教会の闇
馬車が辿り着いたのは、それなりの規模を持つ新しい町だった。
しかし、御者台から周囲を見渡したカイトは、すぐに肌を刺すような違和感を覚える。
「……なぁ、なんかおかしくないか?」
活気がないわけではない。
市場には店が並び、人々も行き交っている。
だが、カイトたちが馬車を進めると、道行く人々がピタリと足を止め、遠巻きにこちらをじっと見つめてくるのだ。
その視線には、旅人を珍しがる好奇心ではなく、得体の知れないものを恐れるような、どこか「腫れ物に触れるような怯え」が混じっていた。
不気味に思ったカイトは、馬車を止めて近くの露店の店主に声をかけてみた。
「すいません、ちょっと聞きたいんですけど、この町で何かあったんですか?」
「え!? い、いや、何も見てない、何でもない! うちには関係ないから、あっちに行ってくれ!」
店主はカイトと目が合った瞬間、怯えたように顔を青くして、商品を慌てて片付けながら背を向けてしまった。
他の町人に声をかけても、誰もが「知らない」「何でもない」と一様に首を振るばかりで、まともに目すら合わせてくれない。
「妙ですね……。まるで町全体が、何かに怯えて口を閉ざしているようです」
馬車から降りたセイラが、周囲のただならぬ気配に眉をひそめる。
「とにかく、いつも通り教会へ行ってみましょう。何か人手が必要な仕事があれば、町の状況も分かるかもしれません」
そう言うと、セイラはいつものシスター服の襟を正し、町の中心にある教会へと向かった。
どんな町であっても、日中の教会周りというのは、お祈りに来る人や相談事を持つ人々でそこそこ賑わっているのが普通である。
しかし、この町の教会の前に至っては、まるで墓地のようにひっそりと静まり返っていた。
しばらくして、教会から戻ってきたセイラの表情はひどく硬かった。
「……仕事は、一件もありません、とのことでした」
「一件も? こんなに大きい町なのにか?」
カイトの問いに、セイラは重く頷く。
「はい。神官様には『余計な首を突っ込まず、さっさと他の街へ行け』と、冷たくあしらわれてしまいました。絶対におかしいです」
他人の嘘を拒絶するセイラの『ノイズ』は鳴っていない。
つまり、本当に依頼がないのではなく、教会側が意図的に彼らを遠ざけようとしたのは紛れもない本心だった。
腕を組んで考え込んでいたニコラが、周囲の町人たちの視線を分析するように呟いた。
「ねえ、もしかしてさ……町の人たちの様子がおかしいのって、僕たちの『見た目』が原因なんじゃない?」
「見た目って……俺たちの?」
カイトが聞き返すと、ニコラはセイラの服装を指差した。
「ほら、セイラってば、どこからどう見てもシスターの格好でしょ? 町の人たちは、僕たちが教会の関係者だから、警戒して遠巻きに見てたんじゃないかな」
「確かにそうかもしれませんわ」
馬車の陰からひょこっと顔を出したのは、エリーだった。
今回の旅において、エリーは教皇だとバレないよう、お忍び用の地味で普通な街娘の服を着ている。
そのため、傍目にはただの旅の少女にしか見えない。
「町の人たちは、セイラを恐れるように見ていましたもの。……この町の教会には、人々に怯えられるような『何か』があるに違いありません」
エリーの言葉に、カイトの脳裏に不穏な予感がよぎる。
前回の村で見られた「弱者救済」の温かい現場とは真逆の、冷え切った教会の対応と町の拒絶。
カイト達一行は、図らずもその町に深く渦巻く、教会の「本物の闇」の入り口にいた。
「――えっ!? き、教会にはお泊まりにならないのですか……?」
立ち寄った宿屋の受付で、シスター服のセイラを見た店主は、あからさまに驚愕した表情を浮かべた。
その怯えるような過剰な反応に、カイトは確信する。やはり、この町の教会には「何か」がある。
カイトは努めて穏やかな笑みを浮かべ、店主を安心させるように首を振った。
「ええ。こちらのシスターはただの旅の仲間でして、この町の教会とは一切関係がないんです。……店主さん、ぶっちゃけて聞きますけど、この町の教会って一体何が起きているんですか?」
「そ、そんなこと、私のようなしがない宿屋が知るわけないでしょう! さあ、部屋の鍵を渡しますから、余計な詮索はしないでください!」
店主はサッと目をそらし、明らかに話を渋って口を閉ざそうとした。
ここで引き下がっては、町の闇に押し潰されるだけだ。
カイトは自慢の頭脳を回転させ、ハッタリ交じりの説得を試みることにした。
店主に一歩近付き、声を潜めて真剣な眼差しを向ける。
