教皇誘拐事件
あの野盗の村を後にしてからも、カイトたちの馬車は世界を巡り、着実にその足跡を残していった。
訪れる町や村で、ある時は教会の権力を笠に着た悪徳聖職者をカイトのハッタリで鮮やかに懲らしめ、またある時はエリーの純粋な祈りとセイラの圧倒的な武力で人々を救う。
そうして地方に少しずつ「信頼できる信者と味方」を増やし、エリーのオラクルがもたらす問題をカイトの規格外の奇策で解決していく――そんな、どこか噛み合わないながらも完璧な連携を見せる一行の旅は、順調そのものに見えた。
しかし、運命の歯車は、ある活気ある大きな町に到着した日の昼下がりに、突如として狂い出す。
「――ふぅ、ここの名物のシチュー、とっても美味しいですわ!」
「エリー、口元にソースが付いていますよ。拭いてあげますからこちらを向いてください。」
町の中央にある、少し高級な賑やかなレストラン。
エリーとセイラがいつも通り仲良く席を並べ、ニコラが旅の経費を計算し、カイトがキリキリ痛む胃を休めながらお茶を啜る。そんな、いつもと変わらない昼食の風景だった。
カイトが、ふと妙な違和感を覚えたのは、お茶を飲み干した直後だった。
(……なんだ? 急に、身体が重い……?)
視界がぐにゃりと歪み、強烈な、抗いようのない眠気が津波のように脳を襲ってきた。
ただの疲れではない。
カイトは前の世界の知識から、これが強力な「睡眠薬」の類であると直感した。
「カ、カイトさん……? なんだか、急に、意識が……」
最強の戦士であるはずのセイラが、ろれつの回らない声で机に突っ伏した。
ニコラもペンを持ったまま、すでに目を閉じて動かない。
「なっ……!?」
カイトは必死に重い瞼をこじ開け、周囲を見回した。
驚くべきことに、倒れているのは自分たちだけではなかった。
隣の席の客も、給仕をしていた店員も、レストランの中にいた「すべての人間」が、糸の切れた人形のように床やテーブルに倒れていたのだ。
(店ごと、全員盛られた……!? 狙いは、俺たち……いや、まさか……!)
凄まじい規模の無差別毒撃。
薄れゆく意識の淵で、カイトは本能的な危機感を覚えたが、鉛のように重くなった身体は一指も動かない。
「クソッ……やられた……!」
苦い呪詛の言葉を最後に、カイトの意識は深い闇へと沈んでいった。
「――っ!?」
カイトは弾かれたように跳び起きた。
激しい頭痛に顔を顰めながら、即座に懐の懐中時計を確認する。時計の針は、意識を失ってからまだ三十分も経っていないことを示していた。
薬の即効性の割に、持続時間は短い――いや、あえて短く設定されていたのか。
「カイトさん……!」
「うう、頭が割れそう……」
ほぼ同時にセイラとニコラも目を覚まし、ふらつく身体を押さえながら周囲を警戒する。
レストランの中は、先ほどと変わらず静まり返ったままだ。
だが、カイトは周囲の景色を確認した瞬間、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
自分たちの席。
そこには、あるはずの「一番大きな存在」が消えていた。
「……おい、エリーはどこだ!?」
カイトの鋭い声に、セイラとニコラがハッとして周囲を見回す。
いくら探しても、どこを探しても、つい先ほどまで美味しそうにシチューを食べていた、あの金髪の賑やかな少女の姿だけが、忽然と消え失せていた。
現場に残されていたのは、争った形跡すらなく、ただぽっかりと空いたエリーの椅子だけ。
確信犯的な、あまりにも手際の良い強襲。教皇エレオノーラ、誘拐――。
カイトの脳裏に、これまでに潰してきた悪徳聖職者たちや、あの逃亡したシスター・バルバラの醜悪な顔が不気味に浮かび上がる。
嘘つき魔道士一行の旅は、ここへ来て、最悪の陰謀の渦中へと巻き込まれようとしていた。
激しい頭痛と共にエリーが意識を取り戻した時、最初に感じたのは、両手首に食い込む冷たい金属の感触だった。
