第58話 みんなの声
続いて、静かな足音が近づいてきた。
ハロルドだった。
彼はアリスの前で立ち止まり、しばらく何も言わなかった。
【ラスト・ページ】の光は、すでに消えている。
彼が何を見たのか、アリスには分からなかった。
ただ、その表情には、これまで以上に深い疲労が刻まれていた。
「……アリス」
ハロルドは静かに口を開いた。
「私がお前を利用した事実も消すな」
アリスは彼を見つめた。
その言葉は、予想していなかった。
「……どうして、今それを?」
「お前の力なら、私がしてきたことも、なかったことにできるかもしれない」
ハロルドは苦く笑った。
「王家の記録を改竄し、私の判断を正しいものとして再構築することもできるだろう。あるいは、お前が私を憎んだ記憶だけを消すことも」
アリスは唇を噛んだ。
禁書領域で、彼女はハロルドを殴った。
自分が利用されていたことを知り、怒りを抑えられなかった。
あの時の痛みも、怒りも、今も覚えている。
「……私は、あなたを許したわけではありません」
「分かっている」
ハロルドは頷いた。
「王国のためだったと言えば、説明にはなる。だが、それでお前が受けた苦しみまで正当化されるわけではない」
彼はアリスから目を逸らさなかった。
「私は、鏡界の秘密を暴くために、お前の力を必要とした。その過程で、お前がどれほど傷つくかを、十分に考えなかった」
アリスは黙って聞いていた。
「お前の母親が殺される計画を、私は事前に知らなかった。だが、知らなかったことを理由に、王家が犯した罪から目を背けるつもりもない」
ハロルドは静かに息を吐いた。
「私がしたことは、私が引き受ける」
アリスの視界に、管理記録が浮かんだ。
――SUBJECT:HAROLD ARTEMIS GRANFELD.
【対象:ハロルド・アルテミス・グランフェルド】
――PAST MANIPULATION:CONFIRMED.
【 過去の利用・操作行為:確認済み】
――GUILT RESPONSE:HIGH.
【罪悪感反応:高】
――MEMORY ALTERATION:AVAILABLE.
【記憶改変:利用可能】
アリスは、その文字列を見つめた。
もし、ハロルドが自分を利用した記憶を消せば。
もし、彼が最初から誠実な協力者だったことにすれば。
自分は、彼を憎まずに済むかもしれない。
けれど、それは本当に赦しなのだろうか。
相手がしたことを忘れ、怒りを感じなくなることと、相手の行為を理解したうえで関係を選び直すことは、同じではない。
「……ハロルド殿下」
アリスは静かに言った。
「私は、あなたを許せるかどうか、まだ分かりません」
「それでいい」
ハロルドは頷いた。
「お前が決めることだ」
アリスは彼の顔を見つめた。
そこには、赦しを求める期待も、言い訳もなかった。
ただ、自分がしたことを引き受けようとする一人の人間がいた。
アリスはゆっくりと息を吐いた。
「……分かりました」
その返答に、ハロルドは深く頭を下げた。
王子としてではなく、一人の人間として。
アリスは、その姿を黙って見つめていた。
四人の言葉が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
ルシアンは、罪を消さないことを選んだ。
ヴェルトは、失敗した過去を引き受けることを選んだ。
ルミナスは、予測できない未来を楽しむことを選んだ。
ハロルドは、自分が犯した過ちを記録から消さないことを選んだ。
誰も、アリスに命令しなかった。
母の再構築を止めろとも、管理権を捨てろとも言わなかった。
ただ、自分がどう生きたいのかを語った。
そのことが、アリスには何よりも大切に思えた。
彼女は、もう一度母の姿へ目を向けた。
女性は、変わらず微笑んでいる。
その表情は、優しく、温かかった。
アリスは、手を伸ばしたまま動けずにいた。
すると、七つの鏡印が微かに震えた。
最初に届いたのは、恐怖に怯えながらも前へ進もうとした誰かの感情だった。
続いて、欲望を否定されずに生きたいと願った者の声。
与えられた役割から抜け出し、自分の名前で生きることを選んだ者の記憶。
知らないことを知ろうとした者の好奇心。
痛みを抱えながら、それでも生きることを選んだ者の決意。
正しいとされた判決を疑い、もう一度証拠を見つめ直した者の祈り。
そして、愛する人を守るために、その人の自由を奪わないことを選んだ者の思い。
それらは、鏡界の各階層で出会った鏡姫たちの記録だった。
アリスは目を閉じた。
声が聞こえる。
はっきりとした言葉ではないものもあった。
けれど、そこには確かに、彼女たちが選んだ人生の重さが残っていた。
