第10話 笑う猫は、姿を持たない
第10話 笑う猫は、姿を持たない
鏡を抜け、【虚像回廊】へ足を踏み入れて十分もしないうちに、アリスは自分たちが道に迷ったことを認めた。
「同じ鏡、三回目です」
「違うよ、お嬢様」
先頭を歩いていたヴェルトが、巨大なシルクハットを押さえながら振り返る。
「一回目は右側にひびがあった。二回目は左側。これは両方にある」
「悪化してません?」
「成長と呼んでほしいな」
「迷路が成長してどうするんです」
両側の壁を埋め尽くす鏡は、同じ通路を映していない。
一本には花畑が広がり、別の鏡には王都の夜景が映る。海中を泳ぐ魚の群れや、誰もいない食卓を映すものまであった。
どれが実在する景色なのか、そもそも実在するものが一つでもあるのか分からない。
「仮面。道は合っているんだろうな」
ルシアンが尋ねる。
「たぶん」
「案内人が二人に増えたのに、どうして両方とも頼りないんです?」
「俺をそいつと一緒にしないでよ」
ヴェルトが抗議する。
「俺はちゃんと迷ってる」
「それは自慢になりません」
泣き笑い仮面が銀の杖で床を叩いた。
「【虚像回廊】は、通る人間の認識に合わせて道が変わる。正しい道を探そうとすると、正しいように見える道が増えるんだ」
「では、どうやって抜けるんです?」
「間違った道を選ぶ」
「意味が分かりません」
「僕も最初はそう思ったよ」
アリスは頭痛を覚えた。
鏡界へ来てから、理屈が通じないものばかり増えている。
それでも理屈がないわけではない。
理解できていないだけだと自分へ言い聞かせ、アリスは腰の【グラス・ヴェリタス】へ手を伸ばした。
何もなかった。
「……あら?」
もう一度触る。
鞘ごと消えている。
「ルシアン」
「どうした」
「私の剣がありません」
ルシアンの顔から疲労が消えた。
「いつからだ」
「今、気づきました」
「お嬢様、それって――」
ヴェルトが言い終えるより早く、頭上から声が降ってきた。
「これ?」
全員が見上げた。
鏡張りの天井から、銀紫色の髪をした少年が逆さまに覗き込んでいる。
猫のような耳と金色の瞳。
細身の身体に黒と紫のボーダーセーター、黒のデニム。
口元には、人を馬鹿にしているような笑みが浮かんでいた。
その手に【グラス・ヴェリタス】がある。
「返してください」
「嫌だ」
「では降りてきてください」
「もっと嫌」
「交渉する気は?」
「ないよ」
「分かりました」
アリスはルシアンを見る。
「捕まえてください」
「俺に振るのか」
「私は武器を盗まれましたので」
「その武器を簡単に盗まれるな」
「反省は後でします」
ルシアンが天井へ踏み込んだ。
同時に少年が笑う。
「遅いよ、騎士様」
姿が消えた。
ルシアンの手は空を掴む。
「何……?」
「右です!」
アリスが叫ぶ。
少年はいつの間にか通路の右端に立っていた。
ルシアンが振り向く。
「どこだ?」
「そこです!」
「誰もいないぞ」
アリスは言葉を失った。
少年は確かにいる。
鏡へ背中を預け、【グラス・ヴェリタス】を肩に載せて笑っている。
「ヴェルトさん、見えます?」
「何が?」
「紫色の髪の少年です」
「お嬢様、疲れてない?」
「仮面さんは?」
泣き笑い仮面は、少年がいる場所ではなく、その少し横を見ていた。
「……なるほど。まだいたんだ」
「見えるんですか?」
「正確には、いることを知ってる」
少年の笑みが僅かに消えた。
「余計なこと言うなよ、おじさん」
「おじ――」
仮面の奥から明らかに不機嫌な声がした。
「僕はまだ二十九だよ」
「十分おじさんじゃん」
「君、昔から本当に可愛くないね」
「昔?」
アリスが聞き返すと、二人とも黙った。
「今、重要な情報がありましたよね?」
「なかった」
「ないね」
「息が合っていますね」
「やめて」
二人の声が重なった。
少年は【グラス・ヴェリタス】を弄びながら、再び歩き出す。
「返してください」
「やだって」
「なぜ盗んだんです?」
「面白そうだったから」
「それだけ?」
「それだけ」
アリスは少年を追った。
ルシアンたちは動かない。
「何をしてるんです?」
「お前こそ誰を追ってる」
ルシアンの視線は、少年の身体を素通りしている。
アリスはようやく異常の意味を理解し始めた。