視界を覆う薄暗い空間。
足元は床に届いておらず、頑丈な手枷で天井の梁から無残に吊るされているのだと、すぐに理解した。
「ひっひっひ……! やっとお目覚めかい、教皇様」
部屋の奥から響いたのは、脳裏にこびりついて離れない、あの忌まわしく醜悪な声だった。
脂ぎった巨体を揺らしながら、暗がりから姿を現したのは――シスター・バルバラ。教会の火災から逃げ延びたあの怪物が、さらに歪んだ執念の笑みを浮かべてエリーを見下ろしていた。
「バルバラ……! 生きていたのですね……!」
「ああ、生きてるともさ! あんたたちのせいで、私の大事な教会も、可愛いお人形も台無しだよ! だがねぇ……運が良かったのはあんたを邪魔に思っている大物貴族様方が、裏で私を匿ってくれたことさ。今回はその旦那方からの『依頼』もあってねぇ、目障りな若き教皇様を直々に処理させてもらうのさ!」
バルバラはそう言うと、棘の付いた凶悪な鞭を蛇のようにしならせた。
「まずは私の復讐さ。あんたの高貴なプライドがズタズタに引き裂かれ、痛みと羞恥と絶望に染まった顔を見るのが、今から楽しみで仕方がなくてねぇ……! ほら、鳴きな!!」
ビシィッ!! と激しい破裂音が地下室に響き渡る。
鋭い痛みがエリーの身体を走り、服が弾け飛んで、白い肌に痛々しい赤黒い筋が刻まれた。
「うぅ、あ……っ!」
エリーは奥歯を噛み締め、必死に悲鳴を堪える。
部屋の周囲を見回すと、バルバラの配下である下卑た男たちが数人、吊るされたエリーの姿を舐めるように見つめ、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべていた。
しかし、激痛と羞恥に支配されかけたその瞬間――エリーの瞳の奥で、黄金の魔力が爆発的に輝いた。
意思を置き去りにして、未来を見せる『オラクル(神託)』の強制発動。
エリーの脳内に、目の前にいる悪党たちの「これから訪れる未来」が克明に流れ込んできた。
次の瞬間、エリーは苦痛に顔を歪めながらも、バルバラを真っ直ぐに見据え、その唇を不敵な勝利の笑みへと歪めたのだ。
「……ふふ。予言が、降りましたわ」
「なんだって……!?」
「あなたたち全員に……筆舌に尽くし難いほどの、凄惨で、残酷な『死』が訪れる、だそうです。――うふふ、残念でしたわね? あなたたちの負けですわ」
絶対的な絶望の淵にありながら、未来の勝利を確信して傲然と言い放つ教皇の威厳。
その態度が、バルバラのプライドを完璧に逆なでした。
「この期に及んで、よくもそんな大嘘をォォ!! 黙れ! 黙りなさい!!」
逆上したバルバラが、狂ったように鞭を何度も何度も振り下ろす。
激しい痛みの嵐の中、エリーの服は完全にボロボロに裂け、その美しい身体には無数の痛々しい傷跡が刻まれていく。
それでもエリーは、カイトたちへの絶対の信頼を胸に、バルバラを睨みつけ続けた。
息を切らしたバルバラは、鞭を投げ捨てると、周囲でニヤついていた男たちに向けて悍ましい指示を飛ばした。
「おい、お前たち! その生意気な口が二度ときけないように、身体も心も徹底的に分からせてやりな! 泣いて許しを乞うまで、好きにするがいいさ!」
「へへ、そいつは有り難え……」
「教皇様のお体に触れる機会なんて、一生に一度だからなぁ……!」
下卑た欲望を隠そうともせず、男たちの汚れた手が、吊るされたエリーのボロボロの身体へと一斉に伸びていく。
「いや……! 来ないで……来ないでください……っ!! 旦那様ぁぁぁ!!」
極限の恐怖がエリーの心をへし折り、地下室に彼女の悲痛な悲鳴が木霊した。
だが、その絶望の叫びに応じるように、エリーの胸元で――カイトから贈られたあの銀のペンダントが、衣服の隙間から、静かに、けれど確かに鈍い魔導の光を放っていた。
エリーの悲痛な悲鳴が地下室に響き渡った、まさにその瞬間だった。
――ドオォォォォォン!!!
