第9話 黒の軍装ドレス
【虚像回廊】へ向かう前に、ヴェルトが一つだけ寄り道を提案した。
「その格好で行くつもり?」
【歪曲街】の外れまで来たところで言われ、アリスは自分の身体を見下ろした。
「何か問題があります?」
「問題しかないよ、お嬢様」
ヴェルトは呆れたように指を折る。
「まず手枷。次にその服。最後に、剣を裸で持ち歩いてること」
言われてみればその通りだった。
処刑台から落ち、そのまま鏡界を歩き続けていたため、アリスはまだ処刑時の衣装を身につけている。
簡素な白い囚人服には汚れと血がつき、両手首を繋ぐ鎖の手枷も残ったままだ。
【グラス・ヴェリタス】に至っては鞘すらなく、必要のない時には透明な刀身を消しているとはいえ、武器としての携行性は最悪だった。
「手枷は忘れていました」
「普通、最初に気にするところじゃない?」
「慣れました」
「慣れちゃ駄目だよ」
ヴェルトが連れてきたのは、【価値時計】が止まったことで半ば閉店状態になっている古着屋だった。
店内には服だけでなく、鎧、靴、鞄、武器まで雑然と積まれている。
「街の仕組みを壊したお詫びに、好きなものを持っていっていいって」
「本当に店主が言ったんです?」
「僕がそう解釈した」
「盗品では?」
「細かいなあ」
「帰ります」
「待って待って! ちゃんと後で払うから!」
アリスは疑いながらも店へ入った。
まず手枷を外すことにした。
「鍵は?」
ヴェルトが尋ねる。
「司法府が持っているのでは?」
「なら壊すしかないな」
ルシアンが鎖を掴んだ。
「待ってください。手首ごと持っていく気ですか?」
「加減はする」
「あなたの加減を信用できません」
「さっきまで俺に命を預けてただろうが」
「それとこれは別問題です」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を出現させた。
透明な刀身へ手枷を近づける。
これまで術式の前提を斬ってきた剣なら、鉄そのものを断つ必要はない。
手枷に刻まれた司法府の術式へ意識を向けると、右目に薄い文字が浮かんだ。
――PRISONER.
囚人。
手枷は、拘束された者を「罪人」と定義することで強度を維持している。
アリスは思わず笑った。
「ここまで徹底してますね」
「何がだ?」
「私を罪人だと決めつけることで成立している」
透明な刃を鎖へ触れさせる。
「もう結構です」
小さく振り抜いた。金属を断った感触はない。
それでも【PRISONER】の文字が割れ、手枷は役目を失ったように床へ落ちた。
久しぶりに自由になった両手首には、赤黒い痕が残っていた。
アリスはしばらくそれを見つめる。
処刑台へ上がった事実は消えない。
冤罪だったからといって、恐怖も、屈辱も、死にたくないと思った自分もなかったことにはならない。
次は服だった。店の奥を探していたアリスは、一着の黒い衣装の前で足を止める。
軍装を思わせる細身の上衣と、腰から広がるドレスを組み合わせたような服だった。
胸元は高く閉じられ、肩と腰には軽量の防具を取りつけられる構造がある。
長いスカートには左右へ深い切れ込みが入り、その下には脚の動きを妨げない黒いショートパンツが仕込まれていた。
装飾は少ない。だが銀糸で縁取られた黒布は、光を受ける角度によって鏡のような艶を見せる。
「それ?」
ヴェルトが覗き込む。
「動きやすそうです」
「お嬢様なのに、服を選ぶ基準がそこなんだ」
「これからも戦う予定がありますので」
「可愛いとか綺麗とかは?」
「必要なら後から考えます」
店の奥で着替え、黒い編み上げのロングブーツまで合わせて戻る。
三人が一瞬黙った。
