第5話 その前提、間違っています
――RECOGNITION OF GUILT.
罪の自認。
銀鎖の上に浮かんだ文字を見つめながら、アリスは先ほど出会った女の変貌を思い返していた。
娘を事故で失った女は、自分を殺人者だと思い込むほど黒い結晶に侵食された。
だが『本当に殺したのか』と疑った瞬間、変貌は止まった。
そして今、【ジャッジ・チェイン】も同じようにアリス自身の認識へ反応している。
この魔法は罪を調べていない。
裁判の証拠も、判決書も参照していない。
ただ対象が自分を罪人だと認めた瞬間、それを有罪の証明として拘束する。
「……ひどい理屈ですね」
アリスが呟くと、傍らの泣き笑い仮面が首を傾げた。
「何が?」
「人間なら、自分が間違っていたかもしれないと考えることくらいあります。誰かを傷つけたのではないか、自分にも責任があったのではないかと迷うこともあるでしょう」
足首を締めつける鎖が軋む。
残る銀鎖も空中でアリスを狙っていた。
「その迷いを罪の告白として扱い、捕まえた後で『やはり罪人だった』と結論づける。最初から答えが決まっているじゃありませんか」
処刑台で受けた裁判と同じだった。
証拠がアリスを有罪にしたのではない。
アリスを有罪にするという結論が先にあり、そのために証拠の方が書き換えられた。
目の前の鎖も、それと変わらない。
「そこまで分かったなら、これを預けてもよさそうだ」
泣き笑い仮面が外套の内側へ手を入れた。
取り出したのは、掌ほどの透明な硝子片だった。
「何です?」
「硝子の欠片」
「見れば分かります」
「相変わらず可愛くないなあ」
「今は命がかかっていますので」
男は小さく笑い、硝子片をアリスへ放った。
鉄枷に繋がれた両手で受け取る。
触れた瞬間、目の奥に鋭い熱が走った。
「っ……!」
銀鎖の表面だけに見えていた文字が、無数の線によって繋がっていく。
対象を指定する。
罪を認識させる。
自認を判定する。
条件を満たした対象を拘束する。
術式を構成する因果が、初めて一つの形として見えた。
「これは……」
「君が盗んだことになってる王国の宝剣【Glass Veritas グラス・ヴェリタス】」
泣き笑い仮面の声から、今までの軽さが消えていた。
「君の罪を晴らす剣じゃない。世界の嘘を斬る剣だ」
「どうして、それを私に?」
「今は生き残る方が先じゃないかな」
確かにその通りだった。
「拘束を強化しろ!」
カイルが命じる。
銀鎖が一斉に動いた。
「アリス!」
ルシアンが拘束されたまま叫ぶ。
アリスは逃げようとせず、【グラス・ヴェリタス】の欠片を握り締めた。
怖くないわけではない。
失敗すれば全身を拘束され、そのまま死刑を執行されるかもしれない。
それでも処刑台にいた時とは違い、今は何が間違っているのかが見えている。
斬るべきなのは鎖ではない。
その鎖を正しいものとして成立させている前提だ。
「自分を疑った人間は、罪人である」
アリスが術式の論理を口にすると、硝子片の内部を白銀の光が走った。
透明な結晶が掌から伸び、細身の刀身と鍔を形成していく。
初めて握る剣なのに、不思議なほど手に馴染んだ。
アリスは迫る鎖へ向けて踏み込み、その奥に浮かぶ【RECOGNITION OF GUILT】へ刃を合わせる。
「その前提、間違っています」
透明な刃を振り抜いた。
鎖へ触れるより先に、術式の奥で硝子が砕けるような音が響いた。
【RECOGNITION OF GUILT】へ亀裂が入り、そこから術式全体へ白い光が走る。
アリスへ迫っていた銀鎖が空中で停止した。
「何をした……?」
カイルの声が震える。
アリスにも完全には分からない。
ただ、深紅の左目には変化が見えていた。
術式そのものが消えたわけではない。対象と結果を結んでいた因果だけが裏返っている。
罪の自認を根拠に、対象を拘束する。
その前提が反転したことで、他者を罪人だと決めつけて拘束しようとした術者へ、結果が返っていく。
銀鎖が一斉に向きを変えた。
「術式を止めろ!」
カイルの命令は間に合わなかった。
騎士たちの腕や胴へ鎖が絡みつき、四人が次々と黒い街路へ引き倒される。
カイルは剣で一本を弾いたものの、背後から回り込んだ鎖に足を取られ、片膝をついた。
同時にルシアンの拘束が緩む。
彼は残った鎖を引き千切り、すぐにアリスの前へ出た。
「大丈夫か」
「たぶん」
「その返事は信用できん」
「私も今、そう思いました」
両目を焼く痛みが急激に強くなった。
視界の端に街路や建物を構成する線まで浮かび始め、情報量に耐えられず膝が揺れる。
ルシアンが肩を支えた。
「目を閉じろ」
「でも――」
「敵は俺が見る」
アリスは一瞬迷ってから瞼を閉じた。
痛みが少しだけ和らぐ。
「初めてにしては上出来だ」
泣き笑い仮面が言った。
「今のは何です?」
「【INVERTED インバーテッド】君の蒼い右目が世界を成り立たせている前提を読み、左の深紅の瞳が、その関係を反転させる力だよ」
「私の能力?」