「店主さん、怖がるのは分かります。でも、俺たちにはちょっと『特殊な伝手』がありましてね。もし仮に、あの教会が裏で何か不当な悪事を働いているのだとしたら……俺たちが、その状況を変える力になれるかもしれないんです。これ以上、町の人たちが怯えなくて済むように」
カイトの堂々たる言葉(半分は教皇がここにいるという本物の伝手だが、半分はただのハッタリである)に、店主はごくりと息を呑んだ。
カイトの背後に佇むセイラや、エリー、そしてニコラの真剣な表情を見比べ、やがて店主は諦めたように肩を落とした。
「……絶対に、私から聞いたとは誰にも言わないでくださいよ。もしバレたら、うちの店はおしまいだ……」
何度も周囲をそわそわと見回した後、店主は消え入りそうな声で、この町の悍ましい実態を話し始めた。
「この町ではね……あの教会から、たまにシスターが何人かゾロゾロと出てきて、町をじっくりと見て周るんですよ。そして……そのシスターたちの目に留まった『若い男』が、そのまま教会へ連れて行かれてしまうんです」
「若い男、ですか……?」
セイラが不審そうに眉をひそめる。
「ええ。それもね、特に『見た目の良い若い男』なら、まず間違いなく標的にされて連れて行かれる。それだけじゃない、街頭でそのシスターたちに少しでも無礼を働いたり、逆らったりした奴も、容赦なく生贄のように引っ立てられていくんだ……」
「……それで、連れて行かれた人たちはどうなるの?」
ニコラが尋ねると、店主の顔は一層青ざめ、恐怖にガタガタと震えだした。
「……誰一人として、帰ってこない。どこへ移送されたのか、それとも中で何が起きているのか、誰も知らないままだ。だからこの町じゃあ、好き好んで教会に近づく奴なんて、誰一人としていやしないんですよ……!」
店主の話が終わり、宿のロビーに重苦しい沈黙が降り立つ。
見た目が良いという理由だけで若い男を拉致し、二度と帰さない教会。
その歪んだ悪行の輪郭が見えた瞬間、カイトたちの脳裏に、かつて大聖堂で私腹を肥やしていた神父の影が重なった。
「……なるほど。弱者救済を掲げる教会が、この町ではただの『人攫いの巣窟』になっているわけですか」
セイラの声は、静かだが怒りで凍りついていた。
そして、カイトは自分の顔をそっと手で覆った。
(……待てよ。『見た目の良い若い男』が確実に狙われる? ってことは、この中で対象になるのって、どう考えても俺一人だけじゃねえか……!?)
図らずも、この教会の闇の「絶好の獲物」としてラインナップされてしまったカイト。
カイト達一行は、宿屋の店主の警告を胸に、最悪の誘拐事件の渦中へと足を踏み入れていくのだった。
教会の地下深くに隠された、薄暗く豪奢な部屋。
そこは、シスター・バルバラの私室であった。
部屋の空気は、違法植物特有の甘く悍ましい香気で満ちている。
肥満した体をソファーに沈めたバルバラは、目の前で跪く配下の神官から報告を受けていた。
「――ほう? 旅のシスターが、この町の教会を訪ねてきたと?」
「はっ。日中に人手を求めてやってまいりました。さらに、そのシスターの連れには、なかなかに見栄えの良い若い男がいたとのことで……。現在は教会の手を出せぬ、町外れの宿に泊まっているようです」
報告を聞いたバルバラは、肉に埋もれた醜悪な顔を歪め、耳障りな声をあげて下卑た笑みを浮かべた。
「ひっひっひ! それは素晴らしいねぇ。最近は町にも骨のある男がいなくて退屈していたところさ。若くて、美しい男が絶望に顔を歪めて苦しむ姿は、何度見ても飽きないからねぇ……! よし、早速明日、その男をここに引っ立てておいで!」
「御意に」
翌日の早朝。カイトたちが泊まる宿のロビーには、朝日が昇るのとほぼ同時に、バルバラの指示を受けた冷酷な目つきのシスターたちが乱入していた。
シスターの一人がカイトの前に立ちふさがり、感情の消えた声で告げる。
「旅の者よ。あなたに神のお告げがありました。今すぐ私たちと共に、教会へ付いて来てもらいます」
あからさまな拉致の要求。
カイトはあえて落ち着いた態度を崩さず、ふっと息を吐いてシスターを見据えた。
「……へえ。もし、俺がそれを断ったらどうなるんです?」
「神の意志に背くというのであれば、相応の報いを受けていただきます。あなたの不敬のせいで、そちらの仲間や、あなたを匿ったこの宿に、凄惨な『神罰』が下ることになるでしょう」
それは、あからさまな脅迫だった。
断れば、この宿の店主や、セイラたちにまで害が及ぶ。
(何をするつもりか知らんが、ここは大人しく言う通りにするしかないようだな……)