頑丈な鉄製の扉が、内側の固定器具ごと文字通り「爆散」し、凄まじい風圧とともに破片が室内に降り注いだ。
爆煙を割って突入してきたのは、カイト、セイラ、ニコラの三人。
ペンダントに仕込まれた魔導発信機の位置を正確に追跡し、最速でここに辿り着いたのだ。
しかし、三人の視界に真っ先に飛び込んできたのは、あまりにも凄惨な光景だった。
服をボロボロに引き裂かれ、天井から吊るされ、全身に痛々しい鞭の跡を刻まれて涙を流すエリーの姿。
「エリー……っ!!」
「嘘……あんたら、なんてことを……ッ!?」
ニコラが激しい怒りと嫌悪感で叫びかけた、その時だった。
ニコラの耳に、実際には聞こえるはずのない、何かが致命的に千切れたような――**『ブチィッ』**という幻聴が響いた。
ゾッとして恐る恐る隣を見る。
そこには、完全に「表情」という概念が消失したカイトが立っていた。
いつも胃を痛め、ハッタリを張り、どこか人間臭く笑っていた男の顔から、すべての生気が消え失せている。
その瞳は昏く凍りつき、隣にいるニコラですら生存本能からガタガタと身体が震え出すほどの、底知れない、圧倒的な『殺意』を放っていた。
そして、もう一人。
「――あ」
ニコラが気づいた時には、カイトの逆隣にいたはずの最強の暗殺者――セイラの姿が、すでにそこにはなかった。
「ぎ、ぎゃああああああああっ!?」
「ひ、ぎっ……あ、足が、腕がぁぁぁ!!」
直後、地下室に響き渡ったのは、エリーを囲んでいた男たちの絶叫だった。
ニコラが視線を走らせる。
そこには、肉眼では捉えきれない神速の踏み込みで、男たちの間を文字通り「悪鬼」となって駆け抜けるセイラの姿があった。
セイラもまた、完全にキレていた。
不殺が適用されるのはあくまで人間のみ、人の姿をしたゴミを処理する事に一片の躊躇いもなかった。
瞬き二回の間に、エリーに汚れた手を伸ばそうとしていた男たち全員が、床へと転がされた。
両手両足の腱を正確に、かつ容赦なく深く切り裂かれ、傷口から凄まじい量の鮮血を噴き出している。
もはや立ち上がることも、武器を握ることもできず、ただ失血死という確定した『死』を待つためだけに、血の海の中で悶絶している。
まさにエリーのオラクルが予言した通りの、凄惨極まる光景だった。
「ひ、ひいいっ……!? な、なんなんだいお前はぁっ!?」
一瞬で手下を全滅させられたバルバラが、腰を抜かして床にへたり込み、悲鳴をあげる。
セイラは冷酷に剣についた血を払うと、ニコラの方へ一度だけ視線を向けた。
その瞳には、かつてそうだった本物の暗殺者の光が宿っている。
「……ニコラ。エリーを、お願いします」
「っ、あ……うん、わかった!」
あまりの恐怖に呆然としていたニコラは、ハッと我に返り、吊るされたエリーの元へと必死に駆け寄った。
急いで手枷を外し、崩れ落ちるエリーの身体を優しく受け止め、すぐさま応急処置を開始する。
エリーがニコラの腕の中で「……旦那様……セイラ……」と、安堵の涙を溢れさせる中。
カイトとセイラは、一歩、また一歩と、極上の絶望に顔を歪めるバルバラの元へと、歩調を合わせてゆっくりと歩みを進めていく。
「ま、待ち、待ちなしゃい! 私を殺せば、裏にいる貴族様たちが黙っちゃいないよ! 国中にお前たちの手配書が――」
バルバラが必死に叫ぶ中、カイトの指から『パチン』という小さな乾いた音が響いた。
「手配書? 上等だ。……なあバルバラ。あんた、若い男が絶望して苦しむ顔を見るのが大好きだったよな?」
