第59話 正しくて優しい世界
硝子の向こうで、幼い子供が怯えていた。
薄暗い部屋の隅に膝を抱え、扉の向こうから聞こえる足音に肩を震わせている。
頬には新しい痣があり、痩せた腕には古い傷が幾筋も残っていた。
まだ誰かを疑うことも、自分を守る方法を知ることもできない年齢の子供が、大人の機嫌ひとつで明日の安全を奪われようとしていた。
アリスは、その映像から目を逸らせなかった。
レオンハルトが見せた【完成世界コンプリート・エデン】では、この子供は救われる。
暴力を振るおうとする大人の衝動は事前に抑制され、危険を察知した管理機構が適切な保護先を用意する。
子供は安全な寝床を与えられ、必要な治療を受け、恐怖に怯えることなく眠れるようになる。
それが実現できるのなら、どれほどいいだろう。
アリスは心からそう思った。
母を失った日のことを、今も覚えている。
自分が何を間違えたのかも分からないまま罪人とされ、誰も助けてくれない場所へ連れていかれた時の恐怖も、忘れていない。
もし、あの時に誰かが手を差し伸べてくれたなら。もし、悲劇が起こる前に止められたなら。そんな願いを抱いたことは、一度や二度ではなかった。
だからこそ、レオンハルトの問いは残酷だった。
「それでも犠牲になる子供を見捨てるのか」
黒い硝子の広間に、その声が静かに響いていた。
アリスの背後では、ルシアンたちが黙って待っている。
誰も答えを急がせず、彼女に代わって反論しようともしなかった。
アリスは映像の中の子供を見つめ、長い時間をかけて息を吸った。
「……見捨てたくありません」
レオンハルトは何も言わなかった。
「助けられるのなら、助けたいです。あの子だけじゃありません。病気で苦しむ人も、戦争で家族を失う人も、間違った判決で人生を奪われる人も、できることなら全員助けたい」
自分の声が震えているのを、アリスは感じていた。
それでも、言葉を続けた。
「だから、助ける方法を探します。間違えたら、やり直します。それでも助けられない人がいるかもしれません」
「それでは不完全だ」
「ええ。不完全です」
アリスは頷いた。
そして、右手に握った【グラス・ヴェリタス】を静かに構えた。
黒い刀身に七つの鏡印が浮かび上がり、心臓領域【ハートコア】を満たす魔力が微かに震える。
「あなたの世界は正しい。少なくとも、あなたが示した未来では、多くの苦しみがなくなっています」
レオンハルトは静かに頷いた。
「ならば、なぜ拒む?」
「正しすぎて、人間が必要ありません」
初めて、レオンハルトの眉が動いた。
アリスは彼を見つめたまま続けた。
「あなたの世界では、誰も重大な失敗を犯しません。人を傷つける前に怒りを抑えられ、間違った判断を下す前に考えを修正され、危険な未来を選ぶ前に別の道へ導かれる。そうすれば、確かに多くの人が救われるのでしょう」
「それが悪いことだとは思わない」
「私も、苦しみを防ぐことが悪いとは思いません」
アリスは首を振った。
「でも、あなたの世界では、本人が選ぶより先に、管理機構が正解を決めています。誰かを愛することも、誰かを疑うことも、自分が何になりたいかを考えることも、世界にとって望ましい範囲に収められてしまう」
脳裏に、空飛ぶ城を描こうとしていた少年の姿が浮かんだ。
あの子は、魚の王様が空を泳ぐ絵を描きたかった。
けれど管理機構は、その発想をより整った、無難な街の風景へ導こうとしていた。
誰も傷つかない。
誰も困らない。
それでも、少年が本当に描きたかった絵は、完成しない。
「あなたがなくそうとしているのは、間違いだけじゃありません。人間が自分の人生を決めることそのものです」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