カイトは心の中で現状のパワーバランスを即座に計算した。
実は、昨晩のうちにカイトたちは宿の部屋で作戦会議を開いていた。
店主から聞いた話から、カイトが「見た目の良い若い男」として目をつけられる可能性は極めて高いと踏んでいたのだ。
『もし俺が連れて行かれたら、とりあえず抵抗せずに中に入り込んでみる。教会が裏で何をしてるのか、どういう状況か調べてみるつもりだ。外のことはお前らに任せる』
そう、仲間たちに語ってあった。
カイトは、背後に控えるセイラ、エリー、ニコラの3人へ向けて、そっと合図の目配せを送る。
(予定通りだ。泳がせて、中の尻尾を掴む。……外のバックアップは頼んだぞ!)
セイラは怒りに拳を握りしめつつも、カイトの意図を察して小さく頷き、エリーとニコラも真剣な眼差しでカイトの背中を見つめた。
「分かりましたよ。教会のお偉い様のお呼び出しだ、大人しく付いていきますよ」
カイトはわざとらしく両手を上げ、冷酷なシスターたちの先導に従って歩き出す。 自慢のハッタリと科学の知恵を持つカイトは、肥大化した教会の闇の心臓部、バルバラの待つ地下室へと、自ら囚人として足を踏み入れていくのだった。
早朝の冷たい空気の中、カイトは冷酷なシスターたちに前後を挟まれ、町の中心にある教会へと連行されていた。
その様子を、教会の向かいにある建物の物陰からじっと見つめる三つの影――セイラ、エリー、ニコラがいた。
(カイトさん……どうかご無事で……)
(旦那様、無茶はなさらないでくださいね)
祈るように手を握りしめる二人。
その隣で、ニコラはカイトの意図を正確に読み解いていた。
カイトの持ち物はすべて没収され、今や丸腰の檻の中。だが、彼はこの窮地をただのピンチで終わらせる男ではない。
薄暗い聖堂へと足を踏み入れた瞬間、カイトは背後でパチンと指を鳴らすブラフを仕込みつつ、頭の中で固有魔法を起動した。
(――『イリュージョン』。対象はエリー!)
カイトの固有魔法は「対象一人の視覚情報を完全操作する」能力だ。
本来は幻覚を見せて敵を騙すためのものだが、カイトはこの応用として「今、自分が現実に見ている視覚情報」をそのままエリーの脳内へと送り込み、リアルタイムで共有したのである。
(わわっ!? 旦那様の視界が、私の頭の中に直接流れ込んできました……!)
(エリー、静かに。カイトさんからのメッセージです、集中して状況を把握しましょう)
脳内で共有されるカイトの視界。
カイトはシスターたちに連れられながら、わざとらしく視線をキョロキョロと動かし、教会の構造を徹底的に網羅していった。
聖壇の裏にある隠し扉――それが地下への入り口。
見張りの神官は入り口に二人、通路の曲がり角に一人。
地下へと続く階段を下りるにつれ、すれ違う不気味な神官の数や、地下の気配をエリーへと克明に送り届ける。
やがてカイトが連れて行かれたのは、地下に広がる、妙に広い石造りの不気味な空間だった。
天井からは怪しげなランプが吊るされ、部屋の奥には、紫色の怪しげな植物が大量に栽培されているのが見える。
「ひっひっひ……! よくおいでだねぇ、新しいお人形さん」
部屋の奥の豪華な椅子から、肉の塊のような巨体を揺らし、一人の醜悪な女シスターが立ち上がった。
年齢は45歳ほど、脂ぎった顔に歪んだ笑みを浮かべた彼女こそ、この町の闇の元凶――シスター・バルバラだった。
カイトは周囲を見回し、あえて不敵な態度でバルバラを見据えた。
「――へえ。あんたがここのボスか?」
「いかにも。私がこの町を裏から統治する、シスター・バルバラさ」
「丁寧な自己紹介どうも。じゃあついでに教えてくれよ。今まであんたが連れ去った町の若い男たちはどうしてる? それから……俺をどうするつもりだ?」
カイトの質問に、バルバラは肉に埋もれた目を細め、下卑た声をあげた。
「どうしてる、だって? ひっひっひ! 決まっているじゃないか。私の可愛いお庭(地下農園)で、死ぬまでたっぷり働いてもらっているのさ。……もちろん、あんたもだよ。その若い綺麗な顔が、絶望と苦痛でどんな風に歪むか、今から楽しみで仕方がなくてねぇ!」
バルバラが短く手を叩くと、部屋の壁際に佇んでいた数人の若い男たちが、のそりと前へ進み出てきた。その目は完全に虚ろで、焦点が合っていない。
「さあお前たち、その新入りを床に組み伏せなさい! じっくりと私の『お薬』を飲ませてあげるからねぇ!」
男たちが一斉にカイトへ向かって掴みかかろうと動く。
(チッ、流石にこの人数に組み伏せられたらマズいな……!)