『怖くても、進んでいい』
『欲しいものを、欲しいと言っていい』
『誰かが決めた役目だけが、あなたじゃない』
『知らないことを、恐れなくていい』
アリスの胸が熱くなった。
続いて、懐かしい声が届いた。
『痛みを消さなくても、あなたは生きていける』
セラフィナだった。
第五階層で出会った鏡姫。
安寧という名の檻の中で、人々の苦しみを消そうとしていた彼女は、最後に、痛みを抱えたまま生きることを選んだ。
アリスは、彼女の顔を思い出した。
あの時、セラフィナは確かに苦しんでいた。
けれど、苦しみを消すことだけが救いではないと知った時、彼女は初めて自分の意思で未来を選んだ。
『アリス』
セラフィナの声が、もう一度響いた。
『あなたは、誰かの代わりになるために生きているんじゃない』
アリスの目から、涙がこぼれた。
七つの鏡印が、静かに輝きを増していく。
それは、管理機構が発する命令ではなかった。
過去に出会った人々が、それぞれの意思で残した記録だった。
最後に、いくつもの声が重なった。
『あなたはアストレアじゃない。アリスよ』
アリスは目を開けた。
視界には、まだ管理記録が浮かんでいる。
母の人格完成度。
必要な魔力。
管理者人格の統合率。
そのすべてが、冷静に理解できた。
けれど、今のアリスには、それらの数値よりも大切なものが見えていた。
目の前の母。
そして、その向こうにいる仲間たち。
アリスはゆっくりと手を下ろした。
再構築された母が、不思議そうに首を傾げる。
「……アリス?」
その声を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
会いたかった。
ずっと、会いたかった。
この手を握り、抱きしめてもらいたかった。
母が死んでから、何度も夢に見た。
自分がどれほど寂しかったのか、どれほど怖かったのか、そして、今は大切な仲間がいることを、伝えたかった。
けれど。
目の前の女性が、本当に母の意思を持っているのかは分からない。
記録の中に、母の意識の一部が残っている可能性はある。
しかし、欠けた部分を自分の願望で補い、都合のよい言葉を話す存在として完成させることは、母が生きた人生を取り戻すこととは違う。
母は、自分の意思を持った一人の人間だった。
娘を愛し、王家の計画に反対し、そのために命を奪われた人だった。
その人の人生を、娘の寂しさだけで書き換えていいはずがない。
「……お母様」
アリスは声を震わせた。
「私は、あなたに会いたかった」
女性は優しく微笑んだ。
アリスは涙を拭った。
「でも、あなたの人生を、私の寂しさで書き換えたくありません」
その言葉とともに、彼女は《グラス・ヴェリタス》を掲げた。
――NOIR MIRAGE:STAGE TWO.
【黒鏡世界:第二段階】
――PERSONALITY RECONSTRUCTION:ACTIVE.
【人格再構築:実行中】
――COMPLETION:89%.
【完成度:89%】
アリスは、管理記録へ意識を向けた。
母の人格を完成させるための命令。
欠損した記憶を補う推定処理。
アリス自身の記憶と価値判断を参照する統合経路。
それらを、一つずつ確認した。
そして、静かに命じた。
「……再構築を、停止します」
黒い硝子の広間に、澄んだ音が響いた。
母の姿を形作っていた光の糸が、ゆっくりとほどけていく。
女性の輪郭が薄くなり、長い黒髪が光の粒へ変わっていった。
アリスは唇を噛みしめた。
止めたはずなのに、胸が痛かった。
自分で選んだはずなのに、今すぐ命令を取り消したくなった。
母の手は、まだ目の前にある。
あと少しだけ待てば、触れられたかもしれない。
アリスは、その誘惑から目を逸らさなかった。
女性は最後まで微笑んでいた。
それが、母の記録に残された表情なのか、管理機構が補ったものなのかは分からない。
けれど、アリスはその微笑みを見つめ続けた。
「……さようなら、お母様」
声が震えた。
「あなたのことを、忘れません」
女性の姿が、静かに消えた。
光の糸は黒い硝子の床へ吸い込まれ、広間には再び【ハートコア】の鼓動だけが響いた。
アリスはしばらく動けなかった。
胸の奥に、大きな空白が残っていた。
それでも、その空白を無理に埋めようとは思わなかった。
母の記録は、消していない。
生前の言葉も、姿も、行動も、魔術的な人格情報の一部も、そのまま保存されている。
いつか、誰かが新しい証拠を見つけるかもしれない。
母が何を考え、何を望んでいたのか、今よりも正確に知る日が来るかもしれない。
けれど、それまでは、分からないままでいい。
分からないことを、自分に都合のよい答えで埋める必要はない。
