旅のシスター
私は旅のシスター、セイラ。デュミナス教の教義である「弱者救済」を胸に、各地の教会を巡りながら困っている人々を助ける旅をしている。
あの日は、立ち寄った村の近くの荒野を歩いていた時のことだった。
赤茶けた大地に、ぽつりと倒れている一人の青年を見つけた。
赤と白のメッシュが入った珍しい髪。
慌てて駆け寄り、「あの――大丈夫ですか!?」と声をかけたけれど、彼はそのまま意識を失ってしまった。
一人では抱えきれず、近くの村の皆さんに協力をお願いして、なんとか彼を村の教会へと運び込んだ。
デュミナス教の教会は私のような旅のシスターでも快く受け入れてくれる場所だから、本当にありがたい。
彼をベッドに寝かせ、目を覚ますまで看病を続けることにした。
――しばらくして、彼がゆっくりと目を覚ました。
「ここは教会の病室です。無理に動こうとしないでくださいね。本当に、無事でよかったです」
ほっとして声をかけると、彼は少し驚いた様子だったけれど、「あんたが助けてくれたのか。ありがとな」と、少し照れくさそうにお礼を言ってくれた。
事情を聞いてみると、彼は少し困ったように頭を掻いたあと、フッとどこか飄々とした笑みを浮かべてこう言った。
「驚くかもしれないし、信じられないだろうけどさ……。俺、別の世界からこの世界に転生してきたばかりなんだ。右も左もわからないままあの荒野に放り出されて、水も持ってなくてな。完全にただの遭難者だよ」
普通の人なら、おとぎ話か何かだと笑い飛ばすような内容だった。
だけど、私の耳には――彼の言葉に、不快な「ノイズ」が一切混ざっていなかった。
私の生まれつきの固有魔法『ノイズ』は、相手が嘘をついた時に言葉が歪んで聞こえる能力。
それは私の意思で消すことはできない、呪いのようなもの。
これまで、数え切れないほどの人の嘘を聴き、そのたびに人間の醜さに絶望してきた。
けれど、目の前のカイトさんは、驚いたことに全く嘘をついていなかった。本当に、別の世界からこの世界へやってきたのだ。
「――そう、だったんですね」
私がすんなりと信じると、カイトさんは「……え? いや、信じるの早くない?」と素で驚いていた。「悪い奴にコロッと騙されるぞ」なんて私の心配までしてくれたけれど、嘘の聞こえないカイトさんだからこそ、私は心から安心できたのだ。
カイトさんはこの世界の常識を本当に何も知らない様子だった。
だから、誰でも使えるはずの簡単な魔法の仕組みや、人それぞれが持つ固有魔法には使いにくい制限や欠点があることなど、この世界の魔法の常識を丁寧に教えてあげた。
彼から「セイラさんにも固有魔法はあるの?」と聞かれたけれど、この『ノイズ』の能力のことは、教団での立場もあって簡単に話すわけにはいかない。「ふふっ、それは――内緒です♪」と、少しはぐらかしてしまった。
ちょうどその時、カイトさんのお腹が盛大に鳴った。
なんだかおかしくてクスクスと笑ってしまい、私は一度、彼のために温かい食事を取りに部屋を出た。
食事が終わり、カイトさんが一息ついた頃。教会の外から、激しい怒鳴り声が聞こえてきた。
様子を見に広場へ出ると、そこには薄汚いゴロツキが三人、果物の露店を開いているお婆さんに乱暴に因縁をつけていた。カイトさんも心配して私の後ろを付いてきてくれている。
困っている人を、絶対に放っては置けない。
私はすぐに人だかりを掻き分け、お婆さんの前に立ち塞がった。
「そこまでにしてください! 罪のない方を脅すなんて、神がお許しになりません!」
「あぁ? なんだァ、このアマ」
男の一人が顔を真っ赤にして拳を振り上げる。
(どうしよう……)
こんなゴロツキ三人、一瞬で捻り潰すことができる。けれど、周囲に人が多すぎる。どうやって目立たずにこの場を収めるか、ほんの一瞬、私の思考が逡巡した。
――その、刹那だった。
「危ねぇ、どけっ!」
叫び声とともに、カイトさんが私の前に飛び込んできた。
私を後ろへ突き飛ばすようにして庇ったカイトさんの顔面に、ゴロツキの重い拳が綺麗に炸裂する。
「ぶふぇっ!?」
カイトさんの体は無様に地面へと吹っ飛ばされ、砂埃を上げて転がった。
「カイトさん!?」
私は思わず悲鳴をあげた。どうして戦闘力なんてないのに飛び出してきてしまうのか。
ゴロツキたちがゲラゲラと下品に笑う中、カイトさんは泥を払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
その口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。
カイトさんはパチン、と大きな音を立てて指を鳴らした。
「あんたらさぁ、調子に乗ってっと痛い目見るぜ? 悪いけど、あんたらを追い返すくらい、今の俺が全力を出しゃあ簡単なんだわ」
――ザー、と。
私の耳に、激しいノイズが走った。
(え……?)
