさん……! ニコラまで……っ!?」
なぜ町にいるはずの『ヴェリタス商会』の面々が、実家の使用人としてここに揃っているのか。
エリーが混乱に頭を混乱させていると、カイトが静かな足取りでギラムの前へと歩み出た。
カイトは床に散らばった羊皮紙の破片を、革靴の先で小気味よく踏みつけると、しゃがみ込んでギラムの髪を掴み、その顔を無理やり引き上げさせた。
その瞳には、最凶の嘘つき魔道士にふさわしい、底冷えするような不敵な笑みが浮かんでいる。
「なぁ、ギラム様。証人ならこの部屋にこれだけ揃ってる。あんたは今、自分の手で『契約書の原本』をビリビリに破棄した。……これでもう、公爵家の借金を証明する書類はこの世から消え失せた。つまり、契約は完全に無効、お前たちの負けだよなぁ?」
「ぐ、う、うぬぬぬ……っ!」
ギラムは床に顔を押し付けられながらも、血走った目でカイトを睨みつけ、狂ったように吠えた。
「ふ、ふざけるなッ! 騙されるものか! 私が今破ったのは、お前たちがすり替えた『偽物』だッ! 本物の原本は、お前たちがどこかに隠し持っているんだろうがッ! それを出せ、早く出さぬかッ!!」
ギラムの必死の叫び。
しかし、カイトは呆れたように肩をすくめると、床から一枚の「破片」を拾い上げ、ギラムの目の前に突きつけた。
「いーや。残念ながら、あんたが自分の手で破り捨てたそれ……正真正銘、あんたの金庫に眠ってた『本物の原本』だぜ? ほら、よく見てみなよ」
「な……っ!?」
ギラムが突きつけられた破片に必死に目を凝らす。
すると、そこには確かに、ドラウス家が仕掛けたあの汚悪な『複利条項』や『期日強制繰り上げ』の文言が、彼自身のサインと共にバッチリと刻まれていた。
「ば、馬鹿な……!? なぜだ、さっきまでは確かに、ただの優良金利の書類に見えていたはず……っ!?」
(まあ簡単な話。俺の固有魔法『イリュージョン』で、こいつの視覚をちょっとだけ弄らせてもらったわけだが……種明かししてやる必要はねーな)
カイトは立ち上がり、冷徹な瞳でギラムを見下ろしていた。
最初から書類のすり替えなどしていない。カイトの『イリュージョン』でギラムの目だけに「まともな金利の偽物」という幻覚を見せていたのだ。
「こっちはただ、せめてもの抵抗として、ちょっと書類の誤字脱字の指摘をしようと思って確認させただけなのにさぁ。あんたが突然発狂して、自分の手で原本ごとビリビリに破り捨てちゃったんだろ? ……おいおい、こっちに書類の窃盗だの、すり替えだのっていう濡れ衣を着せるのはやめてもらおうか」
「き、貴様ぁぁぁ……っ!!」
ギラムの顔が、怒りと絶望で真っ赤から真っ青へと、目まぐるしく染まっていく。
罠にハメたつもりが、己の欲と短気を利用され、自らの手で唯一の武器を破壊させられていた。
カイトはそんな哀れな悪党を完全に見下ろすと、エリーを振り返り、優しく、そして最高に格好つけて右手を差し出した。
「待たせたな、エリー。お前が一人で泥を被って解決しようだなんて、一億年早いんだよ。――さあ、自分たちの場所に帰ろうぜ」
差し出された手と、カイトたちの圧倒的な優しさに触れ、エリーの瞳から、ついに我慢していた大粒の涙がポロポロと溢れ出すのだった。
「さてと。大仕事も終わったことだし、王様に会いに行こうぜ」
ドラウス邸の大広間にギラムの絶叫が木霊する中、カイトはまるで「ちょっと近所の市場に行ってくる」とでも言うような気楽さで、首を鳴らしながら言った。
「は、へ……? お、王様……!? 国王陛下のことですの!?」
エリーは涙を浮かべた目のまま、あまりの飛躍ぶりに顎が外れそうなほど驚愕した。
「一国の王とは、親戚の家に遊びに行くようなノリで謁見して良いお方ではありませんのよ!」
「あはは、エリー、カイトに常識を求めちゃダメだよー」
ニコラがクスクスと笑い、セイラも隣で我が意を得たりと深く頷いている。