アリスはゆっくりと息を吐いた。
視界に浮かんでいた管理記録が、少しずつ薄れていく。
仲間たちの顔が、はっきりと見えた。
ルシアンの傷ついた左腕。
ヴェルトの疲れた笑み。
ルミナスの心配そうな瞳。
ハロルドの静かな表情。
彼らは、数値でも、保護対象でもなかった。
自分と一緒に、ここまで歩いてきた人々だった。
アリスは涙を拭い、仲間たちへ向き直った。
「……ありがとうございます」
ルミナスが駆け寄ってきた。
「アリス!」
今度は、途中で止まらなかった。
少年は勢いよくアリスへ抱きつき、両腕でしっかりと抱きしめた。
アリスは驚いたが、すぐにその背へ手を回した。
「……苦しいです、ルミナス」
「知ってる!」
「少し、力を緩めてください」
「やだ!」
ルミナスは笑いながら、さらに強く抱きしめた。
アリスは困ったように息を吐いた。
けれど、その顔には、確かな笑みが浮かんでいた。
ヴェルトが帽子を指先で回した。
「いやあ、感動的だねえ。できれば俺も混ぜてほしいところだが、今の俺が抱きついたら、途中で消えちまいそうだ」
「ヴェルトは後!」
「ひどい扱いだなあ」
ルシアンは小さく息を吐き、ハロルドは静かに目を伏せた。
アリスは仲間たちを見つめた。
自分は、母を取り戻せなかった。
失った時間も、戻らない。
それでも、今ここには、確かに大切な人々がいる。
彼らと過ごす未来は、まだ決まっていない。
どんな間違いを犯すかも、どんな悲しみを経験するかも分からない。
けれど、だからこそ、自分で選びたいと思った。
その時、広間の奥から静かな拍手が聞こえた。
レオンハルトだった。
彼は玉座の前に立ち、アリスを見つめていた。
「……見事だよ、アリス」
その声には、皮肉も怒りもなかった。
「君は、母親を取り戻せる可能性を前にしても、自分の意思を守った。七つの鏡印を統合した管理者として、実に興味深い選択だ」
アリスはルミナスから離れ、レオンハルトへ向き直った。
「……私は、管理者になるために選んだわけではありません」
「分かっているよ」
レオンハルトは頷いた。
「君は、自分がアリスであるために選んだんだろう?」
アリスは答えなかった。
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「それなら、一つだけ聞かせてほしい」
彼が指を動かすと、黒い硝子の広間に新たな映像が現れた。
小さな家。
薄暗い部屋。
その隅で、幼い子供が膝を抱えている。
子供の頬には痣があり、腕には古い傷が残っていた。
隣の部屋から、大人の怒鳴り声が聞こえてくる。
アリスは息を呑んだ。
子供は震えながら、扉を見つめていた。
逃げる場所はない。
助けを呼ぶ相手もいない。
ただ、次に扉が開くのを恐れている。
「この子は、明日も傷つけられる」
レオンハルトは静かに言った。
「管理機構が介入すれば、暴力を防げる。加害者の衝動を調整し、子供を安全な場所へ移すこともできる。だが、君が人間の選択を尊重するという理由で介入を拒めば、この子は苦しみ続けるかもしれない」
アリスは映像を見つめた。
子供の小さな肩が震えている。
その姿は、あまりにも現実的だった。
「……私は、誰かが傷つくことを望んでいるわけではありません」
「もちろん、そうだろう」
レオンハルトは頷いた。
「けれど、望まなくても傷つく人間はいる。誰かの自由な選択によって、別の誰かの人生が壊されることもある」
彼はアリスを見つめた。
「君は、母親の人格を自分の願望で完成させることを拒んだ。それは、君自身の選択として尊重したい」
レオンハルトの声が、わずかに低くなった。
「だが、世界には、自分で選ぶ力すら持たない子供たちがいる」
アリスは唇を噛んだ。
「……分かっています」
「本当に?」
レオンハルトは静かに問い返した。
「君が守ろうとしている自由は、強い者にとっては尊いものだろう。けれど、弱い者にとっては、誰かの自由に傷つけられる危険でもある」
彼は映像の中の子供へ目を向けた。
「僕は、その危険を減らせる。君が見た【完成世界コンプリート・エデン】は、ただの美しい夢ではない。実際に救われる命があるんだ」
アリスは黙っていた。
母の再構築を止めた時、自分は確かに一つの答えを選んだ。
けれど、その答えだけで、世界のすべてを救えるわけではない。
誰かの意思を尊重することと、誰かを傷つける行為を止めること。
その二つは、必ずしも同じ方向を向いているわけではなかった。
レオンハルトは、最後に静かに尋ねた。
「それでも犠牲になる子供を見捨てるのか」
アリスは、映像の中の子供を見つめた。
その問いから、目を逸らすことはできなかった。




