第3話 罪人の国
落下が終わった時、アリスは自分が生きていることより、身体の下にあるものが地面ではないことに驚いた。
黒い硝子だった。
磨き上げた鏡のような街路が、薄暗い街の奥まで続いている。
その表面にはアリスの姿と、彼女を抱えるようにして着地したルシアンが映っていた。
アリスは左右で色の違い瞳を鏡に映してみる。
一瞬、アリスの意思に反して、その顔が笑った気がした。
ひとつ頭を振り、意識を切り替える。
「そろそろ降ろしてもらっても?」
「誰のせいで、こうなったと思ってる」
「私、頼んでませんけど」
「では、次は放っておくとしよう」
「それは困ります」
ルシアンは深々と息を吐き、アリスを立たせた。
処刑台から落ちたと思ってから、かなりの距離を落下したはずだ。
そうとは思えないほど身体は無事だったが、安心した途端に膝が震えた。
死ぬと思った恐怖が、遅れて身体へ追いついてきたらしい。
アリスは鎖で繋がれた両手を握り、呼吸を整えた。
「……ここ、王都ではありませんよね」
「見れば分かる」
「確認です」
空には太陽がない。
代わりに、巨大な鏡が無数に浮いていた。
その一枚一枚に王都らしき景色が映っている。ただし上下が逆さまだ。
王城も時計塔も民家も、鏡の向こう側から黒い空へ垂れ下がっている。
アリスは首を傾げた。
「死後の世界でしょうか」
「俺まで死んだことになる」
「一緒に落ちましたから」
「縁起でもないことを言うな」
返事をしながら、ルシアンは腰へ手を伸ばした。
そこで表情が止まる。
「剣がない」
「落ちる途中で捨ててましたよ」
「誰を抱えるためか、分かってるのか?」
「私ですね」
「分かってるなら言うな」
アリスは、また少しだけ笑った。
その時、街路の奥から女の泣き声が聞こえた。
二人は同時に口を閉じた。
「……ごめんなさい」
か細い声だった。
「ごめんなさい。私が、あの子を……」
ルシアンがアリスを手で制し、先に進む。
建物の陰で、中年の女が膝をついていた。
服は王国の庶民が着るものと変わらない。
だが、その両腕から黒い結晶が生え、指先は人間とは思えないほど長く変形している。
「近づくな」
ルシアンが低く言った。
女が顔を上げた。
「私が……殺したの」
「誰をです?」
アリスが尋ねる。
「アリス」
「話を聞くだけです」
女は二人の会話など聞こえていないようだった。
「娘を……私が殺した」
黒い結晶が肩まで広がる。
アリスは足を止めた。
「どうやって?」
女の瞳が僅かに動いた。
「手を……離したの」
「いつです?」
「市場で……少しだけ。あの子が菓子を欲しがって、私は店を見て……」
「それで?」
「馬車が来た」
女の声が震えた。
「私が手を離さなければ、あの子は死ななかった。だから私が殺したの」
黒い結晶がさらに膨らんだ。
女の背後から影のような腕が伸びる。
「下がれ!」
ルシアンがアリスを庇う。
影の腕が街路を叩き、黒い硝子が砕けた。
ルシアンは女の懐へ踏み込み、拳を叩き込む。
だが身体の半分を覆った結晶は砕けても、すぐに再生した。
「効いてない!」
「見れば分かります!」
「なら逃げろ!」
アリスは動かなかった。
おかしい。
女の変化は一定ではない。
自分が娘を殺したと口にするたび、黒い結晶が増えている。
「あなたは、娘さんを死なせたかったんですか?」
女の動きが止まった。
「……え?」
「馬車が来ると知っていて、手を離したんですか?」
「違う」
結晶に亀裂が入った。
アリスは息を呑む。
「娘さんを殺そうとしました?」
「違う!」
今度は明確に砕けた。
影の腕が一本、消える。
「では、あなたは娘さんを殺したんですか?」
「私が……」
女の顔が歪む。
再び結晶が増えかけた。
「事実を聞いています」
アリスは声を荒らげなかった。
「あなたは手を離した。その後、馬車の事故が起きた。後悔している。でも、後悔していることと、娘さんを殺そうとしたことは同じではありません」
「でも、私が……」
「責任がなかったとは言っていません」
女の瞳から涙が落ちた。
「ただ、自分を殺人者だと決めつけることと、自分のしたことを悔いることは同じではないでしょう」
女は何かを言おうとして、唇を震わせた。
「私は……殺したの?」
「私には決められません」
アリスは答えた。
「あなたの人生を知らないので」
女が目を見開く。
「だから、あなたも今ここで決めなくていいんじゃありませんか。本当に全部、自分の罪なのか。考え直してもいいでしょう」
長い沈黙のあと、女の口から小さな声が漏れた。
「……分からない」
その瞬間、黒い結晶が崩れた。
影の腕も消え、女の身体が街路へ倒れる。
ルシアンが駆け寄り、首筋へ指を当てた。
「生きてる」
アリスは安堵して息を吐いた。
足元には、女から剥がれ落ちた黒い欠片が残っている。
拾おうとすると、その表面に一瞬だけ文字が見えた。
――REGRET.
