第6話 狂帽子の街
目の前で値札が書き換わる光景を、アリスはしばらく黙って眺めていた。
『パン一個――昨日の記憶、三時間分』
そう書かれていた文字が滲み、次の瞬間には『涙、二滴』へ変わる。
隣の露店では飲料水一杯の価格が『秘密、一つ』から『本名、一晩分』へ変わり、店主も客も驚くことなく取引を続けていた。
「通貨は使わないんですか?」
「使えるよ。ただし価値があればね」
巨大なシルクハットを被ったヴェルト・クロウが、硬貨を一枚取り出した。
「王国銀貨。向こうならパンとチーズが何個か買える。でも今の歪曲街では――」
近くの店主へ銀貨を放る。
店主は受け取るなり顔をしかめた。
「いらねえよ。今日は銀なんか余ってる」
「だそうです」
「経済として破綻してません?」
「逆だよ、お嬢様。ここほど純粋に需要と供給で動く市場はない」
ヴェルトは返された銀貨を指先で弾いた。
「欲しい人が増えれば高くなる。誰も欲しがらなければ安くなる。金も記憶も名前も秘密も、全部同じだ」
「同じではありません」
「どうして?」
「失って取り戻せるものと、取り戻せないものがあるでしょう」
「でも売る本人が納得したなら?」
アリスは答えなかった。
通りには奇妙な店が続いている。
『勇気を買います』
『嫌な記憶、高価買取』
『三日分の若さと引き換えに温かい寝床』
冗談のような看板の前で、本当に人々が並んでいた。
「この街では、取引したものは本当に失うんですか?」
「もちろん。だから契約は慎重に」
「詐欺師が言うと説得力がありますね」
「善良な、を忘れてるよ」
「そこは重要ではありません」
ヴェルトが胸を押さえて傷ついたふりをする。
その横で、ルシアンは担いでいたカイルを壁際へ下ろした。他の騎士たちも意識を取り戻し始めている。
「こいつらを休ませられる場所はあるか」
「あるよ。寝床一つにつき、今なら秘密二つ」
「他を探す」
「冗談。僕の店なら無料」
ルシアンが露骨に警戒した。
「何が目的だ」
「警戒されてるなあ」
「自分で詐欺師と名乗った結果だ」
「お嬢様と同じことを言うね」
「誰と同じだ」
「嫌そうですね」
アリスが言うと、ルシアンは答えなかった。
ヴェルトに案内されて通りを進んでいると、突然、幼い声が聞こえた。
「待って!」
十歳ほどの少女が露店へ駆け寄っている。
店先には薬瓶が一本置かれていた。
「お願い。それ、弟の薬なの」
「値段は出てる」
店主が示した札には、『名前、一つ』とある。
「昨日は髪で買えたじゃない!」
「今日は薬が足りない。嫌なら他を当たりな」
少女は唇を噛んだ。
「名前って、売ったらどうなるんです?」
アリスがヴェルトへ尋ねる。
「自分で思い出せなくなる。他人の記憶からも少しずつ薄れる」
「それを十歳くらいの子に?」
「契約できるなら、この街では一人前だ」
アリスが露店へ向かおうとすると、ヴェルトが腕を伸ばして止めた。
「何です?」
「君が代わりに払う?」
「払えるものがあるなら」
「それをやると、明日は別の子が来るよ」
「だから見捨てろと?」
「違う。この街では、善意にも値段がつくと言ってるんだ」
少女はしばらく薬と値札を見比べたあと、震える手を差し出した。
「……売る」
店主が小さなカードを取り出す。
「名前は?」
「エマ」
カードが淡く光った。
少女の表情から、何かが抜け落ちる。
「契約成立だ」
店主は薬瓶を渡した。
少女はそれを抱き締め、数歩進んだところで立ち止まった。
アリスは彼女へ声をかける。
「エマ」
少女が振り返った。
だが、自分を呼ばれたと分からない顔をしていた。
「……誰?」
アリスは返事ができなかった。
少女は薬を胸へ抱き、雑踏へ消えていく。
「弟を助けられた」
ヴェルトが言った。
「悪い取引だったと思う?」
「分かりません」
「意外だな。すぐ否定すると思った」
「名前を失うのは重い。でも、弟の命と比べて私がどちらを選べと言えるんです?」
ヴェルトの笑みが僅かに薄れた。
「ただし」
アリスは彼を見る。
「彼女にその二つしか選ばせなかった仕組みまで正しいとは思いません」
「なるほど」
「あなた、この街の人ではありませんね」
「どうして?」
「皆さんは値札を見ても驚かない。でもあなたは、値札ではなく取引する人の顔を見ている」
ヴェルトが瞬きをした。
すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「お嬢様、人を観察しすぎると嫌われるよ」
「よく言われます」
「だろうね」
通りの奥に、巨大な時計塔が見えてきた。