姿を消しているのではない。
目の前にいるのに、認識されていない。
「あなた、何をしたんです?」
少年が振り返る。
「何って?」
「透明になっているわけではありませんね」
「へえ」
金紫の瞳が細くなる。
「どうして?」
「透明なら、服や剣まで見えなくする説明が必要です。それに鏡にも映っていない。でも私は見えている」
「だから?」
「消えているのは姿ではなく、あなたが『そこにいる』という認識そのもの」
少年は足を止めた。
「お嬢様」
ヴェルトが背後から声をかける。
「本当にそこに誰かいるの?」
「います」
「どんな奴?」
「銀紫の髪、猫耳、黒と紫のセーター。性格は悪そうです」
「最後は余計じゃない?」
少年が抗議した。
「聞こえているなら返してください」
「やだ」
「やっぱり性格が悪いですね」
少年は楽しそうに笑うと、また姿を消した。
今度はアリスの目からも完全に消える。
だが、一瞬だけだった。
右目が熱を持ち、通路の奥に細い歪みが浮かぶ。
アリスはそこへ走った。
「お嬢様?」
「ついてきてください!」
「何が見えてるんだよ!」
「猫です!」
「猫!?」
ヴェルトの困惑した声を置き去りにして、アリスは角を曲がる。
少年がいた。
先ほどまでの余裕が消え、驚いた顔でこちらを見ている。
「なんで?」
「何がです?」
「なんで僕がいる場所が分かるの?」
「なぜかは分かりません」
「は?」
「理由は後から検証します」
アリスは息を整えながら近づく。
少年が一歩退いた。
「来るなよ」
「剣を返せば止まります」
「それだけ?」
「今のところは」
「嘘だ」
「何が?」
「僕を見つけたいんだろ」
少年の笑みが戻った。
けれど、先ほどまでとは少し違う。
笑っているのに、目だけが警戒していた。
「見つけて、どうするの?」
「まず剣を返してもらいます」
「その後」
「どうして他の人には見えないのか聞きます」
「その後は?」
「答え次第です」
少年は黙った。
「変な奴」
「あなたに言われたくありません」
「普通は怖がるよ」
「少し怖いですよ」
アリスは正直に答えた。
「でも、分からないままの方が気持ち悪いです」
「もっと変な奴」
少年は【グラス・ヴェリタス】を握り直した。
「じゃあ、捕まえてみなよ」
次の瞬間、彼の身体が鏡の中へ沈んだ。
「待って!」
アリスも追う。
鏡へ手を触れた瞬間、表面が水のように揺れ、身体が引き込まれた。
「アリス!」
ルシアンの声が遠ざかる。
視界が反転し、アリスは別の通路へ投げ出された。
顔を上げる。
無数の鏡が並ぶ中、少年が一人で立っていた。
「ここまで来るとは思わなかった」
「私もです」
「普通、知らない鏡に飛び込む?」
「剣を盗まれたので」
「命より大事?」
「そういう比較をする人とは、ついさっき決着をつけました」
少年は一瞬きょとんとして、それから腹を抱えて笑った。
「何それ。お姉さん、面白いね」
「アリスです」
「名前まで教えるんだ」
「呼びにくいでしょう」
「僕が敵だったら?」
「もう剣を盗まれています。今さらです」
「変なの」
「あなたの名前は?」
笑い声が止まった。
少年は口を開きかけて、閉じる。
「……忘れた」
アリスは聞き間違えたと思った。
「何を?」
「名前」
少年は笑っていた。
けれど、その笑顔だけが鏡の多い通路で不自然なほど寂しく見えた。
「ずっと呼ばれてないとさ、案外忘れるんだよ」
アリスが何も言えないうちに、少年は再び笑みを深くした。
「まあ、いいや」
【グラス・ヴェリタス】を肩へ担ぐ。
「取り返したかったら、僕を見つけてよ」
姿が薄くなる。
「見つけられるならね」
最後に笑った口元だけを残して、少年は世界から消えた。
今度は左目を凝らしても、どこにも見つからなかった。
それでもアリスは、誰もいなくなったはずの通路を見つめ続けた。
名前を忘れるほど、誰にも呼ばれなかった少年。
彼が本当に消えたのか、それとも見つけられなくなっただけなのか、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、【グラス・ヴェリタス】を取り戻すには、姿ではなく存在そのものを見失わせる猫を捕まえなければならないということだった。