「後悔……?」
「何だ?」
ルシアンが振り返る。
「ここに文字が」
「何もないぞ」
アリスがもう一度見ると、文字は消えていた。
「へえ」
頭上から、知らない男の声がした。
二人が同時に顔を上げる。
街灯の上に、一人の男が座っていた。
黒い外套に銀の杖。そして顔には、右半分が笑い、左半分が泣いている奇妙な仮面をつけている。
「今のが見えたんだ」
「いつからそこに?」
アリスが尋ねる。
「最初から」
「なら助けてください」
「君たちだけで何とかなったから」
「結果論ですね」
「そうとも言う」
ルシアンがアリスの前へ出る。
「何者だ?」
「案内人」
「名前は?」
「秘密」
「信用できませんね」
アリスが即答すると、仮面の男は肩を落とした。
「初対面でひどいなあ」
「初対面だからです」
「なるほど」
男は街灯から軽々と降りると、倒れた女を見た。
「彼女は 【リグレット】になりかけていた。後悔や罪悪感に呑まれて、自分を罪そのものだと思い込んだ人間の末路だよ」
アリスは黒い欠片を見る。
「この世界では、思い込みで身体まで変わるんですか?」
「思い込みというより、認識かな」
男は杖の先で黒い街路を叩いた。
「ここでは、人間が自分をどう認識するか、それが向こう側よりずっと強く現実に影響する」
「ここ?」
「【鏡界ミラージュ】」
初めて聞く名だった。
「王国の裏側にある、罪人たちの世界だよ」
アリスは眉を寄せた。
「私は罪人ではありません」
「そう言うと思った」
「事実です」
「それなら、それを証明して帰ればいい」
アリスの目が細くなる。
「帰れるんですか?」
「簡単じゃないけどね」
「方法が?」
「ある」
男は即答した。
「でも、その前に君は知った方がいい。この国が何を罪と呼び、誰をここへ落としてきたのかをね」
「どうして私が?」
「君の判決が、書かれている通りのものじゃないから」
アリスの表情が消えた。
隣でルシアンも男を睨む。
「何を知っている」
「それを話す前に――」
仮面の男が街路の奥へ顔を向けた。
硬い軍靴の音が聞こえる。
一人ではない。
規則正しい複数の足音と、重い金属が擦れ合う音が近づいてくる。
ルシアンが僅かに目を見開いた。
「この音……」
「知り合い?」
仮面の男が尋ねる。
ルシアンは答えなかった。
やがて街路の角から、黒銀の重装甲を身につけた五人の騎士が姿を現す。
その胸には、剣と天秤を組み合わせた紋章。
王国司法府直属、断罪騎士団。
先頭の若い騎士がルシアンを見つけ、安堵した吐息を漏らす。
「ルシアン卿!」
しかし次の瞬間、彼の視線がアリスを捉える。
安堵は消えた。
剣が抜かれる。
「罪人から離れてください!」
アリスは自分へ向けられた刃を見つめ、静かに息を吐いた。
どうやら処刑台から落ちただけでは、死刑判決から逃げたことにはならないらしい。




