第2話 断罪騎士ルシアン・ヴァルハート
アリスは群衆ではなく、王族席を見る。
「まず、私の署名があるとされた密書ですが、私が普段使用している署名とは筆圧が異なります」
レオンハルトの目が細くなる。
「何を言っている」
「父から、成人前の署名は筆跡が軽すぎると言われました。それ以来、末尾の《A》を二重線に変えています。ですが、あの署名は一重線です」
周囲から、ざわめきが起こる。
「毒薬購入記録には、購入時間が鐘楼第六鐘とあります。しかしその時刻、私は王立学院の公開講義に出席していました。百人以上の目撃者がいます」
さらにざわめく。
「侯爵邸地下から発見された禁制魔術具については、保管箱の表面や隙間に埃がありませんでした。長期間保管されていた物ではありません」
レオンハルトの表情が険しくなる。
「さらに王宮秘宝庫の鏡像記録」
アリスは続ける。
「映っている人物は私と同じ顔ですが、左手で扉を開いていました」
群衆の声が止まる。
「私は右利きです」
その瞬間、空気が変わった。
ほんの僅か。けれど確かに民衆の中に疑問が生まれた。
アリスはそれで十分だった。
「戯言だ!」
レオンハルトが立ち上がる。
先ほどまでの悲痛な王子の仮面が、一瞬剥がれた。
「罪人が処刑直前に命惜しさで吐く言葉など、誰が信じる!」
アリスは彼を見る。
なるほど。少なくとも、この反応は覚えておいて損はない。
「では、再調査を」
アリスは言った。
「必要ない!」
即答だった。いや、速すぎる。
アリスは目を細める。
「なぜです?」
「判決は既に下った!」
「判決が正しいか確認することと、判決が下ったことは別問題です」
「黙れ!」
「殿下、再審を――」
「黙れと言っている!」
レオンハルトが腕を振り下ろす。
「処刑を執行しろ!」
その声に応じて処刑台の奥から、一人の男が歩いてくる。
黒銀の鎧。肩から下がる濃紺の外套。
背には、人間一人を両断できそうな巨大な処刑剣。
断罪騎士。
その中でも王国最高位の執行官。
ルシアン・ヴァルハート。
広場の空気が変わる。群衆から歓声が上がる。
「断罪騎士だ!」
「ヴァルハート卿!」
「悪女を斬れ!」
ルシアンは何も答えない。
処刑台へ上がる。
重い足音が一歩一歩、近づいてくる。
アリスは彼を見つめた。
噂では冷酷な男だと言われている。何人もの大罪人を処刑してきた。
王国の剣。正義の刃。感情を持たない処刑人。
だが実際に近くで見ると、不思議なことに怖さは感じなかった。
目だ。不機嫌にも見える、半ば閉じられた眠そうな灰色の瞳。
冷たい。けれど、アリスを無視している目ではない。
むしろ、妙に観察している。
ルシアンは彼女の前へ立つ。
「アリス・フォン・ルーヴェルト」
「はい」
「跪け」
「嫌です」
群衆がどよめいた。
ルシアンの眉が少し動く。
「……なぜだ」
「首を斬るなら、立ったままでも可能でしょう?」
「処刑規定だ」
「では従います」
あっさり跪く。
「抵抗しないのか」
「鎖付きで?」
「質問に答えろ」
「意味がないからです」
アリスは処刑台へ膝をついた。
冷たい木の感触。
心臓が速くなる。
いよいよだ。
怖い。
本当に怖い。
けれどその時、ルシアンが低く囁いた。
「判決文」
アリスの目が動く。
「三頁目が差し替えられている」
一瞬、意味が分からなかった。
ルシアンは処刑剣へ手をかけたまま続ける。
「紙質が違う。印章の圧も違う」
アリスは顔を上げない。
「……気づくのが遅いです」
ルシアンの口元が、かすかに動いた。
「処刑人にそれを言うか」
「今更ですから」
「そうだな」
アリスは初めて、ほんの少しだけ死以外の未来を考えた。
しかし。
「俺には判決を止める権限がない」
その未来は、すぐ消えた。
「そうでしょうね」
「だが」
ルシアンの声が低くなる。
「お前の言ったことは、記憶した」
アリスは目を閉じた。
「でしたら」
「何だ」
「私が死んだ後で構いません」
