第4話 泣き笑い仮面の男
五人の断罪騎士が剣を抜いた瞬間、ルシアンはアリスを庇うように前へ出た。
「カイル」
「ルシアン卿、ご無事で!」
安堵したのも束の間、カイルの視線がアリスへ移る。
「罪人から離れてください。アリス・フォン・ルーヴェルト、未執行の死刑判決に基づき身柄を拘束する!」
「処刑台ごと異世界へ落ちた場合でも、判決は有効なんですか?」
「黙れ!」
「司法手続きとして確認しています」
「アリス、お前も少し黙れ」
「私の刑について話しているのに?」
「だからだ」
納得はできなかったが、ルシアンが本気で警戒していることは分かった。
彼はカイルへ向き直る。
「刑の執行は保留する」
五人の間に動揺が走った。
「第一処刑人に、その権限はありません」
「知っている。だが判決書に疑義がある」
カイルの剣を握る指へ力が入った。
アリスはその小さな反応を見逃さなかった。
「三頁目だ」
ルシアンが続ける。
「紙質と綴じ穴が他の頁と違う。正式な判決書が完成した後で、差し替えられた可能性が高い」
「それだけで刑を止めるのですか?」
返答が早すぎた。
アリスは思わず口を挟んだ。
「どうして三頁目の内容を聞かないんです?」
カイルがこちらを見る。
「何?」
「普通なら『そこには何が書かれていたのか』と確認しませんか。あなたは差し替えの可能性そのものには驚いていない」
「言いがかりだ」
「かもしれません。ですから確認しましょう」
アリスは鎖を鳴らしながら一歩進んだ。
「王都へ戻って原本を調べれば済みます。私が有罪なら、改めて処刑すればいい」
「必要ない」
即答したあと、カイル自身が失言に気づいた。
ルシアンの目が細くなる。
「なぜ必要ないと分かる?」
「それは……判決がすでに確定しているからです」
「その判決が捏造された可能性を話している」
カイルは答えなかった。
代わりに声を上げたのは、少し離れて二人を眺めていた泣き笑い仮面だった。
「その三頁目なら、元は別の内容だったよ」
全員の視線が集まる。
アリスは男へ向き直った。
「知っているんですか?」
「見たからね」
「何を?」
「君の判決が作り替えられるところを」
心臓が強く打った。
疑っていたことと、他人の口から事実として告げられることは違う。
「詳しく話してください」
「処刑の前夜、司法府の文書保管室らしき場所で、誰かが一枚の紙を抜き取った。代わりに入れたのが、君を有罪へ押し込む三頁目だ」
「元の内容は?」
「【記録鏡】に映った人物と君の身体的特徴が一致しないこと、それから毒物を購入したとされる時間に、君には王立学院での行動記録があること。少なくとも再調査が必要だと書かれていた」
アリスは唇を結んだ。
自分が裁判で指摘した矛盾は、最初から司法側も把握していたのだ。
間違えたのではない。
誰かが、正しい疑問を消した。
「犯人の顔は?」
「見えなかった。黒い服に手袋。鏡は何でも都合よく映してくれるわけじゃない」
「どうしてあなたが、そんな場面を見られるんです?」
「【鏡界ミラージュ】には、向こう側の罪や判決が映る鏡があるからさ」
「便利ですね」
「言ったろ。全てが便利に作用するわけでもない」
アリスは男の言葉を頭の中で整理した。
証言のすべてを信用する理由はない。しかしルシアンが実物から見つけた差し替えの痕跡と一致している以上、無視する理由もなかった。
「あなた、本当は何者なんです?」
「ただの案内人」
「ただの案内人が、都合よくこのタイミングで、司法府の秘密を覗かないでしょ」
「じゃあ、親切な案内人」
「訳がわかりません」
仮面の右半分は笑っているのに、左半分は涙を流している。その奇妙な顔を見ていると、どこまで冗談なのか分からない。
「名前くらい教えてください」
「今はまだ秘密」
「では、泣き笑い仮面と呼びます」
「もう少し格好いい呼び方はなかった?」
「素性を隠している方に選択権があると?」
「ないね」
男はあっさり認めた。
その軽さとは対照的に、カイルの顔色は悪くなっている。
アリスはそちらへ視線を戻した。
「カイルさん。私が生きて王都へ戻ると困りますか?」
「何を――」
「三頁目を確認する必要はないと言いましたね。では質問を変えます。私の処刑が予定通り終わったか、誰かに確認するよう命じられていませんか?」