「何です?」
アリスが眉を寄せる。
「いや」
ヴェルトが顎へ手を当てた。
「思ったより似合うなって」
「思ったより、は余計です」
「死刑囚には見えなくなった」
ルシアンが言った。
「褒めています?」
「一応」
「一応、受け取っておきます」
泣き笑い仮面だけは何も言わなかった。
右半分が笑い、左半分が泣く仮面の奥から、じっとアリスを見ている。
「何です?」
「……いや」
「今、何か知っている反応をしましたね」
「気のせいだよ」
「最近、あなたの『気のせい』を信用しないことにしています」
仮面は答えなかった。
アリスは追及を諦め、【グラス・ヴェリタス】を出す。
すると店の壁に立てかけられていた一本の鞘が、淡く光った。
「これは……?」
黒革で覆われた細身の鞘だった。
装飾はほとんどない。ただ、口金だけが透明な硝子のような素材で作られている。
【グラス・ヴェリタス】を近づける。
鞘の形が僅かに変わった。
「合わせてる?」
ヴェルトが驚く。
アリスが刀身を収めると、最初からそのために作られていたかのように完全に収まった。
「便利ですね」
「感想それだけ?」
「では、格好いいです」
「言わせたみたいになったなあ」
鞘を腰へ装着する。
黒い軍装ドレスと透明な剣。
鏡に映った自分は、数時間前まで処刑台にいた侯爵令嬢とはまるで違って見えた。
けれど、別人になったわけではない。
処刑台で笑った自分も、怖くて震えた自分も、今ここにいる自分も、すべて同じアリス・フォン・ルーヴェルトだ。
「悪くありません」
アリスは鏡の中の自分へそう告げた。
次にルシアンに言った
「あなたも剣がないでしょう」
「分かってる」
彼が店内を探し始める。
やがて、武器の山の最下部から一本の大剣を引き抜いた。
古い。
刃には細かな傷が走り、黒ずんだ鍔にも装飾らしい装飾はない。
だが両手で扱うことを前提とした刀身は長く厚く、処刑人が振り下ろすための武器らしい無骨な重量感がある。
ルシアンが一度だけ振る。空気が低く唸った。
「重そうですね」
「前のより少し重い」
「使えます?」
「剣は斬れればいい」
「どこかの傭兵みたいなことを言いますね」
「誰だ、それは」
「何でもありません」
ルシアンは刃を確かめる。
「古いが、芯は死んでない。断罪剣だ」
「こんなところに?」
「昔、王国で使われていた型だ。今の騎士団では廃式になってる」
「では、それにします?」
「しばらくはな」
ルシアンが大剣を背負う。
黒銀の鎧と古びた断罪剣。
新品の武器よりも、妙に彼には似合っていた。
「これで戦えますね」
アリスが言う。
「戦わずに帰れる可能性は考えないのか」
「【鏡界 ミラージュ】へ落ちてから、その可能性はかなり低く見積もっています」
「同感だ」
ヴェルトが両手を広げる。
「お嬢様は剣、騎士様も剣、僕はカード。なかなか冒険者らしくなってきたんじゃない?」
「誰が冒険者ですか」
「じゃあ何?」
アリスは少し考えた。
死刑囚ではない。逃亡者とも違う。
自分の無実を証明し、判決を作った者を見つけ、この世界から帰る。
まだ、それに名前をつける必要はない。
「アリス・フォン・ルーヴェルトです」
腰の【グラス・ヴェリタス】へ手を置く。
「今は、それで十分でしょう」
泣き笑い仮面が、ほんの僅かに顔を伏せた。
まるで、その黒い姿がいずれ何と呼ばれるのかを、彼だけはすでに知っているかのように。
アリスは気づかないふりをして、店の扉を開いた。
死刑囚の白い服と壊れた手枷を残し、黒い軍装ドレスと透明な剣を身につけた少女が、【歪曲街】の外へ踏み出す。
この時はまだ、誰もその姿を【黒鏡姫】とは呼ばなかった。