やがて、彼は穏やかな声で答えた。
「選択を奪うことと、選択による被害を防ぐことは、必ずしも同じではないよ。例えば、あの子供を守るために暴力を止めることは、加害者の自由を制限する行為だ。それでも君は、止めるべきだと考えるだろう?」
「はい」
「ならば、問題は制限するかどうかではなく、どこまで制限するかだ」
レオンハルトは映像へ目を向けた。
「人間は、その境界を何度も間違えてきた。権力者は自分に都合のよい法律を作り、裁判官は証拠を見落とし、親は愛情という名目で子供を傷つける。誰かが間違いを正す頃には、もう取り返しがつかなくなっていることも多い」
彼はアリスへ視線を戻した。
「僕は、その失敗を可能な限りなくしたい。それだけなんだ」
アリスは、すぐには反論できなかった。
レオンハルトの言葉には、確かに正しい部分があった。
誰かの自由を守るためには、別の誰かの行動を制限しなければならない場合がある。
殺人を禁じることも、暴力を止めることも、弱い者を守るための法律を作ることも、その意味では人間の選択を制限している。
問題は、制限そのものではなかった。
誰が、何を根拠に、どこまで決めるのか。
そして、間違った時に、その決定を覆せるのか。
「……あなたの管理機構は、間違えた時に誰が止めるんですか?」
アリスが尋ねると、レオンハルトは答えた。
「管理機構自身が、継続的に検証する」
「その検証が間違っていたら?」
「より多くの情報を集め、修正する」
「修正するかどうかを決めるのも、管理機構ですか?」
「そうだよ」
アリスは静かに息を吐いた。
「だったら、そこには、誰も異議を申し立てられません」
「異議は受け付ける。必要なら再評価もする」
「でも、最後に正しいかどうかを決めるのは、いつも同じ存在です」
レオンハルトの表情が、わずかに硬くなった。
アリスは続けた。
「私が母を取り戻したいと願った時、管理機構はその願いを叶えようとしました。でも、あの人が本当に母なのか、母自身が何を望んでいたのか、確かめることはできなかった。それでも、私が望めば完成させられたんです」
黒い硝子の床へ、視線を落とす。
つい先ほどまで、そこには母が立っていた。
触れられなかった手の温もりを、アリスはまだ覚えているような気がした。
「私にとって都合のよい母を作ることと、母を救うことは違います。あなたの世界でも、同じことが起こるのではありませんか」
「……君は、僕が人間を理解していないと言いたいのかい?」
「いいえ」
アリスは顔を上げた。
「あなたは、人間の苦しみをよく知っています。だからこそ、ここまでのものを作れたのでしょう」
その言葉に、レオンハルトは目を細めた。
「でも、人間が何を幸せだと思うかまで、あなたが決めていい理由にはなりません」
長い沈黙が落ちた。
巨大な【ハートコア】が、低い鼓動を響かせる。
やがて、レオンハルトは小さく頷いた。
「……なるほど。君の考えは理解したよ」
彼は玉座の脇へ歩み寄り、そこに浮かぶ管理紋章へ手を触れた。
「ならば、僕も最後の条件を話しておこう」
広間の中央に、複雑な魔術式が現れた。
七つの鏡印を中心に、幾重もの円環が重なっている。
その最奥には、アリスがまだ見たことのない管理者識別式が刻まれていた。
――PRIMARY ADMINISTRATOR:LEONHARD DIA-NOX GRANFELD.
【主任管理者:レオンハルト・ディア=ノクス・グランフェルド】
――FINAL INTEGRATION:PENDING.
【 最終統合:待機中】
――PERSONAL IDENTITY:TO BE SURRENDERED.
