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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
序章 侯爵令嬢は、笑って処刑台に立つ
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第1話 侯爵令嬢アリス・フォン・ルーヴェルト

 人は、自分が死ぬ日にも朝食を食べられるらしい。

 それが、アリス・フォン・ルーヴェルトが処刑当日の朝に得た、人生最後になるかもしれない発見だった。


「……パンが硬いですね」


 石造りの独房で、アリスは小さく呟いた。

 返事はない。当然だ。

 昨夜から彼女の牢の前には二人の衛兵が立っているが、必要以上に口を利くことを禁じられている。

 おそらく、死刑囚と情を交わさせないためだろう。

 あるいは侯爵令嬢だった女が、処刑直前にどんな醜態を晒すのか、それを期待しているのかもしれない。


 アリスは皿に残った黒パンを見つめた。硬く風味も薄い。

 侯爵家の食卓に並んでいた焼き立てのパンとは、比べるのも失礼なくらいだった。

 それでも二口目を齧る。

 今日死ぬからといって、空腹が消えてくれるわけではない。

 むしろ、腹が減っている方が腹立たしい。


「処刑される前に空腹で倒れたら、格好がつきませんし」

「……」


 衛兵の片方が、ほんの少しだけ視線を逸らした。

 聞こえていたらしい。

 アリスは水を一口飲んだ。

 冷たい。喉を通る感覚が、嫌になるほど鮮明だった。

 生きている。まだ。

 その事実が、妙に可笑しかった。

 だから、笑った。ほんの少しだけ。


「何がおかしい」


 ついに衛兵の一人が口を開いた。

 若い男だった。まだ二十代半ばほど。

 昨日までの彼なら、侯爵令嬢アリス・フォン・ルーヴェルトを前に、背筋を伸ばして礼をしただろう。

 今は違う。ただの死刑囚を見る目だ。


「別に、大したことではありません」


 アリスは答えた。


「人間って、死ぬ日の朝でもお腹が空くのだなと思っただけです」


 衛兵は眉をしかめた。


「怖くないのか」

「怖いですよ」


 即答した。

 衛兵が意外そうな顔をする。

 アリスは残ったパンを皿へ戻した。


「首を落とされるのでしょう?」

「……そうだ」

「痛そうです」

「当然だろう」

「では、怖いに決まっているじゃありませんか」


 何を聞いているのだろう。アリスは本気でそう思った。

 恐怖がないわけではない。


 昨夜はほとんど眠れなかった。

 目を閉じれば処刑台が浮かんだ。

 首を置く台。落ちる刃。

 あるいは、断罪騎士が使う巨大な処刑剣。

 自分の身体と頭が離れる瞬間を想像してしまったことも、一度や二度ではない。

 何度も吐きそうになった。


 何度も鉄格子へ走り寄り、無実だと叫びたくなった。

 助けて。

 死にたくない。

 誰でもいいから信じて。

 そう叫べたら、少しは楽だったのかもしれない。


 けれど、叫んだところで判決は変わらない。

 泣いたところで提示された証拠は消えない。

 それが捏造だとしても。

 ならばせめて、最後まで自分の頭で考えていたかった。

 それだけだった。


 足音が近づいてくる。

 重い靴音。鍵が回った。


「アリス・フォン・ルーヴェルト」


 牢番長が扉の前に立った。


「時間だ」

「そうですか」


 アリスは立ち上がった。膝が少し震えた。

 それを悟られないよう、ゆっくりとスカートの皺を伸ばす。


 腰まで届くほど長い黒髪は、手入れ不足で艶が失せていた。

 対照的に白磁のように白い肌は染みひとつない。

 華奢な身体つきと、小さな顔。

 特徴的なのは、その両目。

 右目がサファイアのような澄んだ青。左目がルビーのような深紅。

 左右で色の違うオッドアイ。


 処刑用に用意された服は、白だった。

 簡素なワンピースに装飾はない。靴も安物。

 髪飾りも宝石も、すべて取り上げられている。

 侯爵令嬢としてのものは、何一つ残されていない。

 けれど背筋を伸ばすことだけは、誰にも奪わせなかった。


「参りましょう」


 牢番長が一瞬、目を見開く。


「……お前は本当に妙な女だ」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「褒めてなどいない」


「それは、残念です」


 手首と足首に鎖を付けられる。