喉が震える。
これは今日初めて出た、本当の願いだった。
「父を」
「……」
「父だけは、調べてください」
「分かった」
即答だった。
アリスは目を閉じたまま笑った。
「ありがとうございます」
ルシアンが剣を抜く。
巨大な黒銀の刀身が、陽光を反射する。
群衆が沸く。
「やれ!」
「斬れ!」
「死刑だ!」
アリスは深く息を吸った。
跪いた姿勢では、青い空はもう見えない。
風が頬を撫でる。
死にたくない。
本当は、まだやりたいことがあった。
読みたい本も。
行きたい場所も。
父ともう一度夕食を食べたかった。
春になったら、領地の湖へ行く約束もしていた。
誰かと恋をすることだって。
きっと。いつか。
あったかもしれない。
死にたくない。
でも泣かない。
泣いたら負けだからではない。
ただ、最後の顔くらい自分で選びたかった。
アリスは目を開ける。
正面の王族席。レオンハルトを見る。
そして、笑った。
彼が不愉快そうに顔を歪める。
それでいい。
少しだけ気分が晴れた。
ルシアンが剣を振り上げる。
その瞬間。
アリスは見た。
空に、一本の線が走った。
「……?」
最初は一筋の雲だと思った。
だが、違う。
青空そのものに、黒い亀裂が入っている。
ピシ。
小さな音が響く。
誰かが鏡に石を投げたような音。
ピシッ。
亀裂が増え、空に蜘蛛の巣状の線が走る。
群衆も気づき始める。
「何だ……?」
「空が……」
ルシアンが剣を止めた。
王族席の騎士たちが立ち上がる。
レオンハルトが叫ぶ。
「何が起きている!」
誰も答えられない。
亀裂が、広場上空いっぱいへ広がる。
「魔術師を呼べ!」
司法官たちが立ち上がる。
「結界を展開しろ!」
「処刑台から罪人を――」
アリスは息を呑んだ。
そして、気づいた。
空の向こう側。
亀裂の奥に、もう一つの世界が映っている。
逆さまの街。赤い森。空を泳ぐ巨大な魚。無数の鏡。
そして、何かが、こちらを見ている。
「ルシアン卿、これはなんですか?」
「俺に聞くな」
少し笑ってしまった。
「ですよね」
次の瞬間。空が割れた。
広場を震わすほどの轟音が響き、青い空が巨大な硝子板のように砕け散る。
「きゃあああああ!」
「逃げろ!」
群衆が悲鳴を上げる。
地震のように処刑台が揺れ、衛兵たちが膝をつく。
床板にも亀裂が走り、足元が消えた。
「っ!」
アリスの身体が落ちる。
奈落と化した、鏡の向こうへ。
ルシアンが手を伸ばした。
「掴まれ!」
アリスも手を伸ばす。
鎖が邪魔をし、指先が届かない。
「アリス!」
初めて彼が名前だけで呼んだ。
ルシアンは迷わず処刑台から飛び降りた。
「な――」
アリスの手首を掴む。
「何してるんですか!」
「目の前で落ちた者を助けるのは騎士の仕事だ!」
「あなた今から私を斬るところだったでしょう!」
「それとこれは別だ!」
「意味が分かりません!」
「俺もだ!」
処刑台が崩れた。石材が宙へ落ちる。
いや、落ちなかった。
空中で止まる。
それから、上へ吸い込まれていく。
二人はそのまま、割れた空の向こうへ落ちていく。
地上では、レオンハルトが何か叫んでいた。
けれどもう聞こえない。
空から、無数の鏡が落ちてくる。
世界が歪み、空気がねじれる。
無数の色が二人の身体を包む。
上下が分からなくなる。
息もできない。
それでもルシアンは、アリスの手を離さなかった。
「ルシアン卿!」
「何だ!」
「もし生きていたら!」
「今それを言うか!」
「大事です!」
アリスは空へ落下しながら笑った。
「私を罪人にした人を!」
鏡の破片が舞う。
「今度は私が!」
世界が反転する。
「処刑台に立たせます!」
そして二人の姿は、完全に王都から消えた。
処刑は失敗した。
アリス・フォン・ルーヴェルトは死ななかった。
代わりに。この日。
一人の罪人が、世界の裏側へ落ちた。
後に七つの鏡を砕き、王国そのものへ問いを突きつける少女。
――断罪の国のアリスが。