カイトの声には、怒りすら入っていなかった。
ただただ、冷徹で、平坦な、底なしの闇のような声。
「――だったら、今度はあんたの番だ。お望み通り、この世の終わりのような絶望を、その脳みそが腐り落ちるまでたっぷり見せてやるよ」
嘘つき魔道士の、ハッタリでも何でもない、本物の『処刑』が始まろうとしていた。
「ひ、ひいいいっ! 来るな、来るんじゃないよぉっ!!」
かつて不気味な地下室で傲然と笑っていた巨体は、今や見る影もなく無様に地面を這いずり回っていた。
完全に腰を抜かしたバルバラは、涙と脂汗で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、じりじりと迫るカイトとセイラから必死に距離を取ろうと必死に腕を動かす。
出口はすぐそこ、あそこまで行ければ助かるはず、そんなバルバラの希望はあっけなく潰えた。
出口に見えているそこに手を伸ばすも、ひんやりとした壁の感触がそこにあるだけ、バルバラはすでにカイトのイリュージョンにより視覚をジャックされていた。
逃げているつもりが行き止まりに追い詰められていたのだった。
カイトは表情一つ変えないまま、隣に立つセイラの手元へ視線を向けた。
「セイラ、剣を借りるぞ」
「はい。……どうぞ、カイトさん」
セイラから手渡された冷たい鋼の長剣。
カイトはその柄を迷いなく握りしめると、這いつくばるバルバラの背後へと容赦なく踏み込み、その左手を床ごと深く突き刺した。
「ぎゃあああああああああああすっ!?!? 痛い、痛いぃぃぃぃ!!」
「――うるさい」
地下室に響き渡る鼓膜を引き裂くような絶叫。
しかし、カイトはその声を遮るように、容赦のない拳をバルバラの顔面へと叩き込んだ。
ボカッという鈍い音とともにバルバラの頭が床にバウンドし、悲鳴が強制的に濁った呻きへと変わる。
カイトは血に濡れた剣の柄を握ったまま、見下ろす瞳に一切の光を灯さず、冷酷極まる声で宣告した。
「今からお前が喋っていいのは、あんたの顧客と、今回指示を出した貴族の情報だけだ。……名簿があれば話が早いが、無いなら今からここで、直接書け。どっちだ?」
「ひ、ひっ……あ、ある! あります、名簿なら奥の、奥の部屋の隠し金庫にありますぅぅ!!」
死の恐怖に直面したバルバラは、狂ったように首を縦に振った。
カイトは感情の失せた目でそれを見つめ、静かに命じる。
「なら案内しろ。――ああ、それと」
カイトは一言添えると、何のためらいもなく剣を一度引き抜き、今度はバルバラの左腕を深く突き刺した。
「ぎ、ひぎぃっ!?!? あ、あ、あああああ!!」
「嘘だったらどうなるか、分かってるな?」
「ふ、ふ、ふえぇぇ……っ! わ、分かってる、嘘じゃない、嘘じゃないからぁぁっ!!」
バルバラは口から涎と涙を汚らしく撒き散らしながら、激痛にガタガタと巨体を震わせて何度も頷いた。
左腕と左手から血を流し、芋虫のように無様に這いずりながら、彼女は自らの私室の奥にある隠し部屋へとカイトたちを案内し、震える手で分厚い革張りの『顧客名簿』を差し出してきた。
カイトはそれを受け取り、パラパラとページをめくって記載された貴族たちの名前を確認していく。
その一瞬の隙。
カイトの視線が名簿に落ちたのを見たバルバラは、激痛を必死に堪えながら、出口の扉へと向かって文字通り死に物狂いで這い出そうとした。
しかし、バルバラの視覚は操られたままである。
出口に見えていた壁に激突して倒れるバルバラにさらに、
――ドスッ! ドスッ!
