第7話 嘘の値段
歪曲街に並ぶすべての値札が、アリスへ向いた。
露店だけではない。建物の壁にも、街灯にも、通りを歩いていた人々の胸元にまで白い札が浮かび、目まぐるしく数字が書き込まれていく。
ルシアンの胸にも一枚現れた。
『断罪騎士――銀貨四百二十枚』
「……随分と具体的ですね」
「見るな」
「私より高かったら少し腹が立ちます」
「張り合うところか?」
アリスは自分の胸元を見る。
『アリス・フォン・ルーヴェルト――測定不能』
「勝ちました」
「何にだ」
ヴェルトが吹き出した。
「お嬢様、本当に面白いね」
「こちらは楽しんでいません」
「そう言わずに。【MAD DEAL マッド・ディール】へようこそ」
黒いカードを掲げたヴェルトの背後で、【価値時計】が回転を始めた。
「この街では、欲しがられるものほど価値が上がる。食べ物でも宝石でも、名前でも人間でも同じだ。俺の【マッド・ディール】は、その価値を少しだけ分かりやすくして、取引できる形にする」
「人間まで?」
「王国だって同じだろう? 貴族には爵位、騎士には階級、商人には資産がある。数字を隠しているだけで、人はいつだって他人に値段をつけてる」
アリスは反論しなかった。
完全な間違いではない。
侯爵令嬢だった自分も、家名によって扱いが変わることを当然として生きてきた。
だが、それだけで人間のすべてが決まるとも思えない。
「それで、何をするつもりです?」
「取引だよ」
ヴェルトが指を鳴らす。空中に天秤が現れた。
左の皿には【グラス・ヴェリタス】の像。
右の皿には司法府の紋章が刻まれたカードが載る『判決改竄に関する記録』。
さらに二枚目。『王都への帰還経路』。
「剣一本で二つ。今なら破格だ」
「さっきより増えてません?」
「記録刻だからね。僕も奮発してる」
「詐欺師の『奮発』ほど信用できない言葉もありませんね」
アリスは天秤を観察した。
右目を意識すると痛みが走る。しかし先の戦闘時ほど鮮明には見えず、術式の表面に断片的な文字が浮かぶだけだった。
――DESIRE.
欲望。
――VALUE.
価値。
その二つが一本の線で結ばれている。
「欲しいものほど価値が高い」
「正解」
ヴェルトが笑う。
「だから君にとって、今いちばん価値があるのは真実だ。冤罪を晴らしたい。犯人を知りたい。王都へ帰りたい。全部ここにある」
否定できなかった。
欲しい。
父が無事なのか確かめたい。
自分を処刑台へ送った人間を見つけたい。
判決を覆し、奪われた日常を取り戻したい。
その思いに反応するように右の皿が沈み、【グラス・ヴェリタス】の像が持ち上がった。
「ほら。君自身が、情報の方に価値があると思ってる」
「アリス、乗るな」
ルシアンが言った。
「分かっています」
「その顔は分かってない」
「どういう顔です?」
「欲しがってる顔だ」
「それは否定しません」
アリスは天秤から目を逸らさなかった。
欲しいからこそ、急いではいけない。
その時、通りの向こうで騒ぎが起きた。
「返して!」
聞き覚えのある声だった。
薬を買うために名前を売った少女が、店主の腕へ縋りついている。
「お願い、返してよ!」
「契約は成立した」
「でも、弟が……!」
アリスたちは少女のもとへ駆け寄った。
彼女は泣いていた。
「どうしたんです?」
少女はアリスの顔を覚えていないらしく、怯えながらも答えた。
「弟に薬を持っていったの。でも、弟が私を見て、『誰?』って……」
アリスの胸が詰まった。
名前を売れば、他人の記憶からも少しずつ薄れる。
ヴェルトがそう説明していた。
「弟さんの薬は?」
「飲ませた。熱も下がった。でも私のこと、分からないって」
少女は自分の胸を握り締めた。
「私、何て名前だったの?」
店主が面倒そうに値札を示す。
「買い戻したいなら払え。今の相場は『大切な記憶、一つ』だ」
「名前を買い戻すために、自分の記憶を売れと?」
アリスが尋ねる。
「相場だ」
ヴェルトは口を挟まなかった。
アリスは少女を見る。
「それでも買い戻したいですか?」
少女は涙を拭った。
「分からない。でも、弟が助かったのはよかった」
「後悔していない?」
「してる。でも……薬を買わなかったら、もっと後悔したと思う」
その言葉を聞いた瞬間、アリスは【マッド・ディール】の天秤を振り返った。
違和感の正体が見えた。
「ヴェルトさん」
「何かな?」
「この子にとって、薬と名前ではどちらの価値が高かったんです?」
「取引した時点では薬だろうね。だから名前を払った」
「では今は?」
「名前を欲しがっている。なら名前だ」
「おかしいですね」
ヴェルトの笑みがわずかに止まった。
「この子は、名前を失ったことを後悔している。それでも薬を買ったこと自体は後悔していない」
アリスは少女の隣へ立った。
「欲しいものが変わったからといって、昨日守りたかったものの価値まで消えたわけではありません」
「価値は変わるものだよ」