カイトさんの言葉は、完全に嘘だった。
戦闘能力なんてない。追い返す方法なんて、何一つ持ち合わせていないはず。
彼の言葉はただのハッタリで、中身なんて何もない空っぽの嘘。
なのに。
私の心配を余所に、カイトさんは信じられない光景を作り出した。
突然指を鳴らしたカイトさんを前に、後ろにいたゴロツキの一人が急に発狂したのだ。「いつの間に!」と叫びながら、なんと味方であるはずの他のゴロツキ二人を全力の拳で殴り倒した。
さらに誰もいない空間を殴りつけた後、最後は一人で勝手に足を縺れさせてマヌケに転んだ。
そこへ、カイトさんがすかさず乗っかって取り押さえる。
「仲間割れとは見苦しいねぇ。ほら、そこの二人も早くそのマヌケを連れて失せな。次はお前らの番だぞ?」
カイトさんが不敵に凄むと、顔を腫らしたゴロツキたちは恐怖に顔を引きつらせ、気絶した仲間を引きずって一目散に逃げ去っていった。
「ふぅ……。初めて使ったが、なんとかなるもんだな」
そう言って、笑みを浮かべるカイトさんを、私は口を半開きにしたまま見つめることしかできなかった。
口から出る言葉は、間違いなく全部が「嘘」だった。
なのに、その嘘を現実にして、本当にゴロツキたちを簡単に追い返してみせたのだ。
嘘なのに、嘘じゃない。
この世界で出会った、初めての「ノイズを裏切るおかしな男」。
カイトさんという不思議な存在に、私は目が離せなくなってしまっていた。
翌朝、村が慌ただしく蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれる中、私はいつものように淑やかなシスターとして宿の食堂に座っていた。
周囲からは不穏な噂話が聞こえてくる。
「あの地主の旦那が殺されたらしい」
「夜中に暗殺者が出たんだって」
隣に座るカイトさんは、頭を抱えて参っている様子だった。彼が心の中で「異世界の治安が悪すぎる」と呆れているのが、手に取るようにわかる。
「……恐ろしいですね。まさか、そんな残虐な事件が起きるなんて……」
私は心細そうに俯き、胸の前で手を組んで見せた。
まさか彼も思いもしないだろう。
昨夜、あの地主の屋敷。
その地主の胸元へと冷たい刃を走らせて心臓をひと突きにしたのが、目の前にいる私だなんて。
『――これで、この村での仕事は完了ですね』
返り血すら浴びずに刃を吹き、闇へと溶けたあの感覚は、もう遠い過去のこと。今の私は、ただの貧乏旅のシスター「セイラ」でなければならない。私が神父様の忠実な「刃」であることも、この手に染み付いた返り血の匂いも、カイトさんには絶対に秘密だ。
私が恐ろしい「暗殺者」だと知れば、きっと彼は怯え、逃げ出してしまうだろうから。
やがて村を発つ準備を終え、私たちは教会の前で向き合った。
異世界から来たという、不思議で、どこか浮世離れした彼。……このまま別れてしまうのは、どうしても嫌だった。
私は少し怯える振りをしながら、衣服の裾をきゅっと掴み、彼を見上げた。
「あの、カイトさん。もしカイトさんに、この先特に決まった目的がないのでしたら……私と一緒に旅をしませんか? あなたのいた異世界のお話も、もっとたくさん聞いてみたいですし……ダメ、でしょうか?」
カイトさんはフッと、いつものように飄々とした笑みを浮かべた。
「ちょうど俺も、セイラさんの一人旅は心配だと思ってたところなんだ。よし、決まりだ。俺が頼れる『護衛』としてついて行ってやるよ!」
彼の口から「護衛としてついて行ってやる」という言葉が飛び出した瞬間――
――ザーーーッ。
私の耳の奥で、激しい不快なノイズが響き渡った。
昨日、ゴロツキを前にした時と全く同じ、完全な「嘘」を示す音。
彼には魔法も使えなければ、戦闘能力もない。ただの一般人である彼に護衛なんてできるはずがないのだ。何しろ、彼が守ろうとしている私自身が、昨夜ひとつの命を影から容易く刈り取った「暗殺者」なのだから。
彼の言葉は、中身のない真っ赤なハッタリ。
だけど。
その嘘のすぐ手前で言ってくれた「セイラさんの一人旅は心配だ」という言葉には、優しくて温かい、一切の濁りもない「真実」が乗っていた。
私の身を本気で心配してくれているのは、本当のこと。
自分に守れる力なんてないのに、相手が裏で人を殺める暗殺者だとも知らずに、純粋な善意で胸を張ってくれている。
他人の言葉の偽りがすべて分かってしまう私にとって、それは呆れるほど可笑しくて……どうしようもなく愛おしい「嘘」だった。
「はい! 心強いです。これからよろしくお願いしますね、カイトさん!」
私は闇の顔を完全に押し隠し、胸の奥から湧き上がる温かい気持ちのまま、満面の笑顔を彼に向けた。
本当の危険が私自身だとも知らずに「護衛」を買って出る、この愛すべきおかしな男の隣に。
私はもう少しだけ、一緒にいたいと思ってしまったのだから。