「あがぁぁぁっっ!?」
冷徹な二条の閃光が走り、バルバラの両足の太ももが正確に床へと縫い付けられた。 逃亡の足を完全に破壊され、床に突っ伏して悶絶するバルバラ。
カイトは息を荒げる彼女に歩み寄ると、トドメとばかりにその右腕をも深く突き刺した。
これで両手両足、すべての自由を奪われた。床に広がる血の海の中、バルバラはもはや声をあげる気力もなく、ただ激しく痙攣している。
カイトはバルバラの肉体から剣を引き抜くと、ハンカチで無造作に血を拭い、セイラへと手渡した。
「ありがとよ、セイラ」
「いえ。お役に立てて光栄です」
セイラが冷徹に剣を鞘に収めるのを確認し、カイトは名簿を懐にしまいながら、床で虫のように丸まるバルバラへ、底冷えするような笑みを向けた。
「……じゃあな、クソババア。この場所は、一応親切な俺が『騎士団』に通報しておいてやるよ。あんたの自慢のコネがまだ生きてるなら、お優しい騎士様たちがすぐに助けてくれるかもな? ――せいぜい、幸運を祈るんだな」
カイトは冷たく言い放ち、振り返ることもなく部屋を後にした。
だが、嘘つき魔道士の復讐は、それだけで終わるほど甘くはなかった。
「ひ……っ? あ、あ、ああああああああっっっっっ!?!?」
直後、背後の部屋から、先ほどまでの痛みの悲鳴とは明らかに質の違う、正気を失った絶叫が響き渡った。
カイトが最後に見せた幻覚。
バルバラの狂った視界の中では今、自らの両手両足に開いた悍ましい四つの傷口から、数千、数万というおぞましい毒虫がドロドロと溢れ出し、自分の肉を内側から生きたままドロドロと齧り、貪り喰っている――そんな、終わりのない地獄の映像が、彼女の脳が恐怖で焼き切れるまで永遠に再生され続けていた。
「あ、あああ……! 虫が、虫が私を喰べる……! 痛い、痛いよぉっ! 誰か、誰か助けておくれぇぇっ!!」
四肢を血の海に染め、身動きすら取れない暗黒の部屋で、バルバラは実在しない無数の虫に肉を貪られる絶望の幻覚に狂い悶えていた。
誰も助けには来ない。
自分が犯してきた悪事の報いが、そのまま底なしの地獄となって脳髄を焼き焦がしていく。
狂気と激痛が渦巻く意識の底で、バルバラの脳裏に、先ほど吊るされていた少女が浮かべた不敵な笑みが鮮烈に蘇った。
『あなたたち全員に……筆舌に尽くし難いほどの、凄惨で、残酷な「死」が訪れる、だそうです』
(ああ……あれは、大嘘なんかじゃなかったんだ……。本物の、神の予言だったんだ……!)
自分が欲望のままに若い男たちの未来を奪い、絶望させてきた。
その報いが、今まさに寸分の狂いもなく自分へと返ってきたのだ。
自らの人生の最期、肉体も精神も完璧に破壊され尽くした極限の絶望の中で、バルバラは生まれて初めて、自らが手を染めてきた悍ましい罪を心の底から激しく後悔し、血を吐くように咽び泣くのだった。
一方、エリーが保護されている地下室。
血の匂いを微かに纏わせたカイトとセイラが戻ってくると、ニコラの膝の上で毛布に包まれていたエリーが、弾かれたように顔を上げた。
「……旦那様……っ!」
エリーはボロボロの衣服も構わず毛布を振り払うと、よろめきながらも真っ直ぐにカイトへと駆け寄り、その胸へと全力で飛び込んだ。
「旦那様ぁぁぁ……! 怖かったですわ……っ、本当に、本当に怖かったですわぁぁ……っ!!」
カイトの服の胸元を小さな手で強く握りしめ、子供のように大きな声をあげて泣きじゃくるエリー。
その涙は、恐怖から解放された安堵の涙だった。
カイトはエリーの華奢な背中にそっと手を回し、その震えを鎮めるように優しく、けれどどこか苦い表情で彼女の金髪に触れた。
「……すまなかった、エリー。俺がもっと周囲を警戒していれば、エリーをこんな怖い目に合わせずに済んだんだ。全部、俺の油断だ。本当に悪かった」
嘘つき魔道士として、どんな修羅場もハッタリで切り抜けてきた男が、今、本気で己の未熟さを悔いて謝罪していた。