「その質問には、まだ答えない」
「どうして?」
「僕にも確認したいことがあるからね」
アリスは片目だけ開けた。
「あなた、やっぱり私について、何か知っていますね」
「少しだけ」
「どのくらい?」
「秘密」
「便利な言葉ですね」
「長生きできるよ」
追及しようとしたアリスを、ルシアンが制した。
「先にこっちだ」
拘束されたカイルの前へ進む。
「誰の命令でアリスの処刑を確認しに来た」
「命令など受けていません」
「なら、なぜ三頁目の確認を拒んだ?」
「判決に従っただけです」
「その判決が偽造された可能性を知った後もか?」
カイルは唇を噛んだ。
アリスもルシアンの隣へ立つ。
「私が生きていると、困る人がいるんですね?」
「知らない」
「では、私が生きて王都へ戻ると困る人は?」
「知らないと言っている!」
「私の処刑が予定通り終わったか、報告する相手は?」
返答が遅れた。
ほんの一瞬だったが、アリスには十分だった。
「最後だけ、否定しませんでしたね」
「違う!」
「今になって否定しました」
カイルが何かを言い返そうとした時、街の奥から低い鐘が響いた。
泣き笑い仮面が顔を上げる。
「そろそろ移動した方がいい」
「なぜです?」
「【リグレット】が集まってくる。この街は、罪悪感の強い人間を放っておかない」
周囲の鏡が黒く濁り始めていた。
遠くの路地から、人影がいくつも現れる。
リグレットの女と同じように身体を黒い結晶へ侵食され、何かを呟きながらこちらへ歩いてくる。
ルシアンは拘束された騎士たちを見る。
「こいつらも連れていく」
「あなたを捕まえようとした人たちですよ?」
「だから置いていっていい理由にはならん」
アリスは少しだけ笑った。
「何だ」
「いえ。意外と気が合いそうだと思いまして」
「誰と誰が」
「私とあなたです」
「やめろ。先が不安になる」
「失礼ですね」
泣き笑い仮面が銀の杖で近くの鏡を叩いた。
黒かった鏡面が波打ち、その奥に色鮮やかな街が現れる。
傾いた建物の間を無数の露店が埋め、空中には細い橋が渡されていた。
「【歪曲街】ここよりは安全だよ」
「『ここよりは』という部分が不安です」
「食べ物もある」
アリスの腹が鳴った。
沈黙が落ちる。
「……行きましょう」
「判断が速いな」
ルシアンが呆れる。
「生存に必要な合理的判断です」
「食べ物だけで怪しい奴についていくな」
「あなたもいます」
言ってから、アリスは少しだけ違和感を覚えた。
処刑台では自分の首を刎ねようとしていた男を、いつの間にか安全材料として数えている。
ルシアンも何か言いかけたが、結局黙ってカイルを担いだ。
鏡へ向かう途中、アリスは泣き笑い仮面を振り返る。
「一つだけ答えてください」
「内容によるかな」
「【グラス・ヴェリタス】、どうして私に渡したんです?」
男はしばらく黙っていた。
「君なら、間違っているものを斬る前に、何が間違っているのか考えると思ったから」
予想していなかった答えだった。
「もし、考えずに使っていたら?」
「渡したことを後悔しただろうね」
仮面は右半分で笑い、左半分で泣いている。
そのどちらが男の本当の表情なのか、アリスにはまだ分からなかった。
「あなたの名前は?」
「それはまだ秘密」
「では、しばらく泣き笑い仮面ですね」
「本当に定着させる気?」
「嫌なら名乗ってください」
「君、交渉が雑だなあ」
アリスは鏡を潜った。
冷たい膜を抜けると、人々の声と露店の呼び込みが一斉に耳へ飛び込んでくる。
黒一色だった罪人の街とは違い、【歪曲街】には赤や青の布が張られ、食料や衣服、武器まで売られていた。
だが、値札がおかしい。
『パン一個――昨日の記憶、三時間分』
『飲料水一杯――秘密、一つ』
『安全な寝床――本名、一晩分』
アリスは看板を二度読んだ。
「……帰りません?」
「どこに」
ルシアンに聞かれ、背後を見る。
通ってきた鏡は、すでに黒く閉ざされていた。
「ですよね」
その時、頭上から楽しげな声が降ってきた。
「おや。随分と珍しいお客さんだ」
露店の屋根に、一人の男が座っていた。
細身の身体には仕立てのいい燕尾服。
頭には時計やカード、鍵を飾りつけた巨大な黒いシルクハットを載せている。
男は軽やかに飛び降りると、アリスの前で芝居がかった一礼をした。
「初めまして、お嬢様。僕はヴェルト・クロウ。商人、仲介人、それから時々、善良な詐欺師をやっている」
「最後の一つで全部台無しでは?」
「正直者だろう?」
「詐欺師がそれを言います?」
ヴェルトは楽しそうに笑いながら、アリスの右手へ視線を落とした。
そこには、まだ淡い光を宿す【グラス・ヴェリタス】がある。
「へえ。それを持ってるんだ」
声は軽い。しかし目から初めて笑みが消えた。
「知っているんですか?」
「もちろん」
「何を?」
「値段」
ヴェルトは帽子を持ち上げた。
「この街じゃね、お嬢様。真実にだって値段がつくんだよ」
周囲の時計が一斉に鐘を鳴らし、露店に掲げられていた値札が目の前で書き換わり始めた。




