第8話 結論は出ています
父の姿が映った鏡を前にして、アリスは動けなかった。
侯爵家の書斎にいる父は、最後に見た時よりずっと老けて見える。
机には娘の死刑判決書が広げられ、その周囲を司法府から届いたらしい書類が埋め尽くしていた。
会いたい。
声を聞きたい。
自分はまだ生きていると伝えたい。
その思いが強くなるほど、頭上の天秤は右へ傾いていく。
右の皿には父の現在と、判決改竄の真相。左の皿には【グラス・ヴェリタス】。
「剣一本だよ」
ヴェルトが言った。
「君が本当に欲しいものを二つも手に入れられる。悪い取引じゃないと思うけど?」
「アリス」
ルシアンの声が聞こえる。
「俺の意見は聞くな。お前が決めろ」
止めるのでも、背中を押すのでもなかった。
だからこそ、アリスは少しだけ救われた。
「分かっています」
自分で決める。
そのために考える。
アリスは父から目を逸らさず、【グラス・ヴェリタス】を握った。
「一つ確認していいですか?」
「どうぞ」
「この映像が本物だという保証は?」
「ない」
ヴェルトは即答した。
「正直ですね」
「善良な詐欺師だからね」
「その肩書き、本当に便利ですね」
アリスは天秤を見上げる。
「では、判決改竄の記録は?」
「それも、君が見て本物か判断するしかない」
「つまり私は、本物かどうか分からない情報と引き換えに、この剣を渡すことになる」
「取引なんてそんなものだよ。未来の価値まで保証できる商人はいない」
そこだけは正しい。
選択する時、人は結果を完全には知らない。
名前を売った少女も、弟が自分を忘れるところまで理解していたかは分からない。
それでも彼女は、弟を救うために薬を選んだ。
問題は選んだことではない。
アリスは右目に魔力を流し込む。
蒼い瞳に、熱とともに【マッド・ディール】の構造が浮かび上がる。
――DESIRE.(欲望)と、――VALUE.(価値)
そして天秤の中央にある、もう一つの条件。
――EQUIVALENT EXCHANGE.
等価交換。
異なるものを同じ尺度へ変換し、釣り合った時に交換を成立させる。
「やっぱり、おかしいですね」
ヴェルトが眉を上げた。
「何が?」
「この天秤です」
「今さら?」
「今だからです」
アリスは父の映像を指した。
「お父様が無事か知りたい。判決を改竄した人間も知りたい。《グラス・ヴェリタス》も手放したくない。全部、本当です」
「欲張りだね」
「侯爵令嬢なので」
「関係ある?」
「たぶんありません」
ルシアンが後ろで息を吐いた。
アリスは構わず続ける。
「でも、どうしてそれらを一つの天秤に載せなければならないんです?」
ヴェルトの笑みが、ほんの少し薄くなった。
「取引だからだよ」
「それが答えになっていません」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を持ち上げた。
「父親の安否と剣一本。冤罪を晴らす真実と、自分の未来。弟の命と姉の名前。それぞれ意味が違うのに、あなたの術式は全部を一つの『価値』へ変換して比較する」
「比較できなきゃ交換できない」
「それなら、交換できないものがあってもいいでしょう」
天秤が軋んだ。
「人間はいつだって何かを選ぶよ」
「ええ。でも、選ぶことと値段をつけることは同じではありません」
アリスは、名前を失った少女を見る。
彼女は今も少し離れた場所で、取り戻せない自分の名前を探すようにこちらを見ていた。
「あの子は弟の命に自分の名前と同じ値段をつけたわけじゃない。ただ、どちらも失いたくない状況で、弟を救う方を選んだんです」
選択には痛みがある。
何かを選べば、何かを諦めることもある。
けれど、諦めたものの価値が低かったことにはならない。
「選ばなかったものは、価値が低いんじゃありません」
アリスは静かに言った。
「選べなかっただけかもしれない。守れなかっただけかもしれない。それを後から勝手に数字へ直して、『こちらの方が安かった』なんて決めるのは間違っています」
街中の値札が震えた。
ヴェルトはもう笑っていなかった。
「じゃあ、どうするの?」
「何がです?」
「君のお父上と真実。欲しいんだろ?」
「欲しいですよ」
「でも剣も渡したくない」
「ええ」
「全部欲しいなんて、取引にならない」
「だから、取引しません」
ヴェルトが目を細める。
「真実を諦める?」
「いいえ」
「父親も?」
「諦めません」
「だったら何を払うのさ」
アリスは剣先を天秤へ向けた。