しかし、エリーはカイトの胸に顔を埋めたまま、ブンブンと強く首を振った。そして涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、きゅっと唇を噛む。
「……旦那様は、ちっとも悪くありませんわ……っ! 私は信じていましたわ。旦那様が、絶対に助けに来てくださると……!」
エリーは涙を拭いながら、胸元で鈍く光る銀のペンダントを、愛おしそうに握りしめて微笑んだ。
そんな二人の感動的な再会を、少し離れた場所から見ていたニコラが、深く、深ーくため息を吐きながら、じと目になって横から口を挟んできた。
「ちょっと、そこのお二人さん。感動のところ申し訳ないんだけどさぁ……」
ニコラは、セイラと、カイトの二人を交互に指差した。
「エリーだけじゃなくて、僕だってめちゃくちゃ怖い目にあったんだからね!? エリーを見つけたと思ったら、横でカイトからは人間辞めたような殺気が出てるし、セイラは一瞬で男たちの腱をバラバラに切り裂いて血の海作ってるし……! ぶっちゃけ、ブチギレたあんたたち二人が怖すぎて僕は怒るタイミングすら失ったんだよ!?むしろ僕にこそ謝罪してほしいくらいだよ!」
ニコラの必死の訴えに、緊迫していた地下室の空気が一瞬でいつもの温度へと戻っていく。
カイトはバツが悪そうに「いや、それはその……悪かったよ」と頭を掻き、セイラも「エリーを傷つけようとする虫ケラを排除しただけですが……そんなに怖かったですか?」と、すました顔で首を傾げるのだった。
バルバラの陰謀を叩き潰した一同は、エリーの体と心の傷を癒やすため、その町にある静かな宿にしばらく逗留することにした。
ニコラが調合した特製の傷薬と、エリー自身の高い魔力調律の甲斐あって、鞭が刻んだ痛々しい赤みは数日もしないうちに綺麗に消え去っていった。
しかし、恐怖の記憶が完全に薄れるまでは、カイトもセイラも片時もエリーのそばを離れようとはしなかった。
そんな、少し歪で、けれどどこまでも温かい休息の日々に、ついに「その時」を告げる報せが届く。
「――旦那様。シズクから、手紙が届きましたわ」
ある朝、宿の食堂。
エリーが手にした一枚の便箋を見つめながら、寂しげに声を落とした。
カイトがそれを受け取り、ニコラとセイラも覗き込む。
『教皇エレオノーラ様。……もう、本当に限界です。総本山の老人どもが毎日毎日、新法の承認だの予算の決済だのと私の部屋に押し寄せてきて、胃に穴が空きそうです。というか、もう三つくらい空きました。あなた様が聖都にお戻りにならないのであれば、私は今すぐ実家に帰らせていただきます。追伸:カイト様、連れ戻せなかったら呪います』
「……。文字の筆圧が、いつもの三倍くらい強いな」
カイトが引きつった笑いを浮かべると、ニコラが「限界っていうか、もう半分以上、心が折れてるよね、シズクさん……」と、遠い目をして同情の溜息を吐いた。
手紙の最後には、シズクが現在、公務の旅を装って聖都を抜け出し、エリーを迎えにこちら側へ向かってきていることが記されていた。
「合流地点は、聖都のすぐ手前にある町『ヴェール』。……そこで、シズクと合流することにしましょう」
エリーの言葉に、食堂のテーブルが静まり返る。
それは、エリーのオラクルから始まった、この破天荒で、泥臭くて、けれどかけがえのない「教皇お忍びの旅」の終わりを意味していた。
カイトを自分の未来の旦那様だと信じて疑わなかったエリー。
カイトの隣を死守するためにライバルとしてエリーと手を握ったセイラ。
二人の修羅場の緩衝材として巻き込まれ、自らの恋心に蓋をして見守ってきたニコラ。
「……そうか。ついに、終わりが近づいてきたか」
カイトが呟き、胸のポケットにある、あのお揃いの銀のペンダントにそっと触れた。
エリーの傷が癒えれば、馬車は聖都へと向かう最後の直線へと走り出すことになる。
お飾りのトップだった少女が、世界の現実を知り、本物の教皇へと成長した旅。
その終着駅に向けて、嘘つき魔道士一行の旅は、静かに、けれど確かな寂しさを伴いながら、幕を閉じようとしていた。