【個人人格:放棄予定】
アリスは目を見開いた。
「……これは」
「【完成世界コンプリート・エデン】が成立した後、僕も管理機構へ統合される」
レオンハルトは淡々と言った。
「王位は必要ない。永遠に生きることも、誰かに称えられることも望んでいない。僕という人格が残る必要さえないんだ」
ハロルドが一歩前へ出た。
「レオンハルト。お前は……」
「驚くことではありません、兄上」
レオンハルトは兄へ穏やかに微笑んだ。
「誰か一人の意思が世界を支配することを、僕自身も危険だと思っています。だから、完成後の管理機構には、僕の個人的な感情や欲望を残さない。僕は最後の設計者として役目を終え、あとは世界そのものが最適な判断を続ける」
「……自分まで捨てるつもりか」
「必要なら」
レオンハルトは迷わず答えた。
「僕一人が人間でなくなることで、何万、何百万という人々が救われるのなら、十分に価値のある取引でしょう」
ヴェルトが帽子のつばを押さえた。
「ずいぶんと景気のいい取引だねえ。自分を全部差し出すとは、俺でもなかなか真似できない」
「君の【終局取引ラスト・ディール】と、構造は似ているかもしれないね」
「似てないさ」
ヴェルトは笑みを消した。
「俺は自分の賭けで損をした。あんたは自分の賭けに、世界中の人間を参加させようとしてる」
レオンハルトは反論しなかった。
代わりに、ハロルドへ向き直った。
「兄上の理想では、また人が死ぬ」
その声は静かだったが、揺るぎない確信があった。
「裁判を改めても、政治を正しても、戦争を止めようと努力しても、必ず失敗は起こる。兄上は、それを分かっているはずです」
「ああ」
ハロルドは頷いた。
「私の理想では、また人が死ぬだろう」
レオンハルトは、兄の答えを待った。
「だが、お前の理想では、人は生きていない」
「死なずに済むなら、それで十分だろう」
「生きるとは、ただ死なないことではない」
ハロルドは弟を見つめた。
「私は長い間、王国を守るためなら、多少の犠牲は仕方がないと考えてきた。正しい結末が見えているのなら、そこへ至る道を選ばせることも許されると思っていた」
彼はアリスへ視線を向けた。
「私も、お前の未来を勝手に決めようとした。だから、今は分かる。どれほど正しい結末が見えていても、他人の人生を所有する権利にはならない」
レオンハルトの唇が、わずかに動いた。
「兄上は、未来が見えるからこそ、そう言えるんです」
「違う」
ハロルドは首を振った。
「未来が見えても、人が何を選ぶかまでは決められないと知ったからだ」
弟の顔に、初めて明確な動揺が浮かんだ。
けれど、それはほんの一瞬だった。
レオンハルトは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……それでも、僕は犠牲を減らせる世界を選ぶ」
彼は管理紋章へ手を重ねた。
「君たちが間違っているとは言わない。ただ、僕には、目の前で救える命を見捨てることができない」
魔術式が一斉に輝いた。
――COMPLETE EDEN:FINAL PROCESS INITIATED.
【完成世界:最終工程開始】
――SEVEN MIRROR MARKS:CONFIRMED.
【七つの鏡印:確認済み】
――ADMINISTRATOR SUCCESSION:FORCED ACTIVATION.