 金属が肌に食い込み、少し痛む。

 アリスは牢を出た。


  ◇


 王都オルディア中央広場。

 そこは本来、祝祭のための場所だった。

 王の即位式や凱旋。収穫祭。新年の祝賀。

 何度もこの広場を馬車から見たことがある。

 人々が笑い、音楽が流れ、色とりどりの旗が揺れていた。


 今日は違う。

 広場を覆うように立てられた黒い旗。整然とならぶ騎士と兵士。

 そして、真新しく組まれた処刑台。

 広場を埋め尽くす群衆の声が、檻付きの護送馬車の中まで届いていた。


「国王陛下を殺そうとした魔女め!」

「裏切り者!」

「侯爵家の恥!」


 石が飛んできた。

 鉄格子に当たり、乾いた音が響く。

 アリスは避けなかった。どうせ届かない。


 馬車の中から群衆を見る。知らない顔ばかりだ。

 彼らはアリスを知らない。アリスも彼らを知らない。

 それでも、彼らはアリスを憎んでいる。


 国王暗殺未遂。

 王国秘宝強奪。

 禁制魔術使用。

 国家転覆計画。


 罪状だけ並べれば、確かに極悪人だ。

 だから彼らが怒ること自体は理解できた。


 護送馬車が止まった。

 扉が開き、光が差し込む。

 広場の歓声が爆発した。


「アリス・フォン・ルーヴェルト!」

「侯爵令嬢だからって、許されると思うな!」

「殺せ!」


 アリスは馬車から降りた。

 足元が少しふらつく。

 怖い。ここまで来ても、やはり怖い。

 心臓が速い。口の中が乾く。手のひらには汗。

 けれど、顔は上げた。


 処刑台へ続く十三段の階段。

 一段。二段。三段。登りながら数える。

 これを上り終えたら、自分は死ぬ。


 四段。五段。

 数年前に病死した母の顔が浮かんだ。

 最後に交わした言葉まで思い出そうとして、アリスはやめた。

 今考えれば、泣いてしまうだろう。

 泣くこと自体を恥ずかしいとは思わない。

 だが、この人々の前でだけは泣きたくなかった。


 六段。七段。

 父はどうしているだろう。

 父には最後まで面会が許されなかった。

 侯爵家は既に爵位停止。使用人たちは散り散りになったと聞いている。

 自分一人の罪で。いや、自分に着せられた罪で全てが壊れた。


 八段。九段。十段。

 悔しい。やってもいないことで、自分の人生を決められること。

 死ぬことより、これが一番悔しかった。

 自分が何を考え。誰を愛し。何を望んだのか。

 そんなことは一切関係なく、紙に書かれた罪状だけで、アリス・フォン・ルーヴェルトという人間を決めつけられたことが。

 だからせめて笑おうと思った。

 負けた顔だけは、してやらない。


 十一。十二。十三。

 処刑台へ上がる。


 正面上方、処刑台を見下ろす位置に王族席が見えた。

 国王はいない。療養中という名目だ。

 代わりに中央へ座っているのは、王太子レオンハルトだった。

 黄金色の髪。整った顔立ち。純白の王太子礼装。

 民衆へ向けて微笑む姿だけを見れば、絵本に出てくる理想の王子そのものだった。


 ただアリスは彼を昔から知っている。

 夜会で何度も顔を合わせた。会話したこともある。

 その印象を一言で言うなら。

 ――浅い。

 自分は賢いと思っている人間特有の、妙な自信がある。

 民の前では善良。

 貴族の前では威厳。

 女性の前では紳士。

 どれもそれらしく演じている。けれど、その奥に何もない。

 少なくとも今のアリスにはそう見えていた。

 レオンハルトが立ち上がる。


「アリス・フォン・ルーヴェルト」


 よく通る声が広場に響き、群衆が静まる。


「侯爵令嬢という恵まれた立場にありながら、父王陛下への暗殺を企て、王国秘宝を奪い、国を混乱へ陥れようとした罪」


 芝居がかっていると、アリスは思った。

 もう少し短くできないのだろうか。


「その罪、万死に値する」


 レオンハルトは悲しげな顔を作る。


「かつて私は、君を王国を支える良き貴族の一人だと思っていた」


 嘘だ。

 そもそも彼はアリスのことなど、ほとんど見ていなかった。


「残念だ」


 レオンハルトは胸へ手を当てる。


「最後に申し開きはあるか」


 レオンハルトが言う。形式上の問いだ。

 判決は変わらない。

 それでも、アリスは一歩前へ出た。

 鎖が鳴る。


「あります」


 アリスの一言に広場が静まりかえった。

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