カイトは即座に判断を下した。エリーへの視覚共有を解除。
次の瞬間、一番手前に迫っていた男の目を真っ直ぐに見つめる。
(――『イリュージョン』! とりあえず俺を見失ってもらおうか!)
いつものように指を鳴らし、男の視界を完全に塗り替えた――はずだった。
しかし。
「……ッ!? なんだ、これ……!?」
カイトは目を見開いた。
イリュージョンをかけられたはずの男は、視界を奪われているはずなのに、一切の戸惑いも、速度を落とすこともなく、虚ろな目のままカイトの胸ぐらを掴もうと正確に腕を伸ばしてきたのだ。
カイトの固有魔法が、目の前の男には完全に『通用していない』。
一方その頃、地上。
「――あっ、旦那様の視界の共有が、途切れました!」
教会の物陰で目を閉じていたエリーが、ハッと顔を上げた。
それが、カイトが戦闘行動に移った、あるいはピンチに陥ったという「突入の合図」だ。
「……そこまでです。これ以上の猶予はありません」
セイラが静かにフードを被り、その美しい瞳に冷徹な光を宿す。
「カイトの没収された荷物は私が回収する。二人はカイトのサポートを。……行くよ!」
ニコラが鋭く指示を飛ばすと同時に、三人は一寸の迷いもなく、カイトの残した視覚情報を頼りに、教会の地下へと怒涛の勢いで突き進み始めるのだった。
「右の角に一人! その先、階段の手前に二人ですわ!」
「了解です、エリー!」
カイトが『イリュージョン』で共有した記憶を頼りに、エリーが後方からナビゲートを飛ばします。
その前を駆けるセイラは、まさに戦場の聖女。
行く手に立ち塞がる神官たちの懐へ一瞬で潜り込むと、無駄のない掌打や手刀で、声をあげる暇すら与えず瞬時に意識を刈り取っていきました。
しかし、カイトのいる地下の広間へ繋がる大通路に差し掛かったその時、二人の歩みがピタリと止まります。
薄暗い通路の奥から、のそりと姿を現したのは十数人もの若い男たちの集団。
その全員が、生気を失った虚ろな目をしていました。
「……退いてください!」
セイラは躊躇なく踏み込み、先頭の男の顎へ容赦のないアッパーを叩き込み、脳震盪を起こさせて床へ転がします。
普通の人間ならこれで確実に気絶するはずの一撃。しかし――。
「……嘘、でしょ……?」
床に倒れた男は、まるで痛みを感じていないかのように、ガタガタと関節を鳴らしながらゆっくりと起き上がってきたのです。他の男たちも、傷つくことを恐れぬ異常な足取りで、じりじりと距離を詰めてきます。
「この人たち、意識がありません……! これ以上強い衝撃を与えたら、本当に命を奪ってしまいます……っ!」
元暗殺者であるが、今は不殺を誓ったセイラの手が、強い葛藤で初めて怯みました。
無抵抗な町の人々を手に懸けるわけにはいかない――その優しさを突いた、最悪の肉壁。
「だったら、私の出番だね! 二人とも、ちょっと下がってて!」
そこへ、カイトの荷物を無事に回収したニコラが追いついてきました。
ニコラは手にした鞄から、不気味に明滅する自作の魔導具――『広範囲高周波スタン・グレネード』を取り出すと、男たちの足元へ思い切り投げつけました。
――キィィィィィィン!!