そんな若者たちのやり取りを見つめていた母メアリは、上品に口元を隠して微笑むと、エリーの前に歩み出た。
「大丈夫ですよ、エリー。カイトさんから事前に計画をお聞きして、私が公爵家の名義で、本日国王陛下への『謁見の予定』をすでに押さえてありますわ」
「お母様まで、いつの間に……っ!?」
エリーが目を丸くする中、カイトはポケットに手を突っ込み、最凶の嘘つき魔道士らしい悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「相手を完膚なきまでにハメようって時にさ、カードが契約書を破かせるって一枚だけなんてあり得ないんだよ。……ドラウス自身に契約書を破棄させるのはあくまで保険。あいつらを社会的に、物理的に二度と這い上がれない奈落へ叩き落とすための本命を、ついでにやっとこうぜ」
数時間後、聖都の王宮・謁見の間。
玉座に鎮座する国王、そして裏でドラウス家や腐敗層と繋がっていた大臣たちが不穏な表情で見守る中、教皇エレオノーラ、メアリ公爵夫人、そして『ヴェリタス商会』の代表としてカイトたちが一堂に拝謁した。
「緊急の謁見ゆえ、何事かと思えば……教皇エレオノーラ、それに公爵夫人。説明を聞こうか」
国王の重厚な声が響く。すかさず大臣の一人が一歩前に出、エリーを牽制するように冷たい声を浴びせた。
「教皇様。もしや、ドラウス家とのご婚約の件で、王家に色良い返事でもお持ちいただけたのですかな? 新機関の設立などという大それた理想を追うより、身を固めるのは良いことですが――」
「いいえ、大臣。そのお話は完全に破談、いえ、最初から存在いたしませんわ」
エリーは凛とした声で遮り、国王を真っ直ぐに見据えた。
「陛下。本日私どもが参りましたのは、我が公爵家を恐喝したギラムの罪、そして――この聖都の治安と教会の平穏を脅かす『大いなる巨悪』を告発するためです」
エリーの言葉を合図に、カイトが前に進み出、懐から一冊の分厚い手帳を掲げた。
それを見た一部の大臣や貴族たちの顔から、血の気が引いていく。
それはかつてカイトたちがバルバラから力尽くで奪い取った、裏の顧客名簿と違法薬物・植物の取引記録の「原本」だった。
「お初にお目に掛かります、国王陛下。町の方でヴェリタス商会を営んでおります、カイトと申します」
カイトは不敵な笑みを隠そうともせず、朗々と告発の声を響かせた。
「ここにあるのは、地方教会を隠れ蓑に人攫いや違法薬物の密造を行っていたシスター・バルバラの顧客名簿。――および、我がヴェリタス商会の情報網を駆使し、この三ヶ月で裏付けを取った『聖都の貴族達のあらゆる罪の証拠一式』です。ドラウス家を筆頭に、ここにいる大臣の一部も含め、脱税、横領、果ては違法植物の密輸に至るまで、言い逃れのできない決定的な証拠がすべて揃っております」
「な、なんだと……っ!?」
「でたらめを言うな、一介の商人が……っ!」
騒ぎ出す大臣たちを、国王の鋭い一瞥が黙らせる。
差し出された証拠の束を側近から受け取り、目を通していく国王の顔が、みるみるうちに険しく、冷徹なものへと変わっていった。
「……なるほど。完璧な証拠だ。ドラウスのみならず、聖都の膿がここまで溜まっていたとはな」
国王は深く息を吐くと、凄まじい覇気と共に言い放った。
「近衛騎士団へ伝令! ギラム=ドラウス、およびここに記載された貴族・神官らの身柄を即座に拘束せよ! 一分の猶予も与えるな!」
「はっ!!」
カイトが仕掛けた「二の矢」――それは政治のルールを逆手に取り、絶対的な証拠の暴力で敵の陣営ごと消し去るという、文字通りの大爆撃だった。
慌てふためき連行されていく悪徳貴族たちの背中を見送るカイトの横顔は、最高に悪辣で、そして誰よりも頼もしかった。
聖都の喧騒から少し離れた、下町の賑やかな酒場。