「何も」
一瞬の沈黙が落ちた。
「それは商売じゃないよ」
「私は客になった覚えがありません」
「情報は欲しいんだろ?」
「自分で探します」
「王都へ帰る道も?」
「見つけます」
「できる保証は?」
「ありません」
「失敗するかもしれない」
「そうですね」
「それでも?」
アリスは父の映像を見た。
胸が痛む。
今すぐ剣を渡せば、父について何か分かるかもしれない。判決の真相にも近づけるかもしれない。
それを手放すのは怖かった。
だからこそ、自分で決めた。
「分からない未来を選ぶ権利まで、値段にはしません」
【グラス・ヴェリタス】が光を帯びる。
右目に浮かんだ【EQUIVALENT EXCHANGE】の文字から、無数の線が天秤と街中の値札へ伸びていた。
異なるものを一つの尺度へ変換する。
比較する。交換させる。
それが【マッド・ディール】を成立させている。
「見つけました」
アリスが踏み込む。
ヴェルトは黒いカードを構えた。
「【マッド・ディール】!」
何十枚ものカードが宙へ舞い、アリスの周囲に値札が現れた。
『侯爵令嬢』
『死刑囚』
『冤罪被害者』
『グラス・ヴェリタス所有者』
『帰還希望者』
それぞれに異なる価格が書き込まれていく。
「人間にまで値札をつけないでください!」
アリスは走った。
カードが刃のように飛来する。
一本目を剣で弾き、二枚目を身を沈めて避ける。
三枚目が肩を掠めると、その場所へ『負傷――価値低下』という文字が浮かんだ。
「失礼ですね!」
「市場は正直なんだ!」
「その正直さを疑っているんです!」
ルシアンが横から飛び込んできた。
武器を持たないままカードを手甲で受け、アリスへの進路を開く。
「行け!」
「ありがとうございます!」
「後で説明しろ!」
「私も今考えてます!」
「またか!」
アリスは天秤へ駆ける。
狙うのは皿ではない。
父の映像でも、判決のカードでもない。
異なるものを同じ価値へ変換し、比較できると決めている中心軸だ。
「待った!」
ヴェルトの声に、初めて焦りの響きが加わった。
「それを斬ったら街全体の相場が――」
「だから斬るんです!」
透明な刃を振り上げる。
「人の名前も、思い出も、大切な人も、全部同じ物差しで測って、選ばなかった方は価値が低かったことにする。そんな取引しかできないなら――」
左目の奥で因果が一本に重なる。
アリスは天秤の支点へ【グラス・ヴェリタス】を叩き込んだ。
「その物差しから、間違っています!」
透明な刃が【EQUIVALENT EXCHANGE】を断ち切った。
天秤が真っ二つに割れる。
同時に【価値時計】の針が停止した。
街中の値札へ亀裂が走り、白い光となって崩れていく。
露店から悲鳴が上がった。
瓶詰めにされていた記憶が持ち主へ戻り、売られた秘密が文字を失い、名前を記した紙が一斉に宙へ舞う。
その一枚が、少女の胸へ吸い込まれた。
少女が大きく息を吸う。
「……エマ」
自分の口からこぼれた言葉に、彼女自身が目を見開いた。
「私……エマ」
泣きながら笑った。
「エマだ……!」
アリスはようやく息を吐いた。
だが目の前には、まだヴェルトがいる。
【マッド・ディール】の黒いカードは中央から割れ、彼の指を離れて消えた。
「参ったなあ」
ヴェルトが帽子を押さえる。
「街の仕組みごと壊す人いる?」
「今ここにいます」
「弁償を請求したら?」
「お断りします」
「即答だね」
「結論は出ています」
アリスは【グラス・ヴェリタス】の切っ先を、ヴェルトの喉元へ突きつけた。
「あなたの負けです」
しばらく誰も動かなかった。
やがてヴェルトが両手を上げる。
「降参」
「随分あっさりですね」
「僕、勝てない賭けは続けない主義なんだ」
「では、約束した情報を」
「取引は断ったんじゃなかった?」
「あなたが勝手に私を試した迷惑料としていただきます」
「それ、強盗の理屈だよ」
「司法府へ訴えます?」
「君、そこから死刑判決を受けてなかった?」
「では問題ありませんね」
「何が?」
ヴェルトは呆れたように笑い、それから帽子の内側へ手を入れた。
だが取り出したのは、司法府のカードではなかった。
一枚の白紙だ。
「さっきの記録、偽物だったんですか?」
「半分だけ」
アリスの眉が動く。
「どういう意味です?」
「判決書について情報を持っているのは本当。でも、差し替えた犯人までは知らない」
「では、お父様の映像は?」
「本物。少なくとも君が処刑台へ上がった後も生きている」
