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断罪の国のアリス―Project Glass Eden―  作者: 塚田澄玻
第十章 黒鏡世界ノワール・ミラージュ
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第58話 みんなの声

 続いて、静かな足音が近づいてきた。

 ハロルドだった。

 彼はアリスの前で立ち止まり、しばらく何も言わなかった。

 【ラスト・ページ】の光は、すでに消えている。

 彼が何を見たのか、アリスには分からなかった。

 ただ、その表情には、これまで以上に深い疲労が刻まれていた。


「……アリス」


 ハロルドは静かに口を開いた。


「私がお前を利用した事実も消すな」


 アリスは彼を見つめた。

 その言葉は、予想していなかった。


「……どうして、今それを?」

「お前の力なら、私がしてきたことも、なかったことにできるかもしれない」


 ハロルドは苦く笑った。


「王家の記録を改竄し、私の判断を正しいものとして再構築することもできるだろう。あるいは、お前が私を憎んだ記憶だけを消すことも」


 アリスは唇を噛んだ。

 禁書領域で、彼女はハロルドを殴った。

 自分が利用されていたことを知り、怒りを抑えられなかった。

 あの時の痛みも、怒りも、今も覚えている。


「……私は、あなたを許したわけではありません」

「分かっている」


 ハロルドは頷いた。


「王国のためだったと言えば、説明にはなる。だが、それでお前が受けた苦しみまで正当化されるわけではない」


 彼はアリスから目を逸らさなかった。


「私は、鏡界の秘密を暴くために、お前の力を必要とした。その過程で、お前がどれほど傷つくかを、十分に考えなかった」


 アリスは黙って聞いていた。


「お前の母親が殺される計画を、私は事前に知らなかった。だが、知らなかったことを理由に、王家が犯した罪から目を背けるつもりもない」


 ハロルドは静かに息を吐いた。


「私がしたことは、私が引き受ける」


 アリスの視界に、管理記録が浮かんだ。


 ――SUBJECT:HAROLD ARTEMIS GRANFELD.

 【対象:ハロルド・アルテミス・グランフェルド】


 ――PAST MANIPULATION:CONFIRMED.

 【 過去の利用・操作行為:確認済み】


 ――GUILT RESPONSE:HIGH.

 【罪悪感反応:高】


 ――MEMORY ALTERATION:AVAILABLE.