通路に響き渡る激しい高周波と魔力の衝撃波。
薬物で痛覚が麻痺している男たちも、三半規管を直接揺さぶる物理的な振動には抗えず、糸の切れた人形のように一斉にその場へ崩れ落ち、拘束されたように身動きが取れなくなりました。
「ふぅ、間に合った……。ちょっとごめんよ」
ニコラは倒れた男たちの一人に駆け寄り、その胸元に手を当てて固有魔法『スキャン』を発動させます。
魔力の流れを読み取るニコラの脳内に、酷く歪んだ不協和音が流れ込んできました。
「……ひどい。魔力のバイパスが、薬物か何かでガタガタに狂わされてる。自分の意識じゃなくて、外部からの魔力の強制命令だけで無理やり動かされてるんだ、これ」
「魔力がガタガタに……? ――なら、私にお任せくださいな!」
男たちの悲惨な状態を見たエリーが、力強く一歩前に出ました。
「魔力の微細な『操作と調律』だけなら誰よりも得意ですわ! 私がここに残って、彼らの狂った魔力を整えてみせます。セイラさんは、一刻も早く旦那様のところへ!」
「エリー……! わかりました、ここは任せます!」
ライバルであり、最高の友人となったエリーとニコラに背中を預け、セイラは再び風のように通路の奥へと駆け抜けました。
一方、地下の広間。
カイトは絶体絶命の窮地に立たされていました。
目の前の虚ろな男に『イリュージョン』をかけたにもかかわらず、男は一切怯むことなくカイトの胸ぐらを掴もうと迫ってきたのです。
(チッ! 幻覚を脳が認識してねえ……! ってことは、こいつ自身の意識はここにない!)
カイトは即座に思考を切り替え、男への魔法を解除。
次の瞬間、部屋の奥で醜悪な笑みを浮かべている元凶――シスター・バルバラへと視線を走らせました。
(――『イリュージョン』! 俺の『偽の位置情報』をあのクソババアの脳内に叩き込む!)
カイトが魔法を発動した瞬間、バルバラの視界の中で、カイトの体が右側へ3メートルほど瞬間移動したかのように錯覚させます。すると――。
「そこだ! 逃がすんじゃないよ、捕まえなさい!」
バルバラが右側を指差して叫んだ瞬間、カイトを追い詰めていた男たちが、一斉に向きを変えて「誰もいない右側の空間」へと襲いかかり、虚空を必死に組み伏せ始めました。
カイトはその隙に、素早く左側の壁際へと文字通りステップを踏んで退避します。
「ハッ、やっぱりな……!」
冷や汗を流しながらも、カイトの唇がニヤリと不敵に歪みました。
「操り人形の糸を引いてるのは、やっぱりあのクソババア本人か。本体の視覚さえ狂わせちまえば、命令が狂って人形の動きも丸ごとバグるってわけだな!」
敵の不気味な固有魔法の「絶対的なルール」と「攻略の糸口」を、天才的な戦術眼で見抜いたカイト。
しかし、同士討ちの期待出来ないこの状況ではカイトは攻め手に欠けていました。
(……さて、バルバラにかかけた『イリュージョン』が解ける前に、どうハッタリをハメ込むか……)
カイトが壁際で急速に冷えていく冷や汗を拭い、次なる知略を巡らせていた、その時だった。
「――そこまでです!」
地下室の重厚な扉が蹴り破られ、風を纏ったセイラが鮮やかに躍り出てきた。
その姿を見たカイトの顔に、一気に勝ち誇った笑みが戻る。
「セイラ! 来るのが最高にジャストタイミングだ!」
「カイトさん、ご無事ですか!?」
「ああ! セイラがいるなら話は早い。あのクソババアの視覚は、今俺の魔法で完全にジャックしてる。――そのまますり抜けて、一撃でぶっ飛ばしちまってくれ!」
「了解しました!」
カイトはバルバラにかけたイリュージョンを維持し、バルバラの視界から「突入してきたセイラの姿」だけを綺麗に消し去った。
バルバラから見れば、誰もいない虚空から突如として見えない衝撃が飛んできたに等しい。
「え? な、何が起きて――ぶふぇっ!?」
完璧な死角、というより認識すらしていない空間から放たれたセイラの電光石火の掌打が、バルバラの分厚い肉の顎へと正確に炸裂した。
巨体が文字通り宙に浮き、バルバラは白目を剥いて床へと激しく転がると、そのままピクリとも動かなくなった。