文字盤には数字ではなく、『記憶』『愛情』『名前』『秘密』『生命』『真実』といった言葉が並び、長針がゆっくりとその間を動いている。
「あれが【価値時計】」
ヴェルトが帽子を持ち上げた。
「針が動くたび、この街の相場も変わる」
「誰が動かしているんです?」
「街そのもの」
「便利な答えですね」
「本当だよ。ここは人間の欲望を拾って、その瞬間に何が欲しがられているかを値段にする」
「では、価値を決めているのは街ではなく、人間の欲望でしょう」
ヴェルトの足が止まった。
「……面白いね」
「何がです?」
「普通は時計を壊そうとする」
「壊しても欲しがる人が変わらなければ、同じでしょう」
数秒の沈黙のあと、ヴェルトは笑った。
「やっぱり、君とは取引してみたい」
「お断りします」
「まだ条件を言ってないよ」
「あなたが楽しそうなので嫌です」
「判断基準がおかしくない?」
「詐欺師相手なら妥当です」
ヴェルトは懐から三枚のカードを取り出した。
一枚目には王都の地図。
二枚目には司法府の紋章。
三枚目には、アリス自身の横顔が描かれている。
ルシアンが即座に剣のない腰へ手を伸ばした。
「それをどこで手に入れた」
「この街は何でも流れてくる。人も、物も、情報もね」
ヴェルトは司法府のカードをアリスへ見せた。
「君が探してる判決書の情報もある」
アリスの表情が変わる。
「何を知っています?」
「三頁目を差し替えた人間へ繋がる記録。それから、元の世界へ戻るための道について少々」
「値段は?」
「話が早いね」
「無料ではないでしょう」
「もちろん」
ヴェルトの指先でカードが回転する。
「【グラス・ヴェリタス】」
ルシアンが一歩前へ出た。
「断れ」
「まだ返事してません」
「考える必要もない」
「私の剣ですよ?」
「さっき手に入れたばかりだろ」
「所有期間と所有権は別です」
「そういう話じゃない」
ヴェルトは二人を眺めて楽しそうに笑う。
「仲いいね」
「違います」
「違う」
二人の声が重なった。
「ほら」
「黙ってください」
アリスはヴェルトへ向き直った。
「情報の中身を確認してから払うことは?」
「それじゃ取引にならない」
「では、情報が本物だという保証は?」
「僕の信用」
「ないものを担保にしないでください」
「手厳しいなあ」
ヴェルトがカードをしまおうとする。
その時、時計塔の鐘が鳴った。
【価値時計】の長針が大きく動き、『真実』の位置で止まる。
街中の値札が一斉に書き換わった。
司法府のカードが白く光る。
「おっと」
ヴェルトが笑った。
「運がいい。ちょうど【記録刻】だ」
「記録刻?」
「この時間だけ、記録や証言や秘密の価値が跳ね上がる。代わりに武器の価値は下がる」
彼の視線が《グラス・ヴェリタス》へ落ちる。
「つまり今なら、お嬢様の剣一本で、僕が持っている記録を全部買える」
条件だけを見れば、悪くない。
剣一本と、自分を陥れた人間へ繋がる情報。
しかも帰還方法まで含まれている。
だがアリスは、ヴェルトではなく周囲を見た。
先ほどまで武器を高値で売っていた露店が慌てて値札を下げ、その隣では古い手紙や日記を持った人々が殺到している。
街全体が同じ方向へ動いていた。
欲しがる者が増えたから、真実が高くなったのではない。
鐘が鳴ったから、全員が真実を欲しがり始めている。
「……逆ですね」
「何が?」
「あなたはさっき、この街が人間の欲望を拾って値段を決めると言いました」
「言ったね」
「でも今は、値段が人間の欲望を作っている」
ヴェルトの笑みが止まった。
アリスは時計塔を見上げる。
欲望が価値を決めるのか。
価値を決められたから、人はそれを欲しがるのか。
その二つが循環しているのなら、この街の取引は本人の自由な選択だけでは成立していない。
「その取引、保留します」
「情報が欲しくない?」
「欲しいですよ」
アリスは迷わず答えた。
「だからこそ、今の私がつける値段を信用できません」
ヴェルトはしばらくアリスを見つめていた。
やがて、シルクハットの鍔を指で持ち上げる。
「なるほど。嘘をついているのは僕じゃなくて、値段の方だと言いたいわけだ」
「そこまでは言ってません」
「じゃあ?」
アリスは【グラス・ヴェリタス】へ手を添えた。
「これから確かめます」
ヴェルトの口元に、これまでとは違う笑みが浮かぶ。
「いいね」
彼の指の間に、いつの間にか一枚の黒いカードが挟まれていた。
「だったら僕も、少し本気で商売しようか」
カードの表面に金色の文字が浮かぶ。
【MAD DEAL マッド・ディール】
その瞬間、時計塔の鐘がもう一度鳴り、歪曲街に並ぶすべての値札が一斉にアリスの方を向いた。