胸の奥にあった重いものが、少しだけ軽くなった。
「……そうですか」
それ以上の言葉が出なかった。
ルシアンは何も言わず、少し離れた場所で待っている。
ヴェルトも、その時だけは茶化さなかった。
「どうしてこんなことを?」
アリスが尋ねる。
「何が?」
「私を試したことです。街の仕組みが壊れる可能性まであったのに」
ヴェルトは止まった【価値時計】を見上げた。
「壊したかったから」
アリスは目を細める。
「あなた、この街が嫌いなんですね」
「便利ではあったよ」
「答えになっていません」
「じゃあ、こう言おうかな」
ヴェルトは帽子を深く被り直した。
「人の価値を勝手に決める街は、商売の場として最低だった」
「自分も利用していたのに?」
「だから僕は善良じゃなくて、善良な詐欺師なんだよ」
「意味が分かりません」
「僕もたまに分からない」
泣き笑い仮面が笑った。
「素直に、自分では壊せなかったと言えばいいのに」
「うるさいなあ、仮面」
「帽子屋よりは素直だよ」
「誰が帽子屋だ」
「君」
「勝手に決めないでくれる?」
アリスは二人を見比べた。
「知り合いなんですよね?」
「残念ながら」
「僕も同じ気持ちだよ」
ヴェルトは肩をすくめると、アリスへ向き直った。
「ところでお嬢様。次はどこへ行くつもり?」
「王都へ帰る道を探します」
「具体的には?」
「これから考えます」
「だったら俺を雇わない?」
「嫌です」
「即答!?」
「詐欺師でしょう」
「案内人でもある」
「泣き笑い仮面さんと被っています」
「そいつより役に立つよ」
「失礼だなあ」
「じゃあ条件をつける」
ヴェルトが人差し指を立てた。いつの間にか一人称も『俺』に変わっている。
「金はいらない。食事代は割り勘。僕はこの世界の道と相場と危険な連中を教える。その代わり、君がどこまで行くのか見せてほしい」
「なぜ?」
「面白そうだから」
「信用できません」
「それと」
ヴェルトは笑みを消した。
「君が探している判決書について、俺が知っていることは全部話す」
アリスは考えた。
信用はできない。
だが、信用できないことを隠して近づいてくる人間よりは扱いやすい。
「一つ条件があります」
「何?」
「仲間を売らないこと」
ヴェルトが瞬きをした。
「私たちの情報、名前、記憶、居場所。何であっても、本人の同意なく取引しないでください」
「破ったら?」
アリスは《グラス・ヴェリタス》を見せた。
「次は天秤ではなく、あなたを斬ります」
「怖いお嬢様だなあ」
「返事は?」
ヴェルトは帽子を取り、芝居がかった一礼をした。
「契約成立。仲間は売らない。俺の数少ない商売上の原則にしよう」
「今作ったでしょう」
「ばれた?」
「顔に書いてあります」
ルシアンが疲れた声を出した。
「本当に連れていくのか」
「信用はしていません。でも使える情報は多そうです」
「本人の前で言うことか?」
「あなたも似たような理由で私についてきているでしょう」
「否定できんのが腹立つな」
泣き笑い仮面が銀の杖で、街の奥を示した。
「次へ進むなら【虚像回廊】を通ることになる」
「どんな場所です?」
「見えているものが、そこにあるとは限らない場所」
「また面倒そうですね」
「安心して、お嬢様」
ヴェルトが巨大なシルクハットを被り直す。
「そういう場所では詐欺師が一番役に立つ」
「一番信用できない人の間違いでは?」
「もう少し仲間に優しくしようよ」
「まだ仲間と認めたわけではありません」
「契約したのに?」
「案内契約です」
「細かいなあ」
アリスは歩き出した。
処刑人と、正体不明の仮面男と、信用できない詐欺師。
処刑台へ上がった朝。こんな一日になるとは、まったく想像もできなかった。
負の感情を吸い上げる異世界【鏡界 ミラージュ】
そこで、世界の魔法構造を読み解き、術式の前提を反転させる能力【INVERTED インバーテッド】を覚醒。
透明結晶のレイピア【Glass Veritas グラス・ヴェリタス】を手にした。
生きて王都に帰る。道はわからない。それでも、自分で選んだ。
誰かに正しいと言われたからではなく、間違える可能性まで含めて、自分で決めた。
アリスは止まった【価値時計】を一度だけ振り返る。
価値が何なのか、まだ答えは出ていない。
けれど、誰かが勝手につけた値段を、そのまま自分の答えにする必要はない。
それだけは、もう分かっていた。
そして次の街には、姿さえ世界から消してしまう少年が待っていることを、アリスはまだ知らなかった。