「ええ。変わります。でも、あなたの術式は『今、何を欲しがっているか』しか測っていない」
右目に浮かぶ二つの文字を見る。
DESIRE。VALUE。
欲望と価値。
それらは一本の線で直結している。
「欲しいものと、大切なものは同じとは限りません」
ヴェルトは答えない。
アリスは続けた。
「この子は今、自分の名前が欲しい。でも薬を買った時に守りたかったのは弟です。欲望だけを見れば、昨日は薬、今日は名前と価値が入れ替わったように見える。でも、この子がずっと大切にしているものは変わっていない」
少女が小さく呟いた。
「弟……」
「そうでしょう?」
少女は頷いた。
【価値時計】が軋んだ。
街中の値札が揺れる。
ヴェルトが初めて時計塔を見上げた。
「へえ」
声から軽さが消えていた。
「そこを突くんだ」
「あなたも気づいていたんですね」
「さて、どうかな」
「誤魔化しましたね」
「詐欺師だから」
「便利ですね、その肩書き」
アリスは【グラス・ヴェリタス】へ手をかけた。
「あなたの【マッド・ディール】が嘘をついているわけではありません。今この瞬間の欲望を測っているという意味では、たぶん正しい」
「褒めても何も出ないよ」
「でも、それを『価値』と呼ぶから嘘になる」
時計塔の文字盤に亀裂が走った。
周囲からどよめきが上がる。
値札の数字が乱れ始めた。
『銀貨百枚』
『記憶二時間』
『涙――』
文字が定まらず、何度も書き換わる。
ヴェルトはそれを見ても慌てなかった。
むしろ楽しそうだった。
「なるほどね。欲望は価値の一部でしかない、と」
「少なくとも全部ではありません」
「じゃあ、価値って何?」
アリスは答えようとして、止まった。
簡単な言葉では決められない。
人によって違う。
同じ人間でも、時間によって変わる。
名前より弟の命を選んだ少女の決断を、他人が間違いだとは決められない。
「分かりません」
ヴェルトが目を丸くした。
「ここまで言って?」
「分からないものを、分かったふりはしません」
アリスは少女を見た。
「だからこそ、街やあなたが一つの尺度で決めるものでもないと思います」
沈黙のあと、ヴェルトは声を立てて笑った。
「いいなあ、お嬢様。普通はそこで格好いい答えを作るところだよ」
「間違った答えを言うくらいなら、分からない方がましです」
「それ、商売人には向いてないよ」
「なる予定はありません」
「残念」
ヴェルトが黒いカードを指先で回した。
乱れていた値札が消える。
だが空中の天秤だけは残った。
「じゃあ、もう一問」
右の皿から司法府のカードと帰還経路のカードが消える。
代わりに、鏡のような光景が浮かんだ。
侯爵家の屋敷。庭に面した陽の当たる書斎。
そして椅子に座り、頭を抱えている一人の男。
「……お父様」
アリスの声が低くなる。
父だった。
疲れ切った顔で、机の上にはアリスの判決書が置かれている。
「本物ですか?」
「少なくとも、僕が持っている記録ではね」
ヴェルトがもう一枚のカードを置く。
そこには『判決改竄の真相』と記されていた。
「君が欲しいものを二つに絞ろう。父親の現在と、君を殺そうとした人間へ繋がる真実」
左の皿には【グラス・ヴェリタス】。
「剣一本で両方あげる」
「さっきと同じでしょう」
「違うよ」
ヴェルトは笑っていた。
だが、その目は真剣だった。
「今度は街の相場じゃない。君自身に値段を決めてもらう」
天秤が大きくなり、アリスたちの頭上を覆う。
「剣を渡せば、お父上がどうなったか分かる。判決の真相にも近づける。渡さなければ、どちらも分からない」
ルシアンが低く言う。
「アリス」
「分かっています」
しかし、今度は簡単に否定できなかった。
父に会いたい。
無事だと知りたい。
自分のせいで侯爵家まで追及されているのではないかという不安を今すぐ消したい。
同時に、三頁目を差し替えた者も知りたい。
どちらも本当に欲しい。
だからこそ天秤は傾き、【グラス・ヴェリタス】の価値が少しずつ軽くなっていく。
「欲望と価値は違う」
ヴェルトが静かに言った。
「君はそう言ったね」
アリスは彼を見る。
「だったら証明してみてよ」
ヴェルトは一枚の金色のカードを取り出した。
そこに浮かんだ文字を見た瞬間、アリスの右目が熱を帯びる。
――EQUIVALENT EXCHANGE.
等価交換。
「君の父親。君の無実。君の未来。そして、その剣」
ヴェルトは天秤の中央へカードを置いた。
「さあ、お嬢様。君なら何に、いくらの値段をつける?」
アリスは答えなかった。
目の前には父がいる。
手の中には【グラス・ヴェリタス】がある。
そして、その二つを同じ天秤へ載せること自体に、どうしても拭えない違和感があった。
問題は、どちらが高いかではない。
もっと手前にある。
アリスはゆっくりと天秤を見上げた。
ヴェルトが試しているのは、彼女が何を選ぶかではない。
そもそも、選ばなければならないという条件そのものなのだ。