 【記憶改変:利用可能】


 アリスは、その文字列を見つめた。

 もし、ハロルドが自分を利用した記憶を消せば。

 もし、彼が最初から誠実な協力者だったことにすれば。

 自分は、彼を憎まずに済むかもしれない。

 けれど、それは本当に赦しなのだろうか。

 相手がしたことを忘れ、怒りを感じなくなることと、相手の行為を理解したうえで関係を選び直すことは、同じではない。


「……ハロルド殿下」


 アリスは静かに言った。


「私は、あなたを許せるかどうか、まだ分かりません」

「それでいい」


 ハロルドは頷いた。


「お前が決めることだ」


 アリスは彼の顔を見つめた。

 そこには、赦しを求める期待も、言い訳もなかった。

 ただ、自分がしたことを引き受けようとする一人の人間がいた。

 アリスはゆっくりと息を吐いた。


「……分かりました」


 その返答に、ハロルドは深く頭を下げた。

 王子としてではなく、一人の人間として。

 アリスは、その姿を黙って見つめていた。


 四人の言葉が、胸の奥へ静かに沈んでいく。


 ルシアンは、罪を消さないことを選んだ。

 ヴェルトは、失敗した過去を引き受けることを選んだ。

 ルミナスは、予測できない未来を楽しむことを選んだ。

 ハロルドは、自分が犯した過ちを記録から消さないことを選んだ。


 誰も、アリスに命令しなかった。

 母の再構築を止めろとも、管理権を捨てろとも言わなかった。

 ただ、自分がどう生きたいのかを語った。

 そのことが、アリスには何よりも大切に思えた。


 彼女は、もう一度母の姿へ目を向けた。

 女性は、変わらず微笑んでいる。

 その表情は、優しく、温かかった。

 アリスは、手を伸ばしたまま動けずにいた。


 すると、七つの鏡印が微かに震えた。


 最初に届いたのは、恐怖に怯えながらも前へ進もうとした誰かの感情だった。

 続いて、欲望を否定されずに生きたいと願った者の声。

 与えられた役割から抜け出し、自分の名前で生きることを選んだ者の記憶。

 知らないことを知ろうとした者の好奇心。

 痛みを抱えながら、それでも生きることを選んだ者の決意。

 正しいとされた判決を疑い、もう一度証拠を見つめ直した者の祈り。

 そして、愛する人を守るために、その人の自由を奪わないことを選んだ者の思い。


 それらは、鏡界の各階層で出会った鏡姫たちの記録だった。

 アリスは目を閉じた。

 声が聞こえる。

 はっきりとした言葉ではないものもあった。

 けれど、そこには確かに、彼女たちが選んだ人生の重さが残っていた。


『怖くても、進んでいい』

『欲しいものを、欲しいと言っていい』

『誰かが決めた役目だけが、あなたじゃない』

『知らないことを、恐れなくていい』


 アリスの胸が熱くなった。

 続いて、懐かしい声が届いた。


『痛みを消さなくても、あなたは生きていける』


 セラフィナだった。

 第五階層で出会った鏡姫。


 安寧という名の檻の中で、人々の苦しみを消そうとしていた彼女は、最後に、痛みを抱えたまま生きることを選んだ。


 アリスは、彼女の顔を思い出した。

 あの時、セラフィナは確かに苦しんでいた。

 けれど、苦しみを消すことだけが救いではないと知った時、彼女は初めて自分の意思で未来を選んだ。


『アリス』


 セラフィナの声が、もう一度響いた。


『あなたは、誰かの代わりになるために生きているんじゃない』


 アリスの目から、涙がこぼれた。


 七つの鏡印が、静かに輝きを増していく。

 それは、管理機構が発する命令ではなかった。

 過去に出会った人々が、それぞれの意思で残した記録だった。

 最後に、いくつもの声が重なった。


『あなたはアストレアじゃない。アリスよ』


 アリスは目を開けた。

 視界には、まだ管理記録が浮かんでいる。

 母の人格完成度。

 必要な魔力。

 管理者人格の統合率。

 そのすべてが、冷静に理解できた。

 けれど、今のアリスには、それらの数値よりも大切なものが見えていた。

 目の前の母。

 そして、その向こうにいる仲間たち。

 アリスはゆっくりと手を下ろした。

 再構築された母が、不思議そうに首を傾げる。


「……アリス?」


 その声を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。

 会いたかった。

 ずっと、会いたかった。

 この手を握り、抱きしめてもらいたかった。

 母が死んでから、何度も夢に見た。

 自分がどれほど寂しかったのか、どれほど怖かったのか、そして、今は大切な仲間がいることを、伝えたかった。


 けれど。

 目の前の女性が、本当に母の意思を持っているのかは分からない。

 記録の中に、母の意識の一部が残っている可能性はある。

 しかし、欠けた部分を自分の願望で補い、都合のよい言葉を話す存在として完成させることは、母が生きた人生を取り戻すこととは違う。


 母は、自分の意思を持った一人の人間だった。

 娘を愛し、王家の計画に反対し、そのために命を奪われた人だった。

 その人の人生を、娘の寂しさだけで書き換えていいはずがない。


「……お母様」


 アリスは声を震わせた。


「私は、あなたに会いたかった」


 女性は優しく微笑んだ。

 アリスは涙を拭った。


「でも、あなたの人生を、私の寂しさで書き換えたくありません」


 その言葉とともに、彼女は《グラス・ヴェリタス》を掲げた。


 ――NOIR MIRAGE:STAGE TWO.

 【黒鏡世界:第二段階】


 ――PERSONALITY RECONSTRUCTION:ACTIVE.

 【人格再構築:実行中】


 ――COMPLETION:89%.