【 管理権継承:強制起動】
アリスの身体を、冷たい魔力が貫いた。
「……っ!」
七つの鏡印が、彼女の意思とは無関係に発光する。
黒い軍装風のドレスを走る銀色の紋様が、腕から首筋へ広がり、右の青い瞳と左の赤い瞳に管理文字列が溢れた。
レオンハルトが顔を上げた。
「アリス。君には、まだ選ぶ余地がある」
彼の背後で、【ハートコア】が大きく脈動した。
「自分の意思を保ったまま、世界の管理を引き受けてほしい。君なら、僕が見落としたものを補える。君が管理者になれば、僕の設計よりも優しい世界にできるかもしれない」
アリスは歯を食いしばった。
「……私が、断ったら?」
「その場合は、管理機構が君の権限を回収する」
レオンハルトの声に、ためらいはなかった。
「人格の一部が損なわれる危険はある。だから、できれば君自身に選んでほしい」
「……選ばなければ、奪うんですね」
「君を失うことは望んでいない」
アリスは顔を上げた。
「私も、あなたに自分を失ってほしくありません」
その言葉に、レオンハルトはわずかに目を見開いた。
しかし、管理紋章から手を離すことはなかった。
次の瞬間、黒い硝子の床から無数の光柱が立ち上がった。
ルシアンが真っ先に動いた。
「アリス、下がれ!」
大剣が振り下ろされ、迫る光柱の一本を叩き折る。砕けた光が床へ散った直後、別の柱が彼の左側から伸びた。
ルシアンは傷ついた左腕を庇いながら身を捻ったが、避けきれず肩を掠められた。
「ルシアン!」
「構うな。お前は前を見ろ」
彼は短く答え、再び剣を構えた。
ルミナスが床を蹴った。
「こっちは任せて!」
双剣【グリン】と【グリム】が銀色の軌跡を描く。ルミナスは光柱の隙間を縫い、管理紋章へ向かって跳躍した。
しかし、その進路を読んだように、硝子の壁が立ち上がる。
「うわっ!」
ルミナスは空中で身体を捻り、壁を蹴って着地した。
「ずるい! 先回りしてる!」
「管理機構だからね」
レオンハルトが静かに答えた。
「君たちの行動傾向は、すでに学習されている」
ヴェルトが帽子を押さえた。
「だったら、少しばかり予想外の値段をつけてやろうか」
彼は指を鳴らした。
【マッド・ディール】の魔術式が短く輝き、ルミナスの進路を塞ぐ硝子壁と、その隣にある破片の価値が一瞬だけ入れ替わる。
壁の強度が失われ、ルミナスの蹴りで砕け散った。
「ありがと、ヴェルト!」
「礼はあとでいい。今の俺は、長くは保たないからね」
ヴェルトの輪郭が微かに揺らいだ。
禁術の代償は、まだ彼の存在を削っている。
アリスは仲間たちの動きを見つめた。
視界に、彼らの行動予測が浮かんでいた。
ルシアンの次の一撃。
ルミナスが選ぶ回避経路。
ヴェルトが交換できる価値の範囲。
ハロルドが見ている可能な結末。
すべてが、数値と確率へ変換されていく。
――ALLIED INTERVENTION:SUPPRESSION RECOMMENDED.
【仲間による介入:抑制を推奨】
――PERSONAL IDENTITY:INTEGRATION PROGRESSING.
【個人人格:統合進行中】
アリスは息を呑んだ。
このままでは、また仲間たちを管理対象としてしか見られなくなる。
それだけではない。
管理機構は、彼らの行動を止めるための最適な方法まで提示していた。
ルシアンの傷を利用すれば、戦闘能力を奪える。
ヴェルトの存在安定性を下げれば、介入を停止させられる。
ルミナスの観測情報を固定すれば、【バニシング・グリン】を封じられる。
ハロルドの未来視へ偽の分岐を与えれば、判断を誤らせることも可能だった。
そのすべてが、アリスには理解できた。
そして、実行できてしまう。
――NOIR MIRAGE:STAGE THREE ACCESS AVAILABLE.
【黒鏡世界ノワール・ミラージュ:第三段階への接続可能】
――HOSTILE ADMINISTRATOR:LEONHARD.
【敵対管理者:レオンハルト】
――PERSONALITY DELETION:AUTHORIZED.
【人格消去:許可済み】
アリスは、目の前に浮かんだ文字列を見つめた。
レオンハルトを消去する。
その命令を実行すれば、管理機構の完成工程は止まるかもしれない。
彼の人格を鏡界から削除し、存在の記録を断ち切れば、少なくとも今この瞬間の脅威は取り除ける。
しかし、それは同時に、アリス自身が誰かの生死を一方的に決めることでもあった。
自分が正しいと判断したから、相手を消す。
それでは、レオンハルトと同じだった。
アリスは、浮かんでいた命令を閉じた。
「……私は、あなたを消しません」
レオンハルトが顔を上げた。
「それでは、君が負けるかもしれない」
「それでもです」
アリスは【グラス・ヴェリタス】を握り直した。
「あなたが間違っていると思うからといって、あなたの人生まで私が決めていいわけではありません」