大仕事を成し遂げたカイトたちは、木製の大きな円卓を囲み、勝利の宴を開いていた。
「かんぱーい!!」
ニコラが元気よくエールのジョッキを掲げ、セイラも満足げにグラスを合わせる。
「ぷはぁーっ! いやぁ、悪人が破滅する顔ってのは、いつ見ても傑作だな。特にあのギラムの、自分の手で原本破り捨てた事がわかった瞬間のツラときたら!」
カイトが機嫌よくジョッキを煽りながら、悪党さながらの笑い声を上げる。
「それにしてもエリーは僕たちのことを甘く見過ぎだよねぇ」
ニコラが悪戯っぽい笑顔でエリーを小突く。
「夜闇に紛れて物理的に連れ出すしか方法がないだなんて……ねぇ? カイトの詐欺師っぷりを舐めすぎだよ!」
「う、うぅ……面目ありませんわ……」
エリーは耳まで真っ赤にして、小さくなってエールを口に運んだ。
あの夜、一人で勝手に泥を被ろうとしていた自分が、今では少し恥ずかしく、そしてそれ以上に愛おしかった。
そんな若者たちの姿を、隣で嬉しそうに眺めていた母メアリが、お盆の上の料理を興味深そうに見つめる。
「それにしても……庶民の酒場なんて初めて来ましたけれど、とても活気があって素敵なお店ですのね。お料理も、宮廷の凝ったものよりずっと素材の味がして美味しいですわ」
「そう言ってもらえると助かるよ、お袋さん。さあ、今日は俺たちの奢りだ、遠慮なく食ってくれ!」
気遣うカイトに、メアリは上品に微笑む。
その穏やかな空気にホッとしたカイトは、ふと思い出して「あ、そうだ」と懐に手を伸ばした。
「メアリさん、例のドラウス邸で使った金貨の袋どこにありますか?一応形としては元本の全額一括返済でケリがついたので、余りを返していただけますか? さすがに全額使ってしまうとうちの商会が傾いちゃいますから」
カイトが冗談めかして手を差し出すと、メアリはふっと悪戯っぽく口元を緩め、はぐらかした。
「あら、カイトさん。あれは一度、当家に頂けた物ではなかったかしら?」
「いやいやいや! あれはあの場を切り抜けるための保険ですから!」
「冗談ですわ。……でも、そうですわね。それなら金貨と一緒に、うちのエリーも貰ってくれません?」
「ぶふっっ!?」
カイトがエールを吹き出す。
隣で静かに串焼きを食べていたセイラの動きがピタリと止まり、エリーも「お、お母様!?」と顔を真っ赤にした。
しかし、メアリの微笑みは崩れない。
むしろ、獲物を追い詰めるような冷徹で美しい笑顔のまま、ぐいぐいとカイトに詰め寄っていく。
「だってカイトさん。あなた、私に仰いましたでしょう? 『金を稼ぐのは手段、目的は仲間の笑顔を守ることだ』って。このお金は仲間を笑顔にするために使うのでしょう? なら、どうかエリーを笑顔にしてあげてくださいな」
「うっ……そ、それはそうですけど、論理の飛躍が凄まじいというか……!」
タジタジになるカイトを見て、エリーが慌てて両手を振って止めに入った。
「お、お母様! お気持ちは嬉しいですが、そんな外堀の埋め方でセイラからカイトさんを奪うわけにはまいりませんわ! 」
そう言って、一度はカイトを守るように毅然と立ちはだかったエリーだったが――ふと、何かに気づいたように動きを止め、人差し指を顎に当てた。
「……あ。そういえば、お母様。我が国の法律では、ある一定以上の『爵位』を持つ方に限っては、例外的に『一夫多妻制』が認められていましたわよね?」
「ええ、その通りですよ、エリー。一応、血統と財産の分散を防ぐための古い貴族法ですが、今も厳然と生きていますわね」
メアリは娘の意図を瞬時に察し、これ以上ないほど満面の笑みで頷いた。
対するエリーは、まるで世界を一変させる大魔法の術式を発見したかのように、両目をらんらんと輝かせてカイトへと詰め寄った。
「決まりましたわ! カイトさん、爵位を取りにいきましょう!」
「はぁ!? いやいやエリー、落ち着け! 爵位なんてそんな、八百屋の野菜みたいにそうそう手に入るわけないだろ!」