 【完成度:89%】


 アリスは、管理記録へ意識を向けた。

 母の人格を完成させるための命令。

 欠損した記憶を補う推定処理。

 アリス自身の記憶と価値判断を参照する統合経路。

 それらを、一つずつ確認した。

 そして、静かに命じた。


「……再構築を、停止します」


 黒い硝子の広間に、澄んだ音が響いた。

 母の姿を形作っていた光の糸が、ゆっくりとほどけていく。

 女性の輪郭が薄くなり、長い黒髪が光の粒へ変わっていった。

 アリスは唇を噛みしめた。

 止めたはずなのに、胸が痛かった。

 自分で選んだはずなのに、今すぐ命令を取り消したくなった。

 母の手は、まだ目の前にある。

 あと少しだけ待てば、触れられたかもしれない。

 アリスは、その誘惑から目を逸らさなかった。

 女性は最後まで微笑んでいた。

 それが、母の記録に残された表情なのか、管理機構が補ったものなのかは分からない。

 けれど、アリスはその微笑みを見つめ続けた。


「……さようなら、お母様」


 声が震えた。


「あなたのことを、忘れません」


 女性の姿が、静かに消えた。

 光の糸は黒い硝子の床へ吸い込まれ、広間には再び【ハートコア】の鼓動だけが響いた。

 アリスはしばらく動けなかった。


 胸の奥に、大きな空白が残っていた。

 それでも、その空白を無理に埋めようとは思わなかった。

 母の記録は、消していない。

 生前の言葉も、姿も、行動も、魔術的な人格情報の一部も、そのまま保存されている。

 いつか、誰かが新しい証拠を見つけるかもしれない。

 母が何を考え、何を望んでいたのか、今よりも正確に知る日が来るかもしれない。

 けれど、それまでは、分からないままでいい。

 分からないことを、自分に都合のよい答えで埋める必要はない。


 アリスはゆっくりと息を吐いた。

 視界に浮かんでいた管理記録が、少しずつ薄れていく。

 仲間たちの顔が、はっきりと見えた。


 ルシアンの傷ついた左腕。

 ヴェルトの疲れた笑み。

 ルミナスの心配そうな瞳。

 ハロルドの静かな表情。


 彼らは、数値でも、保護対象でもなかった。

 自分と一緒に、ここまで歩いてきた人々だった。

 アリスは涙を拭い、仲間たちへ向き直った。


「……ありがとうございます」


 ルミナスが駆け寄ってきた。


「アリス!」


 今度は、途中で止まらなかった。

 少年は勢いよくアリスへ抱きつき、両腕でしっかりと抱きしめた。

 アリスは驚いたが、すぐにその背へ手を回した。


「……苦しいです、ルミナス」

「知ってる!」

「少し、力を緩めてください」

「やだ!」


 ルミナスは笑いながら、さらに強く抱きしめた。

 アリスは困ったように息を吐いた。

 けれど、その顔には、確かな笑みが浮かんでいた。

 ヴェルトが帽子を指先で回した。


「いやあ、感動的だねえ。できれば俺も混ぜてほしいところだが、今の俺が抱きついたら、途中で消えちまいそうだ」

「ヴェルトは後!」

「ひどい扱いだなあ」


 ルシアンは小さく息を吐き、ハロルドは静かに目を伏せた。

 アリスは仲間たちを見つめた。

 自分は、母を取り戻せなかった。

 失った時間も、戻らない。

 それでも、今ここには、確かに大切な人々がいる。

 彼らと過ごす未来は、まだ決まっていない。

 どんな間違いを犯すかも、どんな悲しみを経験するかも分からない。

 けれど、だからこそ、自分で選びたいと思った。


 その時、広間の奥から静かな拍手が聞こえた。

 レオンハルトだった。

 彼は玉座の前に立ち、アリスを見つめていた。


「……見事だよ、アリス」


 その声には、皮肉も怒りもなかった。


「君は、母親を取り戻せる可能性を前にしても、自分の意思を守った。七つの鏡印を統合した管理者として、実に興味深い選択だ」


 アリスはルミナスから離れ、レオンハルトへ向き直った。


「……私は、管理者になるために選んだわけではありません」

「分かっているよ」


 レオンハルトは頷いた。


「君は、自分がアリスであるために選んだんだろう?」


 アリスは答えなかった。

 レオンハルトは少しだけ目を細めた。


「それなら、一つだけ聞かせてほしい」


 彼が指を動かすと、黒い硝子の広間に新たな映像が現れた。


 小さな家。

 薄暗い部屋。

 その隅で、幼い子供が膝を抱えている。

 子供の頬には痣があり、腕には古い傷が残っていた。

 隣の部屋から、大人の怒鳴り声が聞こえてくる。


 アリスは息を呑んだ。

 子供は震えながら、扉を見つめていた。

 逃げる場所はない。

 助けを呼ぶ相手もいない。

 ただ、次に扉が開くのを恐れている。


「この子は、明日も傷つけられる」


 レオンハルトは静かに言った。


「管理機構が介入すれば、暴力を防げる。加害者の衝動を調整し、子供を安全な場所へ移すこともできる。だが、君が人間の選択を尊重するという理由で介入を拒めば、この子は苦しみ続けるかもしれない」


 アリスは映像を見つめた。

 子供の小さな肩が震えている。

 その姿は、あまりにも現実的だった。


「……私は、誰かが傷つくことを望んでいるわけではありません」


「もちろん、そうだろう」


 レオンハルトは頷いた。


「けれど、望まなくても傷つく人間はいる。誰かの自由な選択によって、別の誰かの人生が壊されることもある」


 彼はアリスを見つめた。


「君は、母親の人格を自分の願望で完成させることを拒んだ。それは、君自身の選択として尊重したい」


 レオンハルトの声が、わずかに低くなった。


「だが、世界には、自分で選ぶ力すら持たない子供たちがいる」


 アリスは唇を噛んだ。


「……分かっています」

「本当に?」


 レオンハルトは静かに問い返した。


「君が守ろうとしている自由は、強い者にとっては尊いものだろう。けれど、弱い者にとっては、誰かの自由に傷つけられる危険でもある」


 彼は映像の中の子供へ目を向けた。


「僕は、その危険を減らせる。君が見た【完成世界コンプリート・エデン】は、ただの美しい夢ではない。実際に救われる命があるんだ」


 アリスは黙っていた。

 母の再構築を止めた時、自分は確かに一つの答えを選んだ。

 けれど、その答えだけで、世界のすべてを救えるわけではない。


 誰かの意思を尊重することと、誰かを傷つける行為を止めること。

 その二つは、必ずしも同じ方向を向いているわけではなかった。

 レオンハルトは、最後に静かに尋ねた。


「それでも犠牲になる子供を見捨てるのか」


 アリスは、映像の中の子供を見つめた。

 その問いから、目を逸らすことはできなかった。


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