糸を引いていたバルバラが意識を失ったことで、バルバラの魔法で操られていた男たちも一斉にその場に倒れ込み、完全な沈黙が訪れた。
その後、バルバラの巨体を頑丈なロープでこれでもかと拘束した一同。
「私は地上の騎士団を呼んできます。ニコラ、エリー、彼らをお願いします」
セイラがすぐに地上へと駆け戻り、入れ替わりで地下へ降りてきたニコラとエリーが、倒れている男たちの治療を急ピッチで進めていく。
カイトが没収されていた荷物を受け取って一息ついていると、床に転がっていたバルバラが「う、うう……」と醜い呻き声をあげて意識を取り戻した。
バルバラは自分が拘束されていることに気づくと、肉に埋もれた顔を真っ赤にしてカイトたちを睨みつけた。
「ぎ、ぎぎぎ……! おのれ、よくも私をこんな目に……! だがねぇ、私を捕まえたところで無駄だよ! 私には多くの大物貴族たちとの強固なコネがあるんだ! なんなら、この国の最高権威である教皇様に直々に取りなしてもらうことだってできるのさ! 捕まったところで、私はすぐに釈放されるんだよ!」
負け犬の遠吠えのように、自身の社会的影響力をこれみよがしに自慢するバルバラ。
すると、すぐ近くで若い男の頭に手を当て、優しく魔力を整えていたエリーが、作業の手を止めることなく、クスクスと楽しげに返事をした。
「あら、そうなんですの? では……そのような不条理なことが絶対に起きないように、私が上から厳命しておきますわね〜」
「はあ!? なんだいお前は、生意気な街娘が話に入ってくるんじゃないよ!」
バルバラが鼻で笑った瞬間、カイトが憐れみの目を向けながら、バルバラの耳元でそっと囁いた。
「おいおい、おばさん。あんたがさっきから必死に頼ろうとしてる、そのお偉い教皇様……、今あんたの目の前で、男たちを治療してるあの子なんだけど?」
「……は? なにをバカなことを――」
バルバラが凍りついたようにエリーを見つめる。
エリーはお忍び用の服のまま、にこりと微笑み、懐から純金製の『教皇の印章』をチラリと見せつけた。
それは紛れもない、本物の最高権威の証。
「ひっ……!? き、きき、教皇……エレオノーラ様……っ!?」
バルバラの顔から一気に血の気が引いた。自身のバックボーンが完全にへし折られたことを理解したバルバラは、絶望のあまり半狂乱になり、拘束されたまま狂ったように叫び散らした。
「あああああ! 舐めるんじゃないよ! だったらお前ら全員、ここで道連れさ! ――『マリオネット』!! 燃やせ! すべてを焼き尽くせぇぇぇ!!」
「なっ……!?」
バルバラの執念が、まだ治療の終わっていない数人の男たちの肉体を無理やり突き動かした。
男たちはゾンビのように立ち上がると、松明やランプを次々と手に取り、周囲に群生している乾燥した違法植物へと投げつけたのだ。
一瞬にして爆発的な炎が地下室を包み込む。
バルバラはその混乱に乗じ、拘束されたまま芋虫のように転がりながら、椅子の裏にあった隠し通路の穴へと滑り落ちて逃亡してしまった。
「カイト! 火の回りが早すぎる! 早く脱出しないと!」
ニコラが悲鳴をあげる中、周囲では未だに薬物で錯乱した男たちが炎の中へと飛び込もうとしていた。
「クソッ、あのババアを取り逃がしたか……! だが、今はこいつらを助ける方が先だ! 全員担いでズラかるぞ!」
カイトたちは決死の思いで、火をつけ回している残りの男たちを、治療を終えた男達と協力して抱え上げ、燃え盛る地下室から命からがら地上へと脱出した。
――ゴゴゴゴゴ……ッ!!
カイトたちが教会の外へと這い出た直後、激しい爆発音と共に、町の中心にそびえ立っていた教会が、激しい炎に包まれながら崩れ落ちていく。
夜空を赤く染める大火災を見上げながら、カイトは激しく咳き込んだ。
町の闇であったバルバラの教会は『光』によって灰燼に帰したが、多くの貴族と繋がる醜悪なシスターを取り逃がしたという不穏な火種は、カイトたちの旅路の行く手に、不気味な影を落とすのだった。