カイルの返答が、一拍だけ遅れた。
それだけで十分だった。
「今、迷いましたね」
「黙れ!」
剣先が上がる。
ルシアンが間へ入った。
「やめろ、カイル」
「ルシアン卿こそ、その女から離れてください。判決は有効です!」
「確認が済むまでは執行しない」
「命令違反になります」
「構わん」
「騎士団を追放されるかもしれません!」
ルシアンは一瞬も迷わなかった。
「疑義があると知って斬れば、処刑じゃない。ただの殺人だ」
アリスは彼の横顔を見た。
処刑台では、空が割れなければ自分を斬っていた男だ。
判決に従うことを職務としてきた彼が、その前提を初めて自分の意思で止めようとしている。
だからこそ、簡単に感謝する気にはなれなかった。
これはアリスのためだけではない。
ルシアン自身が、自分のしてきたことを確かめるためでもあるのだろう。
「……分かりました」
カイルが剣を下ろした。
だが安堵するより先に、彼と残る四人が左手を前へ出す。
銀色の魔法陣が展開した。
ルシアンの表情が変わる。
「待て。それを使うな!」
「【ジャッジ・チェイン】」
魔法陣から銀鎖が噴き出した。
ルシアンは一本目を腕で受け、二本目を身体を捻って避けたが、三本目が胴へ絡みつく。
続く鎖が両腕を封じ、重装甲ごと黒い街路へ引き倒した。
「ルシアン!」
「逃げろ、アリス!」
「どこへ!」
「どこでもいい!」
「一番役に立たない指示ですね!」
四人の騎士がアリスへ術式を向ける。
銀鎖が飛んだ。
アリスは横へ跳び、一本目を避けた。二本目は頭を下げ、三本目からは建物の柱を盾にして逃れる。
だが鎖は柱を回り込み、再び追ってきた。
追尾している。
何を基準に?
アリスは走りながら鎖を見る。
魔力探知なら、ルシアンと自分に対して別の動きをする理由を説明できない。
距離でも視線でもない。騎士たちは正確にこちらを見ていないのに、鎖だけが進路を修正している。
「罪人拘束術式だ!」
鎖に縛られたルシアンが叫ぶ。
「判決を受けた者ほど強く作用する!」
判決。罪人。
アリスの脳裏に、処刑台で浴びた声が蘇った。
人殺し。裏切り者。魔女。
裁判長も判決書も、自分を罪人だと決めた。
それでも無実だと信じている。
けれど、本当に一度も疑わなかったか。
何かを見落としているのではないか。知らないうちに誰かを傷つけたのではないかと、ほんの一瞬でも考えなかったか。
胸の奥にその疑念が生じた瞬間、銀鎖の軌道が変わった。
「え?」
先ほどまで避けられていた鎖が、まるでアリスの迷いそのものを見つけたように足首へ巻きついた。
身体を引かれ、黒い街路へ倒れる。
冷たい銀鎖が締まる。
その表面に、淡い文字のようなものが浮かんだ。
見たことのない記号なのに、意味だけが頭へ流れ込んでくる。
――罪。
――認識。
――拘束。
アリスは痛む足首へ触れながら、鎖を見つめた。
これは判決に反応しているのではない。
もっと内側にある何かを拾っている。
「気づき始めたね」
すぐ近くから、泣き笑い仮面の声がした。
いつ移動したのか、男は銀の杖を片手にアリスの傍らへ立っていた。
「何を知っているんです?」
「僕が答えを言ってしまったら、君の答えじゃなくなる」
「今は教育方針を議論している場合ではありません!」
男は笑った。
けれど仮面の奥の目だけは、アリスを試すように静かだった。
「それなら考えて。君を捕まえたのは、判決かな。それとも――君自身かな」
銀鎖がさらに締まり、残る鎖が一斉にこちらを向いた。
アリスは逃げなかった。
先ほど黒い結晶で覆われていた女は、自分を殺人者だと思い込むほど怪物へ近づいた。
そして今、この鎖もまた、自分の中に生まれた罪への疑念へ反応した。
二つの現象が、一本の線で繋がる。
『この世界では、人間が自分をどう認識するかが現実へ影響する』
ならば、この魔法が罪人を見分けているという説明そのものが――。
アリスの右目、蒼の瞳の奥で、鋭い熱が弾けた。
銀鎖の上に、これまで見えなかった無数の線と文字が重なっていく。
その中心に、一つの条件が浮かび上がった。
――RECOGNITION OF GUILT.
罪の自認。
アリスは息を呑んだ。
銀鎖が迫る中、泣き笑い仮面だけが静かに彼女を見ていた。