頭を抱えて宥めるカイトだったが、教皇の暴走は誰にも止められない。
「いーえカイトさん! あなたは本日、王国の根幹を揺るがす貴族たちの不正を暴き、国家転覆の危機を防ぐという特大の手柄を立てました! そこに公爵家であるお母様の推薦と、ヴェリタス商会の持つ天文学的な多額の現金があれば、平民からの叙爵など十分に可能ですわ!」
エリーは力強く言い切ると、勝利を確信した顔で背後を振り返った。
「お母様!」
「ええ、ええ。そうと決まれば、さっそく内々に根回しをして、極上の推薦状を書かなくてはね〜。おほほ、失礼するわ」
メアリは楽しげに席を立つと、流れるような動作で酒場を後にし、そのまま馬車へと消えていった。
行動が早すぎる。
「カイトさん、いいえ……私の旦那様!」
エリーは感極まった様子で、カイトの右腕側からその体に思い切り抱きついた。
「あなたに爵位さえ与えられれば、法律的にも何の問題もなく、晴れてセイラと私の両方と結婚することが出来ますわ! これぞ完璧な大団円です!」
「ちょ、おま――」
「……それは、聞き捨てなりませんね」
カイトが声をあげるより早く、条件反射のように、カイトの反対側の腕から凄まじいプレッシャーが這い上がってきた。
カイトの左腕をがっしりとホールドしたのは、完全に目が据わっている恋人・セイラだった。
「エリー、カイトさんのファーストキスを奪っただけでなく、私の正妻の座まで脅かそうとは、いい度胸です。カイトは渡しません……っ!」
「あら、奪い合わずに二人で共有しましょうという提案ですわよ、セイラ!」
左右から信じられないほどの腕力で引っ張られ、カイトの体は完全にミシミシと音を立てている。
そこへ、さらにトドメの足音が近づいてきた。
ニコラが、ニヤニヤと意地の悪い、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべてジョッキを片手に覗き込んできたのだ。
「へぇー、一夫多妻ねぇ……。ってことはさ、カイトが爵位を取ったら、僕もお嫁さんにしてもらっちゃっていいわけ? というかお嫁さんにしてもらえないなら別の商会に移籍しようかなぁ」
「ニコラまで乗っかるなァァァーーー!!」
カイトの絶叫が酒場に響き渡る。
数々の修羅場をくぐり抜け、国家規模の陰謀をぶち壊した。
その結果、旅の始まりよりも確実に自分の逃げ場がなくなり、状況が悪化している。
(……いや、待てよ。この有無を言わせず俺を巻き込んでいく感じ……)
カイトは、左右から抱きついてくる美少女たちの体温を感じながら、天を仰いだ。
(……あぁ、成長したかと思ってたけど、出会った頃と、なーんにも変わってないなぁ……)
迫り来る「お嫁さんたち」からの熱烈なプレッシャーから目を背けるように、嘘つき魔道士は、ただただ心地のいい現実逃避の海へと深く沈んでいくのだった。
そしてあっという間に月日は経ち。
聖都大聖堂。
かつて腐敗した神父や悪徳貴族たちが失脚し、今や教皇エレオノーラの元で厳かな光に満ちあふれたこの場所は――本日、王国史上初となる「前代未聞の奇行」の舞台となっていた。
「……なぁ、シズク。いまからでもお腹痛いフリして逃げたらダメか?」
「諦めなさい、カイト。教皇権限と公爵家の手回しにより、あなたの叙爵と一夫多妻は国王陛下の認可が下りました。逃亡すれば国家叛逆罪で聖騎士団が出動しますよ」
ウエディングタキシードに身を包んだカイトは、舞台裏で胃を押さえて青ざめていた。
そんな彼を、整った礼服姿のシズクがふっと柔らかい笑みを浮かべながら見つめる。
「ふふ……でも、素晴らしいことです。エリーがこうして心から笑って幸せを掴めたのは、すべてあなたのおかげなのですから。心から祝福しますよ、カイト」
「いや祝福してくれるのは嬉しいけど、その笑顔の裏で俺の退路を完璧に塞ぐのやめてもらえる!?」
カイトが遠い目をしたその時、重厚な扉が勢いよく開き、まばゆいばかりの光が楽屋に差し込んできた。
「旦那様!お待たせいたしましたわ!」
そこに立っていたのは、純白のドレスに身を包んだ――3人の花嫁だった。
1人目は、洗練された最高級シルクのウェディングドレスを纏い、太陽のような笑顔を輝かせる教皇エリー。
2人目は、普段のシスター服から一転、繊細なレースで飾られたドレスに身を包み、少し照れくさそうに、しかしカイトを見つめる瞳に濃厚な独占欲を宿したセイラ。
そして3人目は、ノリノリでフリルとレースたっぷりのドレスを着込み、スカートの裾をひらりと翻してポーズを決める天才技師ニコラ。
「じゃーん! どうカイト? 僕の勝負ドレス姿! せっかくだから一番豪華で動きやすい最新の仕様にカスタムしちゃった!」
「ノリノリすぎるだろお前!? ずっと変わらない最高の相棒ポジションはどこ行ったんだよ!」
「え? 一夫多妻制で枠が広がったなら、乗っからない手はないでしょ! 最高の相棒で、かつお嫁さん! 一石二鳥じゃん!」
楽しそうにケラケラと笑うニコラに、カイトは眩暈を覚えた。
ツッコミを入れる隙もなく、エリー、セイラ、そしてニコラの3人が、カイトの周囲を完璧に囲い込む。
「ふふ、カイトさん。これで名実ともに、あなたは私たちの『旦那様』ですわ!」
「カイさん……覚悟を決めてくださいね。誓いのキス、順番待ちさせたら怒りますから」
「さーてカイト、覚悟を決めなよー!」
「俺の意見を挟む余地が1ミリもない……!」
『――新郎新婦、入場!』
大聖堂内にパイプオルガンの荘厳な音色が響き渡り、大扉が勢いよく開かれた。
パイプ椅子が並ぶ参列者席には、王国の重鎮や商業ギルドの幹部、そして町の酒場の顔なじみたちがぎゅうぎゅう詰めに座っていた。
最前列では、エリーの母メアリが「おほほ、完璧な式ですわね」と優雅に扇子を広げ、その横でシズクが優しく温かな眼差しで一行を見守っている。
「新郎カイト! ならびに、新婦エレオノーラ、新婦セイラ、新婦ニコラ!」
祭壇に立つ老神父の声が響く。
老神父は、提示された前代未聞の誓約書を二度見、三度見しながら、ひくひくと眉を震わせていた。
「えー……神の御名において問う。新郎カイト、汝は……この、その……3人の健やかなるときも、病めるときも……全員を平等に愛し、胃を痛めながらも支えることを誓いますか……?」
「神父さんまで俺に同情的な聞き方しないで!?」
参列者からドッと大きな歓声と爆笑が巻き起こる。
「はい! 誓いますわ!」
「誓います。カイトさんを一生離しません」
「はーい! 誓いまーす! ヴェリタス商会の予算も倍増でお願いねー!」
新婦側の怒濤の即答とニコラのノリノリな要求に、カイトは覚悟を決めて天を仰いだ。
「……はいはい! 誓いますよ! 誓えばいいんでしょ! 3人まとめて、死ぬまで面倒見てやりますよ!」
カイトのヤケクソ混じりの叫びに、会場はこの日一番の拍手と歓声に包まれた。
「それでは……誓いの、キスを……(順番に……)」
老神父が指示を出し切るより早く、右からエリーが、左からセイラが、そして正面からニコラが、同時にカイトへと飛びついてきた!
「んむっ!?」
「ん……ふふ、いただきですわ、旦那様!」
「カイトさん、大好きです……っ」
「えへへ、僕もいただきまーす!」
3人同時に頬や唇へと突撃され、カイトの視界が幸せと衝撃で真っ白に染まる。
参列者席で温かい拍手を送りながら、シズクがふっと微笑んだ。
「おめでとう、カイト。……まあ、これからの苦労を思うと、少しだけ同情しますけれど」
「……俺の異世界人生、どこで選択肢を間違えたんだ……?」
顔に残る熱さと、3人の愛しい体温と勢いに完全に押し潰されながら、世界一不憫で幸せな嘘つき魔道士は「もうどうにでもなれ」と心地のいい溜息をつくのだった